帰る引き際
物を隠す場合、かえって隠さない方が見つけにくいことが多い。
「あ、ちょっとマズいかも」
その不幸は今日のエールが非常に自分好みだったことが原因だった。
エールは味や薫りが日に日に変わるため「今の内にたくさん味わっておこう」なんて考え、ついつい3杯も4杯も飲んだのがいけなかった。
……よし、まずは落ち着いてこれからのことを考えよう。
カゴに残っている袋はあと4つ、最後の部屋までもそんなに離れてはいないし、まだ時間には余裕はある。
それなら今すぐ下に戻っても残りの配達を済ませてもそうは変わらないはず。
なら先に配達を終わらせて、空き袋の回収は後でしよう。
二度手間にはなることには変わりありませんが、半分だけでもきっちり終わらせたら気分的にも違うはずです。
まずは1袋、扉を開けてその先の小室にある袋を回収し、新しい袋を扉にかけます。
それから返事がないことを祈りながらドアノッカーをガンガンと2回鳴らし、
……よし、反応はありません。
開けた時と同様に扉をそっと閉めて、回収した袋は外階段側の扉にかけておきます。
同じことをあと3回、たった3回繰り返せばおしまいです。
そう自分に言い聞かせ、それ以上は考えないようにしました。
床におろしていた籠を背負おうと床に座り、肩掛けに手を通して立ち上がろうとしました。
ですがその時お腹に力を入れたのがいけなかったのか、ちょっと刺されたような痛みの波がお腹を通りました……
すぐにその波は収まったのですが、籠を運ぶのはあきらめざるをえず、その場に置いていくことにします。
籠の中から残りの袋を肩からかけ、右手で作業箱を、左手で灯りをもって一歩ずつソロリソロリと、しかしやや駆け足気味に階段を上っていきます。
その足取りは鳥が飛び立つときのように勢いよく足をあげ、羽毛が落ちるように静かに足をおろします。
まだ時間に余裕はあります、たぶん普通に仕事を終えてもギリギリ間に合いそうな程度には我慢ができるはずです。
ですがそんなときほど身体は嘘をつくことをだれもが知っています。
だから極力、体に刺激を与えないように動くことだけを考えました。
そして「カンカン」、とノッカーを叩きます、反応はありません。あと2回。
「コンコン」、何か声が聞こえた気もしますがたぶん気のせいでしょう。
独り言を叫ぶ住人もちらほらといます、さぁ次で最後です。
灰色の扉を音が立たないようにそっと開きましたが、そこにあるはずの袋がありません。
中で何かあったのかしれないため、まずはドアノッカーを叩きます。
反応はなく、内扉をそーっと開いて、「大丈夫ですか?」と声をかけました。すると、
「足をひねってしまって歩けないから、ここまで持ってきて欲しい」と声が返ってきました。
そうなると私は持っていかないわけにはいかず、作業箱はその場におき、灯りで暗い足元を照らしながら慎重に部屋の中を進んでいくと、灯りの下で本を読んでるお婆ちゃんがそこにいました。
お婆ちゃんは読んでいた本を机の隅に片付けると、「肩を貸すように」と私を手招きします。
私はそばに駆け寄り、ベッドまでの移動を手伝いました。
お婆ちゃんはベッドに腰掛けたので袋を渡し、それから足元にあった古い袋を回収します。
パンに飲み物を注いでいるのをみて忘れていたものをちょっと思い出してしまい、背中に汗がぞわっと湧いてきたのを感じます。
まだ、大丈夫です。私は強い子だからまだ耐えられます。
しかしそんな我慢が顔に出てしまっていたらしく、「大丈夫?」と心配されました。
私はとっさに「大丈夫です大丈夫です」と答え、それから「痛み止めの軟膏を持ってきます」と伝え、部屋を後にします。
介添えした際にお婆ちゃんの腕が当たり、ちょっと刺激されて
しまいましたが何とかなるはずです。
外階段へ出ると、まずは息を整えます。
これで配達は終わったこと、後は下に降りるだけ。
ですが、回収した袋だけは途中まで持ち帰ることにします。
転ばないように足元に気を付け、道中でおいてきた袋3つを無事に回収し、籠へと放り込みます。
籠を持って降りることも考えはしましたが、これ以上の無理はやめたほうがいいでしょう。
作業箱と灯り以外はその場において、降りていきましょう。
きっとお母さんもこの判断はわかってくれるはずです。
普段も長いと感じるこの外階段、時折いつまで歩いても終わりがないのではとさえ思うことがありますが、今日は特にそんな思いが強くでてしまいます。
うっ、、、ま、まだ大丈夫です。ちょっと昔のことを考えて、意識を他にそらしましょう。
私がハウスメイドとして働き始めたころはこの階段はずっと同じ風景だと思っていて、今どの階にいるのかわからなくなってましたね。
ですが今では扉に掛けられている布の柄を見れば大体の階はわかるようになりました。
先ほど通りすぎた「水瓶を抱いた羊」は私が担当する範囲の真ん中らへんです。
ですから長いと感じていた道程はすでに半分、それともまだ半分というべきなのでしょうか?
おっと、いけません。思い出さないようにしていたのでした。
安心したときに悪魔は付け入るといいます、油断してはいけません。
それまでは気にしてませんでしたが、気が付いたら内股で、しかし結構な速さで階段を下りていました。
作業箱はカチャカチャと音を立て、灯りは十分な道先を照らせず、私はただ一心に下へ下へと降りていきます。
魚の頭にタコの足の旗が見えました、これで残りはさっきの半分です。
ふと、「さっきのお婆ちゃんのところでトイレを借りれば良かった」と後悔しますが今更です。
ちょっと急ぎすぎたのか足元がふらつき、あわてて壁に手をつきました。
その際に手放した灯りはカランカランと転がっていきましたが、無事による光っているのをでちょっと安心します。
ここまでくれば段差は殆ど変わらないため暗いままでも歩けなくはありませんが、灯りを拾います。
……ただ、落ちてる物を拾うのって屈まなければいけないんですよね。
いっそ蹴って運ぼうかと思いましたが、さすがにそれは壊れてしまうでしょうから、ちょっと通り過ぎてから、膝を曲げてお腹に力をいれないように拾いました。
……うん、カゴを置いてきて正解だったみたいですです。
しかし、あの時点で降りて来なかったのは間違いだったかもしれません。
額に汗を浮かべながら、たまにため息を漏らし、一歩、また一歩と慎重に階段を降りていきます。
ちょっと前までなら痰壷がありましたし、もっと前なら空室があったのでちょっと考えが及べばこんな苦労はいらなかったのに、なぜ私はこんな辛い目にあっているんでしょう?
それにしても先輩たちはどうしてたんでしょうか?
同じような体験をした先輩はいたはずですが、話題になったことはないはずです。
仕事箱にもこの状況をどうにかできそうな道具はなかったはずですし、ブラシやハサミ、ナイフに海綿、タオル、えっと、それからロウ……
ん、あぁそっか、なんとなくわかった気がします。
いえ、違うような気もしますし、わかったらいけない気もしますが、他に使い道はなさそうですし、きっとそうなんでしょう。
それに後でこっそりと洗えばバレたりしないはずです。
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そうですよね、仕事箱を持ち帰って洗ってたりしたらバレますよね。
死にたい