“取り留めの無いこと”を、あえて取り留めてみる / “におい”について
最近は、なかなか小説が書けないでいる。先月の終わり、『第二十期テーマ短編』のテーマ、「カタストロフィ」が発表されて、早二週間ちょっと。“何を書くか”というアイデア自体は、今月はいつになく早く決まり――それこそ数秒だったと思う――書こうと思えば、すぐにでも書き始めることができたはずだった。でも、なぜそれが、今になっても一文字も書き始めることができないのか。それにはいくつか理由がある。まぁ、おヒマなら聞いてほしい。
まず私は、その今月のテーマ短編提出作品を書き始めるに当たって、その資料ともなろう本を一冊、Amazonでポチった。今月のテーマ発表者にして友人のgrさんが三月三十日にテーマを発表した夜のことである。その本は二日後には届き、封を開け、少し読んだ。……現在、まだ読み終わっていない。私は何かを書き始めるに当たって、それに関する資料を買い、それを読み終わってから書き始める、ということが今までに何度かあった。しかし、私は何かにつけて――それは文章を読むことにしろ、書くことにしろ、たっぷり時間をとって、一気にやり切りたい気性なのである。今月に入ってからは、なかなかたっぷり時間のとれる日がなかった。週五で働き(といってもアルバイトだけど)、週二日の休みはなぜか、最近会うことのできていなかった友人達から誘われ、うれしいやら困るやら。手帳は予定で、埋まってしまった。とはいえ、空き時間はたっぷりあったはずだった。その時間に本を読めばよかったのだし、文章を書けばよかったのだが、先述したとおり、一気にやってしまいたい性分なのである。そのため、じゃあ空き時間に何をやっていたのかというと、ゲームをやっていました。2012年に発売した、「ファイアーエムブレム 覚醒」。小学生の時分からゲームボーイ・アドバンスで「ファイアーエムブレム・シリーズ」を嗜んでいた私にとっては、今年の六月二十五日にシリーズ最新作「ファイアーエムブレム if」が発売されるということは一大事であり、私に生きる希望、よろこびをくれる出来事なのである。よって、前作の「覚醒」を発売までにやりこんで、よろこびに震える身体を鎮めさせるということは、必要なことなのだ。だから、ゲームばっかやってました。スンマセン。
そういえば、去年の十二月。テーマが「百合」の時も、同時期に発売された雑誌「ユリイカ」の“百合”特集の号を「タイムリーだな!」と買い、それを読んでから書こう、としたらば、大幅に提出時期を過ぎてしまった、という出来事があり、そのことが思い返される。……しかしだ。今月いっぱいはもう、お仕事以外の予定はない。時間もとれる。まずは資料を読んでしまって、それが終わり次第、テーマ短編の執筆にとりかかる。なに、書き始めてしまえば、三日もかからないだろう。短編だし。きっと。
そんなわけで、しばらくキーボードを叩くことがなかったので、こうしてリハビリがてら、エッセイを書いている次第というわけだ。こんな時にエッセイは役立つ。タイトルの通り、本当に「ゆびならし」だ。内容のおもしろさは保証しないので、読んでくれなくたっていい。ここまで読んで、ガッカリした人にはちゃんと謝る。もう大人だから。スンマセン。
まず、今日言っておきたいのは、私が長編として連載している「マホロバ堂書店でございます」の今後について少し。次の更新で、最終回にしたいと思っている。いわゆる“打ち切り”というやつで、その理由については後日、別の機会に話したい。今日はその報告だけにとどまらせたい。
……最近は、なんだか、一つの事柄について突き詰めて思考を潜らせるというよりも、取り留めの無いことばかりが頭に浮かぶ。何かについて思うことがあれば、その次の瞬間には連想ゲームのように、違うことを考えている。まるで、ラジオのチューニングを合わせようとダイヤルを回していると、誰かのお話の断片がブツブツと、聞こえてくるかのように。……この比喩どうだろう。イヤ、あまりうまくないか。とにかく、いろんなことが頭に浮かぶ。エッセイを書きたかったのだが、書けるようなネタがあまりなかった。だから、頭の中に浮かんだ“取り留めの無い”ことを、あえてそのままに書き出してみたいと思う。とにかく、キーボードを叩きたいのだ。一時間やることにする。タイマーはもう、動いている。残りは、十八分だ。
今日は晴れた。よかった。最近なぜか、桜が満開になったなぁと思ったら、雨が降り始めて昨日までずっと降り続いていたように思われる。絶対にそんなことあるはずないのだが、気持ちの良い快晴の空を見たのは、本当に久しぶりのような気がする。――今見上げてみると、少し曇っているけれど。
昨日使ったバスタオルに、久々の晴れの光を当ててみて、少ししてからタオルに顔を近づけて嗅いでみたのだけれども、イイ匂いがした。そこで気づいた。私は雨の日が狂おしいほどにキライで、晴れの日が愛おしいほどにすきなのだけれども――その理由はいくつかあるのだけれども、その理由の一つを、また発見した。“晴れ”は、イイ匂いがするのだ。逆に“雨”は――まぁ人それぞれ好みはあるとは思うが――クサイ。私はやはり、すきなにおいではない。
言っておくと、私は“におい”に敏感だ。昔っから鼻が利くし、何かに触ったりなんかすると、すぐに手のにおいを嗅いでしまうクセなんかもある。母からは、よくそれを指摘される。少し潔癖なところもあると、自覚している。
例えば中学時代なんかには、こんなことがあった。冬の水泳部。泳ぐことのできない私たちは、茶道部の和室を占領し、なんだかよくわからないけどじゃれあっていた。柔道の真似事のようなものだ(ちなみに、茶道部はその和室には滅多に来なかったから、良いのだ)。なぜそんなことをしていたのかはよく思い出せないのだけれど、その日の夕方。さんざん遊んでじゃあ帰ろうかとなった時、学生服の上着が部屋の隅で山積みになっていた。私はそれを一枚とってはニオイを嗅ぎ、それが誰のものであるかを言い当てた。つまり、なにが言いたいのかというと、そのくらいの鼻は持っているのだ、ということだ。
雨が降り始めた時のあのニオイが、すきだと言う人もいるだろうが、私はすきじゃない。雨は濡れる。湿気る。カビが生える。雑菌が繁殖する。だからイヤだ。クサイ。
晴れは熱し、蒸発させ、イイ匂いをさせる。みんな、干した布団の匂いはすきだろう。よく“太陽の匂い”と呼ばれるあれは、熱によって死んだダニの死骸や糞が発するニオイだという俗説があるが、ほんとうはアルコールや脂肪酸といった揮発性物質が分解され、発されるニオイなのだという。皆安心して顔をうずめ、嗅ぐがいい。
一時間のアラームが今なってしまったが、最後に一つだけ。ニオイで思い出した話だ。昨日、雨が降って、私がバイトから帰る頃には止んだ。私は一日の最後に一本だけ吸う煙草を、自転車をゆっくり漕ぎながらふかしていた。少し遠回りして、近くのコンビニへと向かう。そこには喫煙スペースがあって、灰皿があるのだ。私は外で煙草を吸うと、必ずそこに寄り、吸い殻を捨てることにしている。コンビニが見えてこようというところに、新築の家があって、その柵のところに、いくつものプランターがぶら下げてあった。長方形のプランターは、名前はわからないけど小さな花たちで大盛りになっていて、暗くて、一瞬だったからよくわからなかったけれど、黄色や紫で彩られていた。通り過ぎると何秒か遅れて、花のにおいがした。漂っていた花の香りの中を、突っ切ったのだ。――それは、サイコウにイイニオイ! ……と言えるようなにおいではなかった。純粋な香水や、洗剤、柔軟剤のそれが、『匂い』であるのと比べて、花のそれは『ニオイ』とも言えるし、『臭い』とも言える。もちろん『匂い』でもあるし、どうしようもなく濃い、『におい』であった。“生きるもの”のにおいだと、私は思った。それは、人間に似ていると思った。そんなことを思いながら、灰皿に吸い殻を落とした。
昨日の夜のことだ。
今日はここまで。




