三.《「行ってらっしゃいませ」》
漸く自己紹介します。
薄暗い部屋の女性たちが入ってきた壁とは反対側の方へ少年が歩いていくので、付いて歩く。
近づくと、石の壁ではなく、カーテンのように天井から床まで、白い布が襞を模して垂れていた。
少年が向かうとその布が何も無いのに開いていく。
幾重にもある布がふわぁっと動いていくのは、映画で観た魔法のようで、正直、感動した。
更には、その先に現れた扉が誰もいないのに勝手に開いていくと、その隙間から白いものが舞いながら部屋へと入ってきた。
まあ、服装から想像出来たさ、外は寒いんだって。でも、なんなの、さっきの散々降りた階段のあった場所は暖かかったのに、急にこんな寒いとこに居るって、どうなのよ!
こいつも、女性たちが傅くような立場の人間なの?何なの?そりゃあ、少年爺さんらしいけど、けども、だ。少しくらい説明があっても良くないか?
あ、
俺も自己紹介してないわ。
「なあ、少年」
俺の呼びかけに少年が振り返った。
「今更なんだが」
「何?」
「俺の名前は陸。鬼頭陸だ。少年、君の名前は?」
一瞬、惚けた顔をしたが、少年は笑顔になった。
「皆は大神と呼びます。名前はイーサン。またはヒビキです」
「よし、ヒビキな。宜しく」
手を差し出したら、その手を不思議そうな顔をして首を傾げながら見てきたので、無理矢理ヒビキの右手を取った。
「握手だよ、握手」
またヒビキが笑った。
「宜しく、リク」
手を握った俺が馬鹿だったのか。
目の前にいたヒビキの顔が見えなくなり、足元がフワッとしたと思ったら、真っ白な世界が飛び込んで来た。
体に当たる風が強い。すぐに踏ん張ったが、風の勢いに押されて後ろへ転がされた。
何回か回って衝撃とともに止まった。
どうやら木にぶつかったみたいだ。
パラパラと落ちてきた雪を払って起き上がる。
見上げる視界の先に針葉樹林の葉が風に動かされている。
「何処まで転がるの?」
転がった原因が顔を見せた。
「何か行動する時は、一言言ってくれないか?」
立ち上がりながら、ヒビキに注意をしたものの、肝心のヒビキは笑うばかり。
「君、やっぱり人間?」
さっきも言ってたな。なんのことだ?
「人間だよ。なんか違うのか?」
「まあ、ね。後から話すよ。さ、もう少し先まで歩くよ」
真っ白な視界の中、進む先をどうやって判断しているのか、迷う様子もなく、ヒビキは歩き始めた。
ヒビキの小さい身体が風に飛ばされるんじゃないかと心配になったが、しっかりした足取りで雪道を歩いていく。むしろ、俺の方がバランスを崩しかけながら歩いてるな。気をつけよう。っと、思ってるそばから、滑りそうになってる。クソ。
幹に手をつき、顔を上げる。黒と白と青に飛ぶ息が白い。それが帽子の端に掛かって、帽子も白くなっていく様子が分かる。
白い世界に、赤い花が動いている。
地面の白は真っさらで、動物の足跡一つさえ見えず、ヒビキの通った跡が道のように伸びて行く。
ヒビキのグィグィと踏みしめる音と、俺の息遣いが煩いほど響いていた。
不思議な空間だ。
そうして、俺は立ち止まっていた。
日本はもう無い。雪も、大木も、空もここにあるのに、俺の知る国は無いという。そのことが何となく事実だと分かってくると虚しくなってきた。軍自国のように、国に忠誠を誓ったとかではないが、やはり、自分が自分である要素に日本という国は必須だったのだ。俺の存在が、日本の有無によって、左右されるものだとは思ってもいなかった。
「奈津、何の用だったんだ?」
ポロっと溢れた言葉。
先輩の手伝いが済んだら、いつもの喫茶店で待ち合わせをしていた。
いつもとは違う声の彼女に、何も思わなかったわけじゃない。ただ、電話で聞ける話なら、わざわざ約束などしないだろ。付き合って二年と少し。三つ離れた奈津は大学の運営する研究所で研究をしていた。もしかすると、移動の辞令が出たのかもしれない。別れ話なら、聞かないで済んで良かったかも。でも、もし、違う話だったら?
推測したって、今、奈津はもう居ないんだ。
もう・・・会えないのか?
「ナツって何?」
目の前にヒビキが立っていた。
「・・・何、じゃない。俺の彼女の名前だ」
キョトンとした顔でヒビキは首を傾げた。
「リクの彼女?彼女とは、女性を示す言葉だよね、リクの彼女って、どういう意味?」
「お前、日本語分かってないのか?」
「ん、分からない言葉もあると思うよ。ただ、僕が生きてきた中で必要な言葉ではなかっただけ」
どんな世界なんだ、ここは。
「人の名前なんだね。リクにとって大切な人ってこと?」
「そうだな」
「そうか」
ヒビキが笑う。
「僕の大切な人の名前はツカサだよ」
言うや、ヒビキはクルッと回って再び歩き始めた。
俺も大人しく歩くことにする。
ツカサ、エレベーターを知っているかもしれない人物の名前。
誰なんだ?