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カナブン

 蝉の声降りしきる、夏の夜のことでした。


 駅を出て少し歩き、駐輪場に着いた私は、額に滲んだ汗を拭き取る元気も無いほどにくたくたでした。別に、力仕事をしてきたわけではありません。立ち仕事をしてきたわけでもありません。一日中、座っていました。けれども、一日中座っているというのも、いざ体験してみると苦痛なものです。肩がこり、ため息が漏れます。できれば、一日中寝ていたいものですが、税金を払わなくっちゃあなりませんから、そうもいきません。


 疲れきった私が自転車を出そうとすると、籠からぶぅんと、唸るような羽音がしました。ぶぅん、ぶぅんと、しきりに鳴くのです。蝉ほど大きなものではありません。蜂ほど小さく、細かいものでもありませんでした。私は籠を覗きました。すると――


 そこには、一匹のカナブンがいました。


 カナブンと聞くと、皆さんどんな印象を受けますでしょうか。私は、嫌いではありません。虫とはいえど、あの茶色い羽の嫌われ者というよりかは、カブト虫に近しい印象を、私は持ちます。その翠色の羽は、タマムシとまでは言いませんが、綺麗なものです。


 私は、その籠に落ち、焦ったようにぶんぶん飛ぶカナブンを哀れに思いました。羽を持ちながらも、垂直に飛び上がるのは苦手なのか、それとももう弱ってしまっているのか。籠から出ることができないようなのです。


 私は左手を差し伸べて、カナブンをすくい(・・・)出そうとしました。怖いわけではありませんでしたが、なかなか上手く掴むことができません。なんせ、力の加減を間違えてしまえば、逆に傷付けてしまう恐れもあるからです。


 手に込める力を微妙に緩めて、私は、水中の金魚を掬うような動きでついに、カナブンを捕まえました。そうして、籠から出すことに、成功したのです。


 ――が。


 妙なことに気がつきました。カナブンとともに、掌には、真っ黒で粘度のある、イカ墨のようなものが、へばりついていたのです。


 それは、カナブンの糞でした。


 カナブンは逃げるように、飛び立ちました。掌に残ったのは、糞のみ。


 しかし私は、冷静でした。虫の糞など、臭いわけがないと思ったからです。


 前に私は、カラスに糞を、頭上に投下されたことがありました(忘れもしません。高校二年生の時の、二月十四日。チョコを一つも貰うことのできなかった、惨めなヴァレンタイン・ディです)。その時も、手で拭って臭ってみたものですが、なんと驚いたことに、無臭でした。


  『なるほど。人間のように、肉を食べないだろうからな』。と、妙に納得したことを覚えています。


 私は背負っていたバックパックを下ろすと、自転車の荷台に置き、ポケットティッシュを取り出しました。拭うと、左手の薬指と小指には、落ちにくい万年筆のインクのように跡が残りました。


 丸めたティッシュを近くのゴミ箱に捨てると、そこで私はようやく、手の臭いを嗅ぎました。


 臭い。


 なんとも臭い。臭っせぇ。


 驚きました。まさかそこまで、カナブンの糞が臭いとは思いませんでした。紛うことなき、アンモニア臭です。カナブンの糞は、ちゃんと糞らしい糞だったのです。


 私は傷付きました。心を傷付けたのです。私は、ただ救ってやりたかっただけなのに……。


 でも、思ったのです。現実に毎日を生きていると、人間同士の間でも、そんなようなことが起きることがあります。善意でもって老人に席を譲ったのに、「私は年寄りじゃあない」と言って、叱られてしまった。なんて話、あなたも聞いたことがあるのではないでしょうか。


 世の中には、他人の善意を素直に受け取れない人がいます。私はそんな人には、なりたくないと強く思います。それが、自分にとって結果的に有益ではなかったとしても、他人の善意には、善意で応えたいと思うのです。


 駐輪場のすぐ隣には公園があって、水場もあったのですが、私は自転車に跨って、真っ直ぐ家に帰りました。


 そして家に着くと、石鹸で丁寧に、手を洗いました。


 水気を布巾で拭き取ると、私はまた手を臭いました。


 ちゃんと、石鹸の良い匂いがしました。

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