文献再現:白身の泡仕立て
彼はたまたま2人の友人と出会い、3人で飯屋に入った。
日替わり定食を3つ注文してから彼はふと考え、2人へ先に注文したことを詫び、そして自分と同じものでいいか?と尋ねた。
2人は笑いながら了承すると彼は9人前に変更だと店員に告げた。
時折、住人の方々は本に書かれている内容を私たちに再現させようとしてきます。別にそれがなんら問題ない内容であればいいのですが、しばしば正気なのか疑いたくこともあります。
今回持ち込まれた本は古い料理書の1ページの写し、ちょっとした料理への下拵えの手順が記載されていました。
私はそのレシピの考案者である方の名前も噂もよく知っています。
曰く、コックの親鶏。曰く、料理の王。曰く、料理に信仰を捧げた者。
彼が見つけたとされる料理は万を越え、その多くが姿形を変えて今も貴族たちに提供されているといいます。
しかしそんな彼が誰かに伝えずに消えた料理も数多くあり、今回持ち込まれたそれもその一つだと言われました。
料理に携わる者としてはまたとない機会ですが、彼の別のあだ名が頭の端をちらついて仕方ないのです。
曰く、メイド殺し
彼の考案した料理の中には手間を無視されているものが多く、あまりの過酷さに気絶したキッチンメイドは星の数ほどいるとも言われてます。
彼の下で働き続けられた使用人は1人を除けば最長でも半年しかもたず、しかもその殆どが1ヶ月たたずして辞めていったといえばその名前が嘘ではないことがわかるはずです。
それもそのはずで、彼自身が今でいう七戦鬼の一角を担うような常識外の体力派で、そんな自身を基準にしている調理法だから当然ともいえましょう。
そんな彼が肌身放さずに書き記していたとされるレシピ集、大図書館塔において最優先捜索本の1つに指定されている『調理親書』は、その存在が報告された時点でページごとの断片となっており、全てのページが世界中へと散逸されていたそうです。
なお、それを散逸させた犯人はその後の調査によって彼自身が死の直前に、世界を旅しながらバラまいていたことがわかったそうです。
私はその写しにさっと目を通します、そこで使われている言葉に古い呼び名も少しありますがどんな調理を要求しているかは一目瞭然でした。
材料も卵の白身だけで、調理工程もたったの2つ。
それならば手を出せるか、と言われても逆に身構えてしまうのは私が以前、彼のレシピ再現に一度携わったことによる心の傷なのかも知れません。
あの時は『あくをとりながら煮立たせずに野菜が崩れるまで煮込む』、というレシピにコックの協力で丸2日格闘することになりました。
しかし緊張の糸が切れてしまったのでしょうか、煮崩れしたのを確認して綺麗な上澄み液を別の大釜へと移し、下茹でしていた肉をいれてスープを作ってしまったのです。
本当はあともう2回、同じ工程をふんでから肉を入れるべきでした。
しかし作り直すだけの時間も気力も体力も残されてはいなかったので、私たちはそのままスープを作り提供いたしました。
結果、工程が三分の一に省略されましたが、その味に文句をつける人はおらず、むしろ誰もが口々に褒め称えたのです。
ですが私たちとしては彼の料理の失敗作でしかなく、はその賞賛を素直に喜ぶことはできず心に深い傷のようなものを受け、コックはそのまま旅に出てしまいました。
私はその傷を治すためにもその依頼を受けました。
まず倉庫から傷みかけの卵を10個ほど持ってくると、スプーンを使って白身と黄身をわけ、白身だけを集めてスプーンでかき混ぜていきます。
チャカチャカとスプーンとボールが当たる音を聞きながらレシピを再確認します。
『卵の白身を固い泡のようになるまでかき混ぜる、以上』
私はときおり休みながら、ですが腕を休めることなく長い間かき混ぜ続けましたが、白身はわずかに泡立ち白く濁ることはあっても『固まる』という表現には程遠く、むしろ白身が持つあのドロリとした状態が完全になくなってまるで液体みたいになってしまいました。
私は何度となく挑戦してはみますが思った通りには仕上がりませんし、いったいなにが悪いのか検討もつきません。
周りで見ていた他の子たちも挑戦させてみますが腕が痛くなるばかりで、『メイド殺し』の名前が健在なのを確認させられました。
その固い泡の白身ができたところでどんな料理に使えるかは私には想像もつかないのですが、住人の方の話によれば再現できれば20個以上のレシピに繋がるとのことですので、このまま闇に埋もれてしまっていいかも知れません。
メモ:フォーク2本使ったらそれっぽい物ができた。ですがあのスープと違ってあれは料理の下拵えのため始まりでしかないので、馴れるまでは黙ってることにします。