アワレなり、書店員木下秋の最期
何から話そうか――。
少し前に書店を舞台にした小説を書いていたけれどね、まぁ、フィクション作品にはよくあることだと思うんだけども、あれは少し、美化された世界だったね。
っていうのも。
じゃあ例えばある日曜日の僕の一日。
八時に僕は起きると、顔を洗ったり着替えたりなんかして朝の時間を過ごす。九時に家を出て、コンビニでおにぎりを三個、カップラーメンを一個買って、仕事場である書店へ向かう。
着くのは大抵九時十五分頃。そして、開店時間の十時までに準備をするわけさ。日曜は新刊の本が入ってきたりはしないから、一人でも準備できるわけだね。
シャッターを開ける時、僕は気付く。そのシャッターの下、マンホールが濡れているんだ。――昨日は雨なんか降っていない。鍵を開け、手で触れる箇所に気をつけながら、開ける。
鍵の閉められた自動ドアとシャッターの間に身体を滑り込ませるように中に入る。するとね、異様な匂いが立ち込めているんだ。
アンモニア臭。――つまり、濡れていたのはここいらに住み着く浮浪者の立ちションな訳さ。なんでわざわざここでしていくのかは、わからないけれど。シャッターの内側は日光で蒸されていて、そりゃあもうクサイ。最悪の気分さ。しかも、割と良くあることなんだ。またか、って感じだ。僕はシャッターを開けて――この時、腕にピチョンって、水滴が落ちて来た時もあったよ。あれは最悪だった――その自動ドアの近くにある地面に埋め込まれた蛇口を捻ってね、ホースで水を撒くんだ。シャッターも洗ってね。天気の良い日曜。みんなお休みだってのに、朝一番に僕はそんな仕事をするわけ。書店員の仕事の一番目が、小便を洗い流すことって、意外じゃないかな? 僕はそんな街に住んでいる。
そして真っ暗な店内を進み、バックヤードに入ると、おにぎりを二個食べる。昼休憩までにお腹が空いちゃうからね。シンとしてるから、音楽を流す。首でリズムを取りながら、食べるんだ。一人だからね。
食べ終わって、水を飲む。僕はタンブラーを持っていて、それにウォーターサーバーの水を入れるんだ。金庫を開けて、お金をもってレジへ行き、電源と十万円を入れて回る。……そんな風に、開店準備をするんだ。メンバーが揃ったら朝礼。オハヨウゴザイマス。連絡事項を伝えて、レジ配置を伝える。各々で開店作業。開店と同時に、お客さんがやってくる。横柄に、「注文してる本があるんだけど」と、言ってくる人がいる。僕は「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」って言う。でも、心の中ではこう思っているんだ。(てめぇの名前と注文してる本のタイトルくらいは言えねぇのかよ)ってね。……イヤなヤツだろう? でも、もちろん口にはしないよ。仕事だからね。
そっからはずっと、立ちっぱなし。休憩の一時間(三十分ずつ、二回取る)を除いて、ずっとね。閉店が二十時だから、九時間くらいか。正直、かったるくて仕方ないよ。店員だってレジにパイプ椅子でも持って来て、座っていいと思うんだけれどね。でも、それは店長も、お客さんだって許さないんだ。「座ってるだなんて! 仕事中なのに!」。常識が許さないんだ。下っ端の店員なんてずっと突っ立ってりゃいいんだ、って。みんな思ってる。言わないだけでね。心の内で、思ってるんだ。てめぇらは、「イヤ、僕たちは老人だからね。足腰が悪いんだから、しょうがないだろう」って顔してる。
批判を恐れずに言うとさ、僕は老人が嫌いだ。大っ嫌いだ。汚いんだ、あいつらは。あらゆる意味でね。狡猾で、立場が悪くなると怒るか、「僕たちは老人なのに」って顔して被害者ぶるんだ。そして「最近の若い者は……」だの、「これだからゆとりは……」だの言って、自らの若かった時代の話を二百パーセント美化して繰り返し、繰り返し、繰り返し聞かせる。そして、「僕ももう八十になるけどね」。知らねーよ。んなこと。聞いてねぇし。でも、そんなこと口にはしないよ。「見えないですねぇ!」って。「お元気なんですねぇ!」って。……そう言うことを、強いられてるんだ。言わなきゃいけないんだ。それが仕事なんだ。嘘をつくことがね。
思うんだけど、この社会ってのは、または会社ってのは、上手に嘘を付くことのできる人を求めているんだよね。面接なんてのはその最たるものでさ。いつもは着ないスーツを着てね、それも模様があるやつはダメ。真っ黒じゃあないと。頭も綺麗にしてさ、背筋をピンと伸ばして、人の話をウンウンしながら聞いて、ニコニコするんだ。作り笑いは重要なんだ。僕もよく言われる。「顔がこわいよ。接客は笑顔で」。……つったってさぁ。僕は人相が生まれつき悪くってね。美しくない顔をしてるんだ。ほんと醜いよ。でも、僕だってこんな顔で生まれてきたくはなかったよ。素の顔が笑顔みたいな人いるだろう? ああいうのは、羨ましいなぁと思うよ。生まれつき顔の美しい人は、羨ましい。僕も整形手術でもしないと接客業は難しいかなぁ? してきたら、褒められるかな。「そう! その笑顔だよ!」……ってね。
そんな老人達に付き合いながらさ、午前中の仕事を終えると、休憩に入ってカップラーメンを食べる。おにぎりも。そんで、イヤホンを両耳に挿して、大音量で音楽を聞くんだ。ほんとは責任者としていつ何が起きてもすぐに対応できるように、音楽なんて聴かない方がいいんだけどね。でも、聴かずにはいられないんだよ。イライラしててね。それに、日曜の書店なんて基本暇だからね。緊急事態なんて、そう起こらないんだ。
そう、暇だからね。やる仕事なんて特にないんだよ。僕らバイトは受け持ってる担当部門なんてのもないからさ。することは特にない。そのくせ店長や僕より偉い責任者は「自分で仕事を見つけてやるんだ」なんて意識の高いことを言うんだけどさ。都の最低賃金ギリギリで雇っといてよく言うよ。必要以上の仕事なんて求めないで欲しいな。そもそもね、書店の仕事なんて基本おもしろくないよ。おもしろそうな本はたくさんそこらじゅうにあるけどね。読んでいいわけじゃあないし。おたくらは仕事がたくさんあって忙しそうなんだけど、僕たちに任せられる仕事でもないのさ。だからそんなに抱え込んで「忙しい忙しい」言ってるんだよ。……そう。僕はしょうがなく責任者の仕事をやってたんだけれど、べつに信用されてたわけじゃあないんだ。他にやる人がいなくって、しょうがなくなんだ。
でも、それでもね。我の強い僕だけれど、六年ちょっとも働かせてもらってね、恩義を感じていたところはあったんだ。滅多に店に顔を出さない、そのくせせっかちで「あれしろ、これしろ」って現場を混乱させて去って行く、その癖「僕は店想いの良い店長」ヅラする人間的には全く尊敬できない店長ではあったんだけれども、でも、義理は感じてたんだ。それに、マトモなお客様にはね。僕もマトモに、むしろその人が喜んでくれるようにね。心を込めて接客していたつもりなんだ。声のトーンを上げて声を出してね。別に給料なんか上がらなくってさ、その人がタイトルも作者名も出版社もわからなくったってさ。キーワードでネットで検索したりなんかして、見つけ出してあげたりなんかしたんだ。場所を聞かれたらそこまで案内してさ、「こちらです」って示して。……そうやって、少しでもお客さんに喜んでもらおうと……店長や責任者に認められようと、してたんだ。
……そう、話が逸れたけどね。まぁ昼以降の仕事は特になくって、レジに突っ立ったり接客したりさ。そんなもん。そんなんで一日オワリ。閉店して帰る。それで僕の一日は終了。
……ところでね。まぁそんな毎日を送っていたんだけれども、この前トラブっちゃってね。っていうのも、ちょっとクレイジィーなオバサンが店に来てさ。僕がレジに立ってたんだけど、そりゃあもう理不尽にキレ出しちゃったんだよ。「コイツじゃ話になんねぇよ」とか言ってさ。目がイッちゃってたよ。
僕は他の人を呼んでさ、その人に対応してもらって、違うレジに行ったんだ。そしたらさ、ソイツは聞こえよがしに叫ぶんだ。「アイツは使いもんになんねぇよ」ってね。僕はフツフツと全身の血が沸き立つのを感じてた。無表情だけどね。アタマの中ではパチパチいってたんだ。
接客が終わったようなので、僕はレジに戻ろうとした。するとね、向こうからイカレバァがズンズン歩いてくるんだよ。僕もカァーっとなってるからさ。避けなかった。すると、正面からぶつかってきてさ。足も踏まれて。「なんだよぉー!」とか言うの。僕は睨みつけてね。でも、手は出したりはしなかったよ。そんなことする勇気、僕には無いんだね。イカレはすれ違いながら、「アタシは客だぞぉー!」って。言い残して去っていった。
僕はしばらく怒りが収まんなくって。もう屈辱的だった。一人の人間としての尊厳の問題だった。誇りの問題だった。そんなこという僕は社会的には就活に失敗した底辺フリーターなんだけれどね。でも、人間だ。だから、我慢ならなかったんだ。カッカしちゃって。この問題によって六年勤めたここを辞めたっていいって。思った。ここを辞めることになろうと、そこは譲れないと思ったし、頭を下げろだなんて言われたら辞めた方がマシだって。考えていたんだ。僕の尊厳の方がよっぽど大事なんだ。ここで働くことよりもね。悪いことをしたら謝るべきだ。でも、今回に関して僕は、僕が悪いとは思わなかった。いくら接客業をやってるからといって、そこまで心を売ったわけじゃあないんだ。店に対しては申し訳ないことをしたと思った。でも、マトモじゃあない人間に、マトモに対応するのもおかしな話だとは思わないかい? それに、同じ場所で働く仲間が、または部下が、従業員が、客に辱められたというならね、それは守ってあげなきゃいけないと思うんだよ。上に立つ人間は。それができないなら、人の上に立つべきではないんだ。でなければ、下の人間は上に立つ人間を尊敬できないし、信頼できないじゃあないか。僕はそう思う。だから、もしこの一件で僕が怒られたり謝れと言われたならば、潔く辞めようと。思ったんだ。
……でも、少し考えたらね。僕は心の狭い人間なのかな、とは思ったよ。人を許す心の余裕がなかったのかな、って。他にも、もし僕に守るべき人がいて、その人のために下げたくない頭も下げなければいけない状態だったならば、って。そうだったなら、結果も違かったのかもしれない。でも、僕も若輩者だからね。客観的に、仕方なかったな、とも思うんだ。僕が今守るべきは、僕だけだから。
その一件に関しては、言わなくたってそのまま済んだ事だった。でも、クソがつくほど真面目な僕は、その一件を責任者に報告した。……そんなこと、言わなくたっていいことなのにね。でも、僕は嘘をついたり隠し事をするのが嫌な人間でね。中学の時、テストで間違った問題に丸がついてて、それを報告したらば点数が下がってしまうのに、わざわざそれを報告したりなんかした。点数は下がって、先生からは変な目で見られた。服を買った時、八千円くらいの買い物をして一万円を出した時、八千円のお釣りが帰って来たことがあってね。でも、僕はそれを店員に言ったんだ。「お釣りが多い」って。それが僕の『正義』だった。正しいことだと、思っていたんだ。
責任者は、その場では同情してくれたように見えたけれど、店長に報告して、昨日、僕は呼び出しを食らった。僕は老人店長から説教を食らい、彼はお決まりのように、これまでに何度となく聞かされた「自分が若い時に経験した辛かったオハナシ」を美化たっぷりに、恍惚とした表情で、いかにも楽しそうに語った。僕はウンザリだった。吐き気がした。でも、ウンウン言いながら聞いた。これも仕事の内だと思った。そして意識して顔を引きつらせて笑うと、「いいね! そう! その笑顔だよ!」と褒めてくれた。僕のことなんて、僕の本当の笑顔なんて知らないクセに。僕はニッコリ微笑み続けた。そして、いい子ぶった反省の言葉を述べた。
でも、責任者が納得しなかった。「私は事を重く見ています」。真面目くさった表情でそう言うと、責任者として出る日にちを減らす方向で考えていると告げた。
そして、こう言ったんだ。「みんなから必要とされるような人になってください」。
「みんなから必要とされるような人になってください」? ……ハァ?
頭が真っ白になった僕は、「それってつまりどういう……?」と質問をした。
すると、こう言った。「それは、自分で考えてください」。
オ・マ・エ・ハ・ナ・ニ・サ・マ・ナ・ン・ダ⁉︎ 意味がわからなかった。僕と同じくバイトの人間がだ。まるで一企業の社長のそれのように。聖人のような顔つきで、悟ったような顔でそう言ったんだ。「みんなから必要とされるような人になってください」。
思考が停止した。僕は心の中に闇を抱えつつも、それを隠して、生きるためには必要だから働いていた。バカらしくなることもあったけれど、でも本当に喜んでくれる人もいるし、そんなお客さんのために、動いたし、後輩達がミスをして怒られたりしないように、気を配って面倒を見ていたつもりだった。
つもりだっただけだったのだろうか。今コイツは、僕に言った。「みんなから必要とされるような人になってください」。っていうことは、逆説的に言うと、「イマオマエハダレカラモヒツヨウトサレテナイゾ」ってことかい?
ぞっとした。就活中にずっと頭の中で響いていた幻聴が、久々に蘇った。『オマエハダレカラモヒツヨウトサレテナイ』。熱いような、冷たいような気分だった。
「わかりました」。僕は言っていた。「じゃあ、辞めます」。
店長は「わかった」と言って、責任者と「じゃあ新しい人を雇うなり、対応しよう。君も突然辞められたってお店が回んないからね。新しい人に引き継ぎをしたりなんかして、あと一ヶ月半いてね」といった内容の話をした。
引き止めて欲しかったわけではなかった。店長の「アルバイトは使い捨て」思考は有名だったのだ。バイト志望の人はとりあえず入れてみて、使えないようなら辞めるだろうし、そいつが辞めようと他にもいくらでもバイト志望の子はいる。そんな考え方を持っている人だったのだ。
責任者の顔は見ず、「失礼します」とだけ言ってその場を後にした。胃が痛かった。辞める覚悟は、頭ではしていたものの、身体は急な展開についてこなかった。
午後の仕事をこなして、マクドナルドでチーズバーガーとチキンクリスプを頬張るも、喉につかえた。いつもはそれでお腹がいっぱいになることなどないのに、むしろ食べ過ぎの吐き気のようなものを覚えた。
夜の仕事をバイトの後輩達とこなす。後輩達はいつものようにおどけてみせたりなんかしていて、それを見ると辛かった。
店や店長、責任者には、対した思い入れはなかった。だが、後輩達はみなかわいかった。弟がいると、やはり兄的人間になるのだろう。いっつもつまらないミスをするやつ。ちょっとシャイなやつ。十分の休憩をなぜかいつも十五分とるやつ。イライラしたりしつつも、みな朗らかで良いやつばかりだ。それが、心残りであり、今までバイトを続けていた理由の一つでもあった。後輩達は偉そうに指示を出す僕のことを疎ましく思っている者もいるのかもしれないが、僕は彼らがかわいかった。
帰り道はなんだか切なくて、雨の降る中、ちょっとここで一回、泣いておこうかとも思った。コンビニでは久々に一人酒を買い、ゆで卵二個を夕食とした。バラエティ番組を見て笑い、Twitterで書店のバイトを辞めることを呟くと何人かが連絡をくれ、少しうれしかった。自分では認めたくなかったが、傷心だったのだ。
結局、僕が悪かったのだろか。悪かったのかもしれない。僕が『正しい』と、『正義』だと信じていたものは全て、間違っていたのかもしれない。採点ミスは黙っていれば点数は高いままだったし、もしかしたら僕が指摘したことで先生は少し嫌に感じたかもしれない。八千円のお釣りもネコババして、友人に少し良い食事でもご馳走してやればよかったのかもしれない。今回の件に関してもそうで、意地など張らずに頭を下げればよかったのかもしれない。強がったりなどしないで。……そう、ほんとを言うと、僕は辞めたくなかったのだ。六年間いたんだ。それが、ちょっとした一件で。辞めることになった。
僕はいつも『正義』こだわるけれど、そんなものはまやかしなんだって、気付きつつある。そんな実在しないものを信じ込んでいるだなんて、僕の大っ嫌いな宗教を盲信してるやつと同類かもしれない。僕は。
いつも『正義』が邪魔をする。いつも『正義』が邪魔をして、僕は器用に生きられない。結局、僕の信じている『正義』なんて自己満足だ。僕は腕力がない。政治力がない。経済力がない。コネもない。幅広い人間関係だってない。イケメンでもない。身長もない。ない、ない。ないものだらけだ。力を持たない『正義』なんて、そんなものは哀れだ。憐れだ。虚しいだけだ。本当に……僕は無様だ。
どうしてこうなってしまったんだろう。後悔したって遅いし、そんなことしたくないんだけど、思わざるを得ない。就職活動に失敗し、バイトだって辞め、それでいて小説家になりたいだなんて……みっともない。そんな奴は社会不適合者だ。
責任者。あなたが正しいことを言っているとはこれっぽっちも思わない。あなたは絶対に、絶対に、絶対に正しくなんかない。でも、僕も正しくない。『正しい』ことなんかないんだ。状況と結果が全てだ。戦争と同じでね。お互いがお互いの『正義』っていう妄想を信じて戦うんだ。今回の件に関してはあなたの方が力があった。あなたの方が店長に必要とされている。だからあなたの勝ちだ。勝ったあなたが『正義』で、僕は『悪』だ。
敗者は去るのみ。男に二言はない。僕は書店を去る。無様に去る。
自分を突き通した結果、自分を貶めてしまうってのはあれだ。「銀魂」の長谷川さん。マダオ。まるでダメなオレ。
笑えばいい。馬鹿な僕を。笑えばいいんだ。
僕は傷心だ。でも、僕はかつての傷心を二年かけて乗り越えた。だから、傷の治し方を知っている。
傷を治すのに必要なのは、あらゆる『オモシロイ』ものと、時間だ。
昨日の今日だ。今は寝る。今は生々しい記憶は時間とともに薄れ、美化されてゆくものだから。




