匿名の闇
私は携帯電話よりもインターネットを先に知った世代。
中学生の頃、田舎ではあったが、家庭の方針により携帯電話を所持している同級生もいた。ちなみに学校としては禁止だった。
私の場合は持ち歩く煩わしさを想像して、自発的には欲しがらなかったので、強制的に与えられたのが三きょうだいの下ふたりと同時。私が大学に入ってからだった。
一方、家庭の事情で工業高校に入った際に伯父がデスクトップPCを私のものとして購入、インターネット回線も引いてくれたので、そちらは普通に使っていた。
よって毎日、匿名掲示板「2ちゃんねる」で罵詈雑言を目の当たりにしながら、しかし携帯電話は持ったこともないという高校生だったのだ。
そんな時期に、うちの母が自身で使う携帯電話を契約してきた。
我が家としては目新しかったので、みんな興味津々。素早くボタンを押すミニゲームなんか家族で遊んだ。
ある日。私が学校から帰ってくると、なんだか母がしょんぼりしている。
「どうかしたん?」
「なんかな、姉ちゃんのメールアドレス登録しよ思て、がんばって文字打ってんけどな。どっか間違えてたみたいやねん」
「ほな繋がらへんやん」
「違うねん。ぜんぜん違う人から返事が来てん。似てるアドレスの」
「ほんで?」
「相手は男の子みたいで、わたし平仮名しか打てへんし、『ごめんなさい まちがいです』みたいに何回も送ってんけどな。向こうからグイグイ来るねん」
「全然知らん人やのに」
「せやねん。『メル友になりましょう』とか『一度会いましょう』とか『どこ住んでますか』とか、しつこいねん」
「今も来てる?」
「それがなぁ、その度に返事しててんけど、向こうから『何歳ですか』って来たから、わたしもだんだん面倒くさなってきて、正直に『さんじゅうはち』って言うてん」
「そんで」
「『死ね』って返ってきた。それっきり」
以上の理由で拗ねているのだ。という母に、当時の私は大笑いした。ものなんだけれども。
母の生きた青春時代といえば、中学から高校生の時分、父が経営する喫茶店の看板娘として働いていた。
それもあって様々な層に人気があり、自宅の固定電話に他校の生徒や、よくわからないオッサン等から、恋のメッセージが度々届いていたらしい。
それはそれで恐怖だが、母の時代は基本的に正体を晒して突撃する蛮勇の主だったのに対し、ケータイ、インターネットは匿名の世界である。
そんな母にとって未知の場所から、いきなり「死ね」と撃ってくるのは、さぞ衝撃的だったろうと思う。
その出来事も、しばらくは母の持ちネタとして笑い話になっていた。
匿名性やプライバシーというのは今後も議論がなされ、それぞれの時代によって、それぞれの落としどころを探していくことになるのだろう。
私自身は、だいたいのことを「隠さない」ほうが楽に生きられるので、この実話もまあ堂々と書いている。
他方、隠すほうが楽に生きられる人もいる。
その事実がある以上、「匿名であること」は決して否定されるものでは有り得ず、人はその闇に紛れて、悪事をはたらくこともあるだろう。
技術が進んだというだけで、それにつられて人間が変わるわけではない。




