【バカ≒天才】論
去年の十月。齢二十四にして、生まれて初めて『スラムダンク』を読んだ。
買い揃えたのはかなり前。買った理由は「“自称漫画好き”である私が『スラムダンク』を読んでいないだなんて」。そう思ったからだ。
だって例えば「“自称クラシック好き”がベートーヴェンの『第九』を聴いたことがない」だなんて聞いたら、誰もがオカシイと思うだろう。……イヤ、その例えはあまり上手くなかったか。ベートーヴェンくらい、音楽の授業かなんかで誰もが耳にするだろう。
じゃあ、これならどうだ。「“自称映画好き”が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観たことがない」。「“自称仮面ライダー好き”が『仮面ライダークウガ』を観たことがない」。「“自称アメコミ好き”が映画『アイアンマン』を観たことがない」。
つまり『』内のそれは、そのジャンルの中でも代表的な作品であって、その“ジャンル好き”だと名乗るのならば、それを観て(知って)なければ恥ずかしい、「モグリだ」といわれてしまうような作品なのである。それは『スラムダンク』においてもそうであって、そのことはこの文章を読む人――「小説家になろう」の利用者層からして恐らくほぼ皆が日本人で、且つ漫画も読んでいる――には、理解してもらえることだろう。
さて。そんな理由で『スラムダンク』を買い集め、ようやく一気読みできたわけだが、今日ここでその感想を一から書いていたのでは切りが無い(まぁつまり、それだけおもしろかったわけだが)。よって、今日は一つだけ。私が『スラムダンク』を読み、学び得たことを一つだけ、書こうと思う。
それは、タイトルにもある【バカ≒天才】について。
『スラムダンク』とは――と私が今更これだけ知名度の高い作品について説明するのもなんだかマヌケな話だが――要するに元ヤン高校一年生、桜木花道が、入学早々一目惚れした女の子に「バスケは好きですか?」と質問されて、「はい」と即答。その娘に気に入られようとバスケットボール部に入って活動するうちに純粋にバスケを好きになっていって、技術的にも上達。チームメイトとの交流も深めつつ、みんなで全国大会を目指す。というお話である。(ざっくり)
その男、桜木花道。彼がこの物語の主人公であり、なんとも魅力的なキャラクターなのであるが、この男を一言で説明するならば――【バカ】なのである。
真っ赤なリーゼントに切れ上がった太眉が特徴的なこの男。元々身体能力は高く、喧嘩はめっぽう強かった。身長は百八十後半。体格にも恵まれていて、バスケがどんどん上手くなってゆくのも納得である。……のだが。特徴的なのはその内面。良くいえば純粋。明るく朗らか。悪くいえば単純。あまりものを考えず、突っ走るタイプ。短気で生意気。凶暴粗暴。自信家で、すぐ調子に乗る。“自称天才”。それが彼である。
先にも述べたように、彼は物語の中で、めきめきバスケが上手くなる。Wikipediaによると、「……才能を開花させてゆく」とある。しかし! 私は思う。彼にはバスケの『才能』があったのか? と。
そもそも、私は『才能』といったものが疑わしく思える。『天の神より授かりし運命の才』。そんなもの、果たして実際あるのだろうか。無神論者である私には到底信じられない。
思うに、彼はそれがバスケでなく、どんなスポーツであっただろうとも上手くなったと思う。その高身長と喧嘩で鍛えた身体能力を活かし、それが野球であったとしても、サッカーであったとしても、だ。私がそう思えてならないのには、訳がある。それは彼が“自称天才”の、【バカ】だからである。
彼は事あるごとにいう。「天才ですから」と。アホ丸出しである。しかし、それ故に彼は突っ走る。「自分は天才なんだ」と頑なに信じ、信じ込んでいる為、決して諦めない。チームメイトの為、好きな女の子の為、しかし何より負けず嫌いな自分の為に。身体が壊れる寸前まで練習をやめない。常識を知らない為、型にはまらない。失敗を恐れない。【バカ】だ。しかし、そういった常軌を逸した、努力を怠らない人間を、我々はこうとも呼ぶのではなかろうか。【天才】。
「バカと天才は紙一重」と、何処かで誰かがいっていたが、まさにこの事かと。そう。桜木花道は『バスケの才能があった』のではなく、純粋なる【バカ】であるが故に、一周回って【天才】だったのだ。イヤ、彼は純粋なる【天才】とは言い難い。【天才モドキ】。【限りなく天才に近いバカ】。【努力型天才】。【バカ≒天才】……?
そこで私は、自分はどうであったかと思い立ち、自らの人生を顧みた。――普通で、マジメな人生だった。人並みに勉強し、人並みにダラけ、人並みに悩んで、躊躇した。謙虚で、目立つことが嫌いで、恥ずかしいことはしなかった。就活をしていた時なんかは、妙に思いつめた。それほど頭も良くないくせに、バカでもなかった。――まぁ、普通を望んでいたのだから、当時はそれで良かった。だが、今はどうだろう。
「小説家になりたい」だなんていっている。いい大人なのに。バカである。しかし、まだバカになりきれてないのだ。やはり人並みに悩む。「自分は才能がないんじゃなかろうか……」。「やっぱりなれないんじゃないか……」。←そ れ が 。ダメなのである。
人は、自らの意思で【天才】になることはできないと思う。実際、遺伝子的に恵まれた【天才】はいる。これは現実。どうにもならないことである。
しかし。どうだろう。自らの意思で、【バカ】になることはできるんじゃないだろうか。まさに、桜木花道のように。
何かに躊躇したとき、思いとどまってしまったとき。傷付き、悩み、ネガティヴになってしまった時。桜木花道のことを思い出す。「彼のように……!」。明るく、悩まない。純粋であろうとする。“自称天才”を名乗ってみる(それは自らを追い込む行為で、引き下がらない、故に前に進む力になるだろう)。自信を持つ。そして、やることはやる。やりきる。『諦める』だなんて言葉を頭の中の辞書から消去する。だって、彼は絶対にいわないだろう。『諦める』だなんて。想像してみてほしい。桜木花道が『諦める』といっている場面を。
――こうして、フィクションの物語が現実に影響してゆくのだと、つくづく思う。このようにして最古のフィクション物語である神話や宗教物語ができ、人々に勇気や希望を与え、伝わり、今でも残っているのだと。(神話や宗教を信じている人を馬鹿にするつもりはない。ただ、自分はそう思うのだというだけのことであるので、そこはつまらん戯言をいっているなぁと、気にしないでもらいたい)
いつか、バイト先のパートさんがいっていた。「旦那がね。ドラマを観て泣く私にいうのよ。『お前よくそんな作り物のお話で泣けるな』って」。
私はこの言葉が――二年くらい前に聞いた話だが、頭から離れない。聞いた時、「確かに」と思った。「どうして人は作り物のお話で涙を流すのだろう」。信じるのだろう、と。
信じたいのだ。理想なのだ。人はフィクションの物語に希望を見出す。「桜木花道のように――」。それこそ私なんかは正義のヒーローが出てくる物語がすきだ。「仮面ライダーのように――」。それは、現実に影響を及ぼす。人をより、理想的に変える。直接背中は押してくれなくとも、支えてくれるのだ。それにより、最後は自分で力を振り絞って、一歩を踏み出す。
最近私は、(本なんかは読まずに)こうして自己啓発を図っている。人は、自分で本気で変わりたいと思えば、変われる生き物なのだ。自らもフィクション物語を書いていこうと思っている人間であるので、こういったフィクションのキャラクターに勇気付けられるのも、うれしいものである。励まされる。書こう、という気持ちになる。
意味のない賢さは脱ぎ捨てて、純粋な目でもって物事を捉え、常識にとらわれず、常軌を逸して【バカ】になろう。今までやってこなかった、今までならやらなかったであろうことを、あえてしよう。そうして、少しでも【天才】達に近付きたい。そう、思うのである。
最後に。こんなことを自らでもって考え、ここまで辿り着けるだなんて……。
私って、天才かも。




