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耳をふさいで
幼い頃の記憶。
母と一緒に入浴、という時のものだから、まだ未就学だったか。それとも一年生くらいか。
理由をまったく覚えていないけれども、私は拗ねていた。母は努めて明るく振舞い、何か楽しい話題をみつけてきて口を開いていた。
聞きたくない、といって、私は耳をふさいだ。
母は笑顔でしばらく話していて、湯舟につかる私に視線を向け、黙った。
それからもう何も言わなかった。
風呂を出て、私は意地を張ったまま寝床についた。
それから何日経ったのか。私は「ママ、あの時の、どんな話やったん?」と訊いてみた。
「いつの話? んー、せやなぁ。もうだいぶ前のことやし、覚えてへんわ」
「思い出せへん?」
「うん。もう、忘れた」
たった、それだけの記憶。
二十代の母が、小さな息子の機嫌をとるためにしたお話の内容なんて、きっと他愛ないものだったろう。もし聞いても、すぐ忘れてしまうような。
しかし、あの時の私は、耳をふさいでしまっていた。母がくれた精一杯の言葉を拒んだ。
だからその記憶だけが今も残っていて、二十年以上経っても時々、心にとげを刺す。きっと忘れない。