2 いきなりピンチ
グロい、デカい、怖い!
3拍子揃った恐怖に、莉子はこれまでの人生でないほど、凄い速さで岸に向かって泳ぎ出した。浮いている水草を毟り、地面の雑草を手繰り寄せる、滅茶苦茶な泳法だ。
幸い岸は近く、莉子は必死で地上に這い上がると、すぐに後ろを振り返った。
真後ろを追いかけて来た巨大魚は岸の淵で、名残惜しそうにパクパクと大口を開閉している。
「わ、私はお麩じゃないですから~!」
ぜえぜえと激しく息を吐きながら捨て台詞を叫ぶと、莉子は改めて周囲を見回した。
緑でいっぱいの、長閑な森が広がっている。見上げる木々はやはり、天を突くような巨大さだ。
「ここはいったい、どこなの? 小人の国??」
莉子はずぶ濡れのまま池のほとりで突っ立っていたが、埒があかないので歩き出した。川から流れて池に辿り着いたなら、森から出て町を探すしかない。初夏の季節のお昼間で、森の中でも暖かく明るいのは幸いだった。
「すみませ~ん、誰かぁ……」
莉子は恥を忍んで声を出しながら歩いたが、森の中には誰もいないようだ。歩いても、歩いても、森の中はデカい物で溢れていた。莉子の背より大きな草木に、巨大な石ころ、ビルのように高い木々……。
「私、本当に小さくなっちゃったのかな。大きいプリンを作るだなんて企んだから、罰が当たったのかなぁ。ううう、結花ぁ」
とうとう弱音を吐いて親友の名を呼ぶが、結花がここにいるはずがないのはわかっていた。だって、川に落ちたのは自分一人なのだから。
「ブブブブ」
結花の返事の代わりに変な音が聞こえて、莉子は振り返った。
大きな羽虫が、まるでこちらを観察するように宙を飛んでいた。周囲をよく見れば、大きな葉の上には巨大な黄金虫がいて、地面には巨大蟻が、頭上には飛行機のように厳ついトンボが旋回していた。
巨大なのは魚や植物だけではない。苦手な虫だって大きいのだ。莉子の心臓は緊張で再び高鳴りだしていた。と同時に、こちらを観察していた羽虫は急接近してきた。
「ひえ!?」
さらに2匹、3匹と羽虫は増えて、まるで食べ物に集るように莉子を突つき出した。
「きゃーーっ!」
羽虫たちは逃げる莉子を集団で追いかけ、髪を掴み、体に体当たりしてくる。
「た、食べ物じゃないってば! 助けてー!」
誰もいない森の中の叫び声は、大きな羽音にかき消されるようだ。羽虫は莉子を食べる気ではないようだが、好奇心のままに追い続けた。
莉子はパニックで森の坂道を転がり落ち、茂みに突っ込み、見知らぬ道を爆走した。暗い獣道を突き進んでいるのはわかっていたが、羽虫への恐怖で冷静にはなれなかった。
ようやく羽虫を振り切れた時には、暗くじめじめとした森の奥まで迷い込んでいた。
「はぁっ、はぁっ、やっと逃げられた?」
後ろを確認しながら走っているうちに、莉子はロープのような物に足を引っ掛けて、派手に転んだ。
「わっ!」
やけに粘着性がある白い紐が、足に絡まっている。さらに前方に付いた手にも、ベタベタとした物が絡んでいた。莉子は四つん這いの姿勢のまま、自分が糸状の膜に張り付いているのだと気づいた。
見上げると、空中の高い所まで、艶々と光る糸で幾何学模様が描かれている。
「え? これ……蜘蛛の巣?」
信じられないほど大きな蜘蛛の巣に、リコはかかっていた。
羽虫が去ったのは、きっと蜘蛛がいるからだ。最悪な展開に脚が震える。
子供の頃に、蜘蛛の生態を図鑑で読んだ記憶がある。
蜘蛛は捕食する獲物に噛み付いて毒物を流し込み、相手の体内をドロドロに溶かして、チュウチュウ吸ってしまうのだと。そのドロドロ、チュウチュウのくだりがあまりに恐ろしくて、莉子は蜘蛛が苦手だった。
不格好な四つん這いのまま恐怖に震えて、その震えが蜘蛛の巣全体に伝わっているのがわかる。私がここに来ましたよ。と、まるでお知らせしているようだ。
「だ、だめ、早く逃げなきゃ……」
手足を糸から引き離そうともがいているうちに、頭上の葉影から、スーッと長い脚が降りて来た。莉子は背筋を凍らせて、顔を上げた。
数メートル先で、艶かしい脚の巨大な蜘蛛が巣に降り立ち、八つの目で莉子を凝視していた。警告色の黄色と赤のお尻を毒々しく主張しながら、こちらに近づいて来る。
莉子は頭が真っ白になって、絶叫した。
大声に驚いたのか、蜘蛛はピタリと動きを止めた。莉子は自分の絶叫と同時に、背後で何かの高音が共鳴しているのに気付いた。
その音が遠くから近づき、真後ろに感じた瞬間、風とともに巨大な物が降り立って、莉子は強い力で蜘蛛の巣から引き剥がされ、空中に舞っていた。
蜘蛛の巣はあっという間に眼下に遠く離れて、足元の地上で小さく見える。
浮いたと思った直後に激しく柔らかい物の上に落ちて、まるでジェットコースターのように下降し、また上昇した。
莉子は何が何だかわからず叫び続けたが、自分は今、木々の枝を渡り飛ぶ大きな黒い獣……多分、巨大な猫の上に乗っているのだと分かった。そして自分を後ろから抱きかかえて巨大猫の手綱を握っているのは、自分と同じ年頃の少年だった。
「こんな危険な場所で、何してるんだ!」
それは自分が知りたい、と思いつつも、莉子は巨大蜘蛛からギリギリのタイミングで救出され、しかもこの無人の森でやっと人間に会えたのだと理解して、安堵で号泣した。