30 掌のルーレット
熱い血が手首から肘に伝わるのを感じて、リコはどっと出る脂汗とともに、腰を抜かしてへたり込んだ。右手首の感覚は無い。
「ふん……こんな物付けやがって、邪魔くせぇ」
意地悪君が握っている拳を開くと、バラバラ、ガシャン、と砕けた石が地面に散らばった。
呆然としているリコが右手を見下ろすと、酷いアザの手首の上で、血まみれの枷のブレスレットが粉々になっていた。
「あ……枷が……」
その破片をジャリッと踏みつけて、意地悪君はリコに近付いた。
月夜を背景に、表情が真っ黒で読み取れない。
「次は左脚だ。俺から逃げた罰を与える」
リコの全身から髪が逆立つほどの嫌悪感が沸き出し、怒りで叫んだ。
「嫌っ!!」
右手を突き出して掌を相手に向けると、パキッと空気が固まる音が鳴った。
意地悪君は咄嗟に一歩飛び退いて、リコの手の先を凝視した。
「何だ…?」
キシ、キシ……。
リコの体の前に、幾何学模様のような薄い結晶ができている。
リコ自身も、水色に輝くその物体が何だか分からず戸惑った。
意地悪君が少し離れた所から掌の衝撃波を与えると、その結晶は簡単に壊れた。
パリン。
意地悪君もリコも、あまりの呆気なさに拍子抜けした。
「はぁ? 何だこれ」
パキッ,パキッ……。
今度は二枚の繋がった結晶ができた。
リコが掌を翳すかぎり、何度も現れるようだった。
「うぜえ、チンケな能力使いやがって!」
仰る通り。素手でも簡単にそれは破壊されて、次々と粉々になっていった。
特にリコを守るでなく、触れるだけで儚く散っていく結晶。だけどそれはキラキラと輝いて、とても綺麗だった。
意地悪君が苛立ち、リコが呆然と破片に見惚れているうちに、リコの真後ろに、最小限の音を立てて大きな物が降り立っていた。
意地悪君は驚きで大きく後退し、リコの前には、さらに誰かが降り立った。後ろ姿でも、リコにはすぐにわかっていた。
「レオ君……」
レオは振り向かないが、リコに声をかけた。
「空からキラキラと光る物が見えたので、ここにリコさんがいるって、わかりましたよ」
リコの瞳からブワッと涙が溢れて、視界が歪んだ。
「レ……」
呼びかけの途中で首根っこを黒猫に掴まれて、リコは宙に持ち上げられた。
獲物を持って行かれると察した意地悪君は咄嗟に衝撃波を黒猫に向かって放ったが、それはレオが持つ何かによって弾かれていた。
ガィン!
大きな金属音が鳴って、鉄の塊が煙を出して凹んでいる。
それは大きなフライパンだった。
「……え?」
何故フライパン?
というリコと意地悪君の疑問を他所に、黒猫はその場から飛び退き、離れた岩の影に逃げ込んだ。
「誰だ? てめぇ……」
意地悪君は混乱しつつも凄み、レオを上から下まで確認している。
王国の紋章を付けた制服は国王軍の物かと、警戒しているようだ。
レオはフライパンを投げ捨てると、懐から長い棒を取り出しながら、自己紹介をした。
「僕は宮廷専属の配達員ですよ」
言葉は丁寧だが、獣のような目をしている。
意地悪君はレオの不可解な行動を警戒して、先制して衝撃波を連続で撃った。
レオの胸と頭と、胴に。
ガン、ガン、ガィン!
と鈍い音がして、凹んだ大鍋、中鍋、小鍋、が地面に転がった。
レオは右手に長い棒を持ったまま、血溜まりの地面を見下ろし、もう一度、意地悪君を真っ直ぐに見た。明らかな殺意が篭っていた。
意地悪君が再度衝撃波を撃ったのと同時に、レオは直進で突っ込み、棒で相手の側頭部をフルスイングした。
意地悪君は真横に宙を浮いたまま吹っ飛んで、山肌の岩に体を打ち付けた。ズリズリ、と弛緩して崩れる体が地面に横たわり、壁には大量の血が擦り付けられていた。
「ひいっ」
黒猫に襟首を咥えられて、岩陰に避難しているリコは口を覆った。
ただの棒を使った結果が、予想外に凄惨だった。
「……てめぇ……盾を何個持ってやがる……」
横たわったまま必死で睨む意地悪君は、辛うじて意識があるようだった。
満月を背に、こちらを見下ろすレオの表情は意地悪君に見えないが、レオの左手には大きく立派な盾がある。
「国王軍の騎士の盾は、やっぱり頑丈だな」
レオは小さな声で独り言を呟いている。
右手の棒を月明かりに翳すと、それは不気味に黒光りしていた。
「これは超硬度を持つ、木材の切れ端。珍しいでしょ? 巨人族に貰ったんですよ」
気軽に道具の説明をしているレオを、意地悪君は唖然として凝視した。
レオはさらに小声で囁いた。
「もっと面白い物を沢山持っている。変態貴族の城からくすねた、拷問器具だ。何を使って、お前の身体をバラバラにしようか?」
意地悪君はレオの信じられない言葉と光景に、目を剥いた。
盾と棒は一瞬で消えて、両手にはルーレットのように、道具が現れては消え、現れては消え、高速で点滅しているように見えた。
波打つ形のナイフ、トゲだらけの鋏、邪悪な刃型の鋸、異常なサイズの肉叩き……。
あらゆる拷問器具が現れては消えるその向こうには、真っ黒な丸い背景がある。星々が瞬く宙は奥深く、無限に思えた。
まだ器具が選ばれていないのに、意地悪君は絶叫していた。
リコの避難する距離からは、レオが小声で何を話しているのか聞こえず、不安で思わず声をかけた。
「レオ君!」
レオはリコを振り返り、いつものように優しく微笑んでいる。
足元では、白目を剥いた意地悪君が、失禁して横たわっていた。




