9 涙のスイーツ
青空の下。小屋の軒先で、洗濯された白いワンピースがはためいている。
リコは室内で下着姿のまま、クローゼットの前で唸っていた。
目前にある引き出しの中には、以前の住人の服がそのまま仕舞ってあった。思いのほか清潔な様子に、リコは揺らいでいた。
「人の服を勝手に着るのはなぁ……でも、もう着る服が無いし、パジャマで外出するわけにいかないしなぁ」
そっと引き出しの服を出してみると、シンプルな黒いワンピースだ。
それも、これも、ほんの少しのデザイン違いで、全部黒いワンピースだった。以前の住人は黒い服しか着なかったのだろうか。
(魔女の服……)
という感想を飲み込んで、袖を通してみる。
ポプリの香りがして、着心地が良い。サイズもピッタリだ。
鏡を見ると、ふわっとした美少女は黒で締まって凛として見えた。
うん、と頷く。
「就職活動に一枚だけ、お借りします!」
さらにレオから貰った金色の鳴き笛を首から下げると、お守りのように両手で握った。
「虫に襲われたら、この笛を吹いて逃げるんだもん。大丈夫!」
気合を入れて、魔女小屋を後にした。
オリヴィエ村長に仕事を斡旋してもらうために、リコは遠距離を歩いて村長の屋敷を目指すことにした。
いざ小屋を出てみると、森は相変わらず巨大植物に覆われている。ビル群のような高い木々が視界を遮り、道があっても、まるで迷宮のようだ。
「えっと……多分、こっちだったよね」
ペロの背中に乗って覚えた道順は曖昧で、リコは慎重に歩いた。
森には彼方此方に蝶やバッタなどの虫がいるが、笛を手にしたリコが堂々と歩いているせいか、襲って来る気配はなさそうだ。
途中、大きな花を見上げて観賞したり、綺麗な落ち葉を拾ってみたりと、余裕も出てきた。
「こうしてみると、この世界は本当に自分が小人になったみたい」
少し小高い丘に出ると、畑や村が一望できる場所があって、リコは切り株に座って休んだ。
「王様のお城って、どこにあるんだろう? 村からは見えないのかな」
リコの頭の中でRPG的な曲が流れて、豪華なお城が浮かんだ。
「あんな場所でレオ君は働いてるんだ。凄いなぁ」
またレオのことを思い出してポーっとしだしたので、リコは頭を振った。
「だめだめ。今日は仕事を探すんだから、のぼせてる場合じゃないよ。家賃を払わないとあの小屋に住めないし、ご飯も食べられないんだから。まずは自立して、ゆくゆくはこの美少女の中身を探して、それで私はもとの世界に帰って……」
リコは具体的な先行きを考えると、漠然とした。はたして美少女の魂がどこかにあるのか、そして自分は本当にもとの世界に帰れるのか。考えるほどに不安になって、涙が出そうになった。
「めそめそしないで、リコ! 仕事を探すって言ったでしょ!」
漢らしく宣言して振り返った後に、ハッとした。
目の前には、三本の道がある。
「あれ? どの道からこの丘に来たんだっけ……」
似たような道の中から、なんとなく真ん中を選ぶと、リコは曖昧な記憶を辿って坂道を降っていった。
深い森の中で、「はぁはぁ」と自分の呼吸だけが聞こえる。
しばらく歩き続けても景色はずっと変わらず、迷子になっているのは確実だった。
「真ん中の道じゃなかったんだ。村長さんのお屋敷も、自分の小屋もどこにあるのかわかんないよ~っ、うっ、ゲホゲホッ」
リコは半泣きで喉を摩った。
「喉……渇いた。お腹すいた……」
手ぶらで小屋を出たリコは笛しか持っておらず、縋るように笛を握って高い木々を見上げた。枝の上に黒猫が飛んで来るような、都合の良い妄想をしてしまう。
が、その時。
「ブブブブ……」
聞いたことのある妙な音がして、リコは身体が硬直した。自分を追いかけて来た、あの羽虫の集団の羽音だ。
「ひっ、どこ!?」
リコは笛をいつでも鳴らせるように構えつつ、周囲を見回した。
すると目前にある藪がガサッと音を立てて、予想外の物が飛び出して来た。それは虫でも動物でもなかった。
「うっ宇宙人!?」
全身が白い布で包まれた人の形のそれは、顔の部分が網になっているだけの宇宙人のようだった。
リコは予想外の遭遇すぎて悲鳴も出せずに、後ろに転んで尻餅を着いた。
「お!? お嬢ちゃん、大丈夫かい!?」
宇宙人は予想外に、お年寄りの声を発した。
理解が追いつかず絶句しているリコの前で、宇宙人は自らの顔の布を剥がした。
「こんなとこで、いったい何してんだい? 危ないよぉ」
布の下からは白髪のお爺ちゃんが出てきた。中身が優しそうなお年寄りなのでリコは安堵したが、お爺ちゃんの後ろには、恐ろしい物が大量に宙に浮いていた。
「ひゃーー!? は、蜂ぃ!!」
数十匹はいるであろう蜂の集団が、お爺さんの後ろを埋め尽くしていた。「ブブブブ」と、羽虫とは比にならない大きな羽音が共鳴していた。
リコが咄嗟に笛を鳴らそうとすると、お爺さんは後ろを振り返り、呑気に蜂の集団に向かって手を振った。
「ほら、おめぇたち、巣に帰んな。お嬢ちゃんが驚いてるだろ」
すると蜂たちは名残惜しそうに踵を返し、向こう側へと飛んでいった。
笛を鳴らさずに済んで、リコはようやく冷静になれた。お爺さんが着ている服はテレビで見たことがあった。蜂に刺されないための防護服だ。
お爺さんはリコに手を貸して立たせると、まじまじとリコの顔を眺めた。
「こりゃあ、見たことないお嬢ちゃんだなあ。うちの養蜂場に何か用かね?」
「よ、ようほうじょう?」
「ああ。蜂蜜買いに来たのかね?」
リコは人に会えた安堵で号泣しながら、自分が迷子であることをお爺さんに伝えた。
カランコロン、カランコロン、と首の鈴を慣らしながら、仔牛は夕方の森をリヤカーを牽いて歩いていく。リコは柔らかな牧草の上で、蜂蜜の瓶を抱えて揺られていた。
どうやら迷子になったリコは村の端っこまで彷徨っていたようで、養蜂場のお爺さんは楠の近くまで行く農家の人に頼んで、リコをリヤカーに乗せてくれたのだ。しかも、喉がカラカラのリコに蜂蜜の瓶までくれて。
リコは木々の向こうに沈んでいく夕陽を眺めながら、蜂蜜をペロペロと舐めていた。時折涙の味がするそれは優しい甘さで、リコの疲れと落ち込みを癒してくれた。
「仕事を探すどころか、迷子で遭難なんて……私、この世界で簡単に死んじゃうのかも」
巨大な草木が茂る鬱蒼とした森で、それは冗談と思えない予測だった。
「私が異世界で死んじゃったら、お母さんも結花もお父さんも悲しむ。この美少女の子にも、申し訳がないよ」
リコは真剣な顔で涙を拭うと、決心するようにお守りの笛を握った。