残酷な選択
『人間、誰からも叱られなくなったら終わりだ』
そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
誰が、どこでいっていた言葉なのか。テレビで――もしくはラジオで聞いたのか。それはわからない。
だが、私は最近。この言葉を、実感した。
私が、叱られなくなったわけじゃない。叱らなくなって、実感したのだ。
先日。私がアルバイトをしている、書店でのことだ。
私はそこで働かせてもらって、もう七年になる。それだけの年月いると、ただのアルバイトも『責任者』という立場を任せてもらえるようになる。正直、面倒な仕事も増えるのだが、給料は普通のバイトよりかは――ちょっとだけ――多く貰える様になる。
私としてもそれだけ長く雇ってもらっているので、恩義を感じずにはいられない。だから、少しでも店の役に立ちたい。そんな思いで、責任者をやっているのだが……。
バイトに一人、問題児がいる。T氏というその青年は大学三年生の二十一歳で、普段は人当たりのいい青年である。しかし、ちょっとばかし――抜けている部分がある。不注意によるミスが、多いのだ。
それは普段、小さなミスとして現れるのだが、半年に一回のペースで、とんでもないミスをやらかす。……まぁ、ミスは人間、誰にだってある。私自身、ミスはする。だから私も、あまり叱る様なことはしたくないし、実際、しない。ただ、何度も繰り返される様であれば、それは話が違ってくる。――彼は、三度目の大きなミスを、やらかしたのだ。
日曜。その日後半のバイトメンバーを待っていたのだが、彼が来ない。待ち、電話し、LINEしても、返事はない。しかたなく、その場にいたバイト一人に残ってもらうことにし、私は休憩を返上して、店を回した。――数十分後。彼から店に、電話がかかってくる。
「君、何してるの? 今日入ってるでしょ?」
「えっ、今日、俺入ってるんすか?」
……結論からいうと、彼は仮決定のシフト表を見ていたのだ。それでは確かにその日、彼は入っていないことになっている。
『情状酌量ノ余地アリ』。怒るに怒れなくなってしまった私は「気をつけてほしい」と一言添えて、電話を切った。
しかし、なんだか私の心はモヤモヤとする。思い返してみれば、今までの彼の失敗は全て『情状酌量ノ余地アリ』で許されてきたのだ。だが、それは全て、最終的には彼の不注意で起きたミスだったのだ。彼が注意さえすれば、防げたはずのミスだった。
仮決定のシフトがバックヤードに貼られて、その数日後に本決定のシフトが貼られることは、バイトの間では常識だった。だから誰もが、その本決定のシフトをコピーしたり、写真を撮り直したりする。
なのに、彼はしなかった。彼だけが! だいたい君は、もう三年目だろう! 私の次に歴の長いバイトメンバーだろう! そんな風に、一人で心をカッカさせていた。さぁ明日彼が来たら、どう叱ってやろうか。
――しかし。考えた結果、私はもう、叱ることをやめることにした。
理由は、こうだ。
まず、彼には今まで大きなミスをするたびに、叱ってきた。『怒る』のではなく、どうしてミスが起こってしまったのか、何が悪かったのかを再確認し、もう今後同じことが起こらない様に注意するよう、諭すのだ。それを、何度もだ。
だが、ミスは再発する。つまり、もう何度いったって、彼は変わらないのだ。自論だが、『人は自分で、本気で変わろうと思わなければ、変わらない』。私が何をいったところで、彼は変わらないのだ。
叱る人間は、それによって『相手に嫌われてしまうかもしれない』というリスクを背負いながら、時間を使い、頭を回し、言葉を選び、エネルギーを使ってまでも、相手、自分、環境のために、その人を叱る。これには『覚悟』と、『力』。そして――クサい言葉かもしれないが、『愛』が必要だ。
簡潔にいえば、私は彼に対する『愛』をなくしたのだ。「もう彼には何をいっても意味がないだろう」と、見放してしまったのだ。
もしかしたら彼は今後、その不注意によって、取り返しのつかないミスをするかもしれない。それによって、誰かを傷つけてしまうかもしれない。でも、もう構わない。おそらく、もう彼は年齢からいって、あと少ししたら、書店でのバイトをやめるだろう。そうすれば、私はもう彼とは会わない。彼がそのミスをやらかした時、その場に私はいないのだ。だから、私には関係ない。他人なのだから。――そう、思った。
もし彼が、私の六歳離れた弟であったなら。私は伝わらないかもしれないと思いながらも、
何度だって叱っただろう。弟は家族であり、愛しているからだ。たとえ嫌われようとも、喉が枯れても、言葉を尽くして、叱ったはずだ。それが家族間の、無償の愛だ。彼の、より良い将来のために――と。
だが、私はT氏を見放した。他人だからだ。『私はなんと冷たい人間なのだろう』と、思った。私にあともう少し、慈しみの心があれば――。
――次の日。彼は書店に現れた。怒られるとばかり、思っているのだろう。彼の顔は堅く、緊張で張り詰めた表情をしていた。
「昨日はスミマセンでした」
そういう彼に、私は微笑みかけた。
「いいよ」
赦された、と言わんばかりに、彼の表情がホッと、明るくなる。
私が『残酷な選択』をしたことを、彼は知らない。




