ある住人の回想
ある有名な絵師が生涯で最期の傑作を描き上げたところで息を引き取った。その絵を見た貴族や専門家たちは誰もがそれをほめたたえた。
「この絵は世界の明るさを表している、なんて素晴らしいのだ」
「いやいや、この世界の空虚さを表している」
「何事にも絶対に必要な物はない、常識にはとらわれないことの大切さを教えてくれる」
そこにとって世界中の書庫は棚の1つでしかない。そんな事は世迷いごとだ、愚者から集金するため騙し文句だ、と切り捨て生きてきたが、実際に来てみればそれも過言ではないと思う。
なんせ部屋を埋め尽くす程の棚に納められた本の1冊1冊が現本かそれまで底本として扱われてきたような本にとっての底本がそこかしこにあった。写本の際に修正された誤字脱字、不適切として書き写されなかった著者のメモが消されることも変えられることもなくそのままの形で残っている、これには心底驚かされた。そういった細かな記述こそに真実が多く含まれている、しかし殆どの写本家はくだらぬ正義を振りかざしてそれらを修正するのだ。
もっと早く訪れればよかったと思わずにはいられないが、若かりし頃に戯れで尋ね提示された対価は到底払えるような代物ではなかった。あれから40年、ここの使いを名乗る者がやってきて提示された対価も決して安いものではなかったが、自分の手元に残されたあの城を処分すればどうにか捻出できなくはなかったし、先に塔入りを果たしていた旧友から何度か受けていた手紙を見て心が揺り動かされていた。
そうして私は内容を何度となく確認をし、神前にて契約を結んだ。子や孫らはそんな私に騙されていると心配する声をあげていたがなんのことはない。私に残されたあの城を奪われるのが悔しいだけなのだ。もちろん私とてそれに気がつかないほどの愚か者ではないと自負していたが、しかし契約が済むと潮が引くかのように私のもとを去っていく様を見せられては、そのあまりにも露骨さに怒りを通り越し笑わってしまった。
魔王を名乗る妖しげな男が走らせる粗末な荷馬車での旅は存外悪いものではなかったし、夜盗や魔獣が現れてはひとたまりもないと思っていたが、そんな心配なぞどこ吹く風と何事もなくここへ到着した。
私に与えられた部屋の棚に多少の空きが見られたが、他の住人の誰かが借りていったとのこと。その品揃えに驚きながら持ち込んだ本を使って空白を埋めようとしたが徒労でしかなかった。そしてメイドが私の本を運び終えると、何やら汚らしい袋を渡してきた。中身は夕食だと言われ、私は袋を開けるように命じたがメイドは従うことなく仕事へと戻ってしまう。私はその態度に憤慨しながらも袋の中を確認するが、そこに入っていたのは今ではすっかり食べ慣れてしまったあの石のように焼き上げられたパンと木皮みたいな干し肉、乾燥したチーズと水袋があるだけで、グラスやナイフといった食器類は一切なかった。
家にいたメイドたちに与えていたものに比べれば幾分かマシだが、人間が食べるような物ではないと私は考え食べずにいた。それからしばらく本棚を物色していると扉がノックされ、扉を開ける者はおらず私自ら出迎える。そこにいたのは顔の半分を面で隠した男、名前をアスターと名乗った。
アスターは来たばかりの私に酒があるから飲もうと部屋から連れ出した。食堂には私達しかおらず、席に着くと水がなみなみと注がれた桶と、エールが注がれている木のジョッキが出てきた。私は「こんな吐瀉物は飲めない」と言って、ワインと取り替えさせた。出てきたワインは決して上等な物とは言い難い風味であったがエールに比べればマシだ。アスターはまず私の移住に乾杯を、それから私かアスターとの出会いに乾杯をする。そのアスターという家名には幾つか覚えがあるが目の前の男には見覚えがなく、それをさぐりながらのカードに興じて夜を明かした。
目が覚めた時、アスターが私の本を読んでいた。私にとっては一番の稀覯本だったそれは、ここにある本に比べればちょっと古いだけの本にすぎない。アスターは私が起きたことに気がつくと本を棚へ戻し、そのままなにも言わずに部屋をあとにした。
それから旧友との再会を果たしたり、アスターが私を誘ううちここの暮らし方にも否が応でも馴れてきた。未だ見ぬ運営者が掲げている必要と有用だけを残し不要と無用を除している姿勢、腹を満たすにはパンがあればいい、喉が渇けば水があればいい、本を読むには明かりと本があればいい、それに一度馴れてしまえば今までの生き方にどれだけ贅肉があったかをわからされた。 旧友が私にしたように私もまた手紙を書くことにしよう。ここには本を読むための自由がある、聡明な彼女ならその一文だけでノコノコとやってくるに違いない。
彼の死から10年後、開封された遺言からタイトルが見つかった。
「専門家の正体」