やーノン
痛い話がダメな人は本当ダメな内容です。要注意。
中学生の頃、野球のグラブを修理するため革紐を買ってきた。当時は腰を怪我していたので野球の練習は全く出来ず、このように道具を触るか「実況パワフルプロ野球」のゲームで遊ぶなどして精神の安定を図っていた。
紐を交換するにも当時は携帯電話など所持しておらず、よってカメラは無いので、一度グラブを解いてしまうと紐の通し順がわからなくなる。難しい所は予めイラストを描いておいて、作業を進めていった。
それでも気が付くと深夜になっている。家族はもう寝静まったようだ。今日のうちに何とか全て終わらせたい。十代あたりの私は特段、中途半端を嫌った。
しかし、専用の工具を使っているのだが、正直言ってあまり質の良いものではなく、先端が大きいのでなかなか紐を出してくることが出来ない。より右腕に力を込め、左手を突っ張り、手前に向けて一気にグイと引き抜く。瞬間的に抵抗が無くなり、工具は勢い飛び出す。
そのまま、先端が右の眼球を突き刺した。
目の奥に異常な痛み。異物感。あまりの衝撃に、グラブなど放り出し、私は両手で顔を押さえた。それでも依然ぶら下がり続けている金属の重み。
失明という概念が脳裏を過る。15年の人生で最悪の出来事だと言えた。これでは両親に申し訳が立たぬ、真っ先にそれを思った。見えていたものが見えなくなることは、心底怖かった。失明。失明。失明。
「うう……やーノン」
ぐちゃぐちゃになった感情のなか、初めて口から零れた言葉が「やーノン」だった。
「とっとこハム太郎2 ハムちゃんず大集合でちゅ」というゲームボーイソフトに出てくる「ハムご」なる言語で「いいえ」を意味する。妹が買ってもらったばかりのゲームで、当時は家族の皆が楽しんでいたのだ。
「やーノン、やーノン、やーノンやーノンやーノン、やーノンやーノンやーノンやーノン」
ぼろぼろに泣き崩れながら、それでも家族が起きてしまわぬよう声を抑え、やーノンを連呼した。
「やーノン……やーノン……やーノン……」
震えながら、ゆっくりとした動作で、私は突き刺さった工具を眼球から引き抜いた。ニチャという鈍い音がして、どろどろのゼリー状の何かを伴い、温かくなった金属が出てくる。
「やーノンやーノンやーノンやーノンやーノン」
右眼は糊付けしたように殆ど開かない。しかし、流れてくるゼリー状を必死に掌でニチャニチャ抑えていると、そのうち右側から少しだけ、希望の光が差してきた。どうやら完全に失明しているわけでは無いらしい。
「やーノン……失明……やーノン……」
少し冷静を取り戻す。工具があれだけ深く刺さったということは、うまく眼球を避けて鼻筋のあたりに刺さっていたのかも。何にしても、まだ終わってはいない。感染等を避けるために眼を洗浄しなければ。私は顔を押さえたまま、下階の洗面所へよろよろと歩き出した。
「やーノン、やーノン、イエーっちゅ、イエーっちゅ、イエーっちゅ」
いつの間にか発する言葉は変わっていた。イエーっちゅとは「はい」を意味するハムごで、やーノンの対義語である。私は失明しない。私は失明しない。必死に言い聞かせながら、どれだけの時間だったろうか、私は流水で眼を洗い続けていた。
「失明……やーノン」
結果としては、私は失明することも視力を落とすこともなく、そして家族にも深夜の出来事を知られずに、次の朝を迎えた。その陽光は眩しく、己の強運と愚かさを私は思い知るのだった。うれぴっプル。




