イルミネーションと"大自然"
とある遊園地のイルミネーションが綺麗だと、風の噂で聞いた。昔から遊園地とは縁がなく、そもそもインドア派である私は外出すら滅多にしないので、遊園地に行くという決断に至るまで長かったが、ようやくその重い腰を持ち上げて行くことにした。季節は春先。冷たい風が吹くと、マフラーが恋しくなる頃の事だった。
行楽地に向かう人々の顔はなんとなく浮かれている。かくいう私もその一人で、目の奥にはドキドキがあったのだろう。バスが終点に着き、降りるとすぐ観覧車が見えた。あいにくの曇り空で、あまり綺麗には見えなかったが、私の目的はあくまで夜に輝くイルミネーションなので、支障はなかった。時間は5時を回ったぐらいであり、暗くなるにはもう少しかかりそうだった。仕方がないので、しばらく遊園地をぶらつくことにした。
案の定というか、一人だとやはり浮く。大抵が三、四人、最低でも二人組のカップルを作っているので、一人でうろつく私は他人の視線が気になった。女子校に通っていたために男との付き合いが皆無であったので、カップルを見ても憎しみすら湧かず、「末長くお幸せに」という感想しか出なくなっていた。遠い存在、ずっとそう思っていた。
さて、この遊園地のアトラクションで最も人気があるのはジェットコースターだ。なにやらすごい高さから落ち、とてつもないGがかかるらしく、絶叫好きにはたまらないのだと。また、この時期だと遊園地全体が見下ろせるという理由からも人気があるようだ。どうせなら乗ってみたいところだが、あいにく勇気がない。私みたいな臆病者には観覧車で十分だろう、そう思い、私はジェットコースターを後にした。
もともと付いていたイルミネーションは、辺りが暗くなるに連れて一層目立ち、また遊園地をカラフルに染めていった。この電気代はどのくらいかかってるのだろうとか考えてしまう私はおそらく負け組、心の中でそう笑い飛ばした。
甘い匂いにつれられて、気がつくと片手にクレープを持っていた。夕飯前に何をしてるんだと思いつつも、「いや、間食と夕飯は別腹である」とか訳の分からない理論を打ち立てクレープにかぶりついた。甘みすらも、久しかった。甘みに余韻を感じつつ、さらに時間は過ぎていった。
ようやく空が完全に暗くなり、目を痛めつけるぐらいのイルミネーションの光が私を襲った。園中に咲く桜もライトアップされ、むしろそっちの美しさに私は感嘆していた。本末転倒とはまさにこのこと、何をしにここに来たんだと自分に問いかけ、私は桜から離れた。
月並みな感想だが、イルミネーションは凄かった。光のトンネルはそれこそ幻想的で、ジェットコースターのレールに施されたイルミネーションも空中に浮く道みたいで、それはそれは綺麗だった。
途中、噴水ショーなるものがやっていた。無人で、15分間隔で行われるそれは、そこそこの人を集めていた。盛大な音楽とともに、水が舞い上がったかと思ったら、霧が発生したりシャボン玉が出てきたりで、見ていて飽きなかった。それもまたライトアップされていて、水に反射する光はこんなにも綺麗だったのかと思った。
だが、心には妙なつっかかりがあった。感動しているはずなのだが、月並みの感想しか出てこない。なんとなくこれは、ゲームで美しいステージに入った時の感じと似ている。
これは、私が子供の頃にも感じたことがあるものだった。日本の美しい風景、自然を見に行くことになった私の学校は、はるばる京都までやってきた。清水寺には人が溢れかえっており、中々景色が見れなかったが、人と人との間をすり抜け、ようやく見た景色に私は感動していた。言葉すら失い、その光景にうっとりしていた。紅葉の美しさ、自然の美しさが見に染みた。
しかしだ。帰り道の途中で、私は見てしまった。山に入り、この風景を保っている人達に。
あぁそうか、このつっかかりはここにあったのかと思った。
このイルミネーションも、あの自然の風景も、本質的には一緒のものなんじゃないかという答えに辿り着いた。違いという違いは、人の手が入ってるかどうかが見えやすいかそうでないかだけで、どちらも調整された景色なんじゃないかという事に。
イルミネーションは人工的な景色だ。そしてあの自然の景色も、厳密に言えば人の手によって調整された、人工的な景色だと言える。だからいつも綺麗な状態を保ち続けられているのだ。
私があの日見たかったのは、手入れが入っていない景色だったのかもしれない。私たちが、自然から力をもらう事がなかなか出来ないのは、作られた自然に逞しさなんて無いからなんじゃないのだろうか。
近々、遊園地に行って感じた事です。最後の締めが微妙になったのは許して下さい。