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走っているときほど呼吸することを意識したことはない。漫然と空気を吸って吐いているだけでは走る力とならない。
筋肉が熱を持ち、意志の力で前進する。生きていると実感する。
だから頼子は陸上が好きなのだ。
皆が嫌がるロードワークが一番楽しい。走り終えてスポーツドリンクをゆっくり飲んでいると裕紀がやって来た。彼は最近、自分のそばにいることが多い。
「どうかした?」
「あんたの走ってるとこを見てただけ」
「──そう」
反応に困る。心臓が早鐘を打つのはまだ酸素を求めているからだ。
さまよう視線を裕紀は観察してから、頼子の身体全体を見下ろした。
余分なぜい肉は付いておらず、多くの長距離選手の宿命なのか胸もほとんどない。髪は自分よりも短い。
由利恵と似ている部分は見当たらない。
「なにか付いてる?」
ジロジロみられている。初めて出会ったときのような敵意はないが、それでも落ち着かない。
「うん、付いてる」
「ぎゃっ!?」
ふとももを撫でられた。
やはり筋肉質で、たわむれに触れた由利恵のものとは感触が違った。けれど嫌いじゃない。いや、そうじゃない。
「あんたの身体は好きだ」
とんでもない発言に目が回りそうになる。
「スケベ!」
怒っているのに裕紀は笑っている。
ただ一人に向けたような熱はないが、それでも彼が自分を特別だと認識していることが伝わってくる。
しかしいったい何があってこんなことになったのだろう。やはりあれか。吊り橋効果と同じで、弱っているときにそばにいた相手にほだされてしまったのか。
「こんなところでサボってないで、ちゃんと練習しなよ! 一応大会メンバーに選ばれてるんだから」
「ああ、あれ。今の実力じゃなくて過去の実績で選んだだけの」
「過去ってことはないでしょ。11秒、切ったじゃ、ない」
平常心を言い聞かせたのにどもってしまった。裕紀は肩をすくめた。
「あのときは特別だったって知ってるくせに。もうあんなふうには走れない」
「そんなことない。近藤さんがいなくても走れるよ」
「あんたがいるから?」
「なんでそこで私が出てくるの。君自身の力で走れるって言ってるんだよ」
無意識なのだろうか。裕紀は寄りかかれる場所を探している。だがそんなことをしたって、突き飛ばして絶対に自力で立たせてやる。
彼は100mを走れる人なのだ。
「私も自分の練習があるから邪魔しないで」
きつい口調だった。しかし練習だと言われれば裕紀は納得した。
後ろ姿を見送っているとまたしても声を掛けられた。
「城下さん」
「あれ、近藤さん。また生徒会の仕事?」
「ううん、ちょっと見に来たの」
そう言って裕紀に視線を走らせた。そこに艶めいたものは含まれていなかったが、頼子の胸のうちがチリリとうずいた。
「あの、私たちのこと聞いてる?」
「ううん」
雷鳴の日の出来事は見てしまったが、裕紀からなにか言われたわけではない。
「こんなこと言われても困ると思うんだけど城下さんには話しておくね。裕紀にちゃんと、恋人にはなれないって言ったんだ」
「そうなんだ」
我ながら抑揚のない声音だった。けれど由利恵は気にしていないようで続けた。
「裕紀ね、明るくなったなって思うの。城下さんのおかげだよね」
「そんなことないよ」
「あるよ。それであの、二人とも付き合ってるのかな、って」
頼子はこっそり息を吐いた。あんなに長いあいだ裕紀に好きだと言われていたのにどうしてそんなことを思えるのだろう。
これでは彼も浮かばれない。
「付き合ってるって言ったら?」
ほんの少し意地悪をしてやりたくなった。熱烈に求愛していたおとうとを取られた気持ちを味わえば良い。
だがそんな頼子の暗い感情のはるか上を由利恵は行った。
「とてもうれしい。裕紀を大事にしてあげてね。ふてぶてしく見えるかもしれないけど繊細で、傷つきやすい子だから」
「あなたがそれを言うの」
素っ頓狂な声が出た。
「私だから言ってるの」
あなただから言ってほしくない。
その言葉をこらえる。ここで頼子が由利恵を責めても意味のないことだ。選んだのは由利恵で、それは裕紀との問題だからだ。
そして同じように自分と裕紀とのことも二人の問題だ。ただ決定的に違うことがある。
「私は傷つけられない。傷つくとしたら、彼自身だよ」
「え?」
「私が嫌いだと言っても傷つかない。でも近藤さんだったら死にたくなるほど傷つく。どうしてだと思う?」
「え?」
由利恵は同じ言葉しか発しない。困惑しているのが分かったがかまうものか。
「近藤さんが特別だからだよ。そう思っているのは彼の心なんだよ。だから傷ついたとしても彼自身の問題で、私には関係ない」
「そんな……」
ぽろり、と由利恵の瞳から涙がこぼれた。一筋が頬を転がり落ちていく様子はとてもきれいだった。
ぼんやりとしずくを追っていると「由利恵!」と切羽詰まった声が聞こえた。騎士様の登場だ。
「由利恵に何したんだよ!」
「……っ」
裕紀が由利恵の味方をするのは当然のこと。
だからそれでも傷ついてしまうのは、頼子自身の問題なのだ。
「ちがうの、裕紀。私が無神経なこと言ったから」
裕紀は由利恵と頼子を見比べて途方に暮れた。少し前までなら何を言われても由利恵の正義を信じた。
だが今は。今は────
「……なにを話してたんだ」
「おとうとくんには関係ないよ」
「その呼び方やめろって言っただろ!」
「じゃあ近藤くん。君にはまったく関係ないよ」
由利恵に振り返り「きついこと言ってごめん」と言うとそのまま走っていく。
追いかけることができずにいると、腕を引かれた。
「裕紀、今傷ついてる?」
「……え?」
「城下さんが言ってたの。自分は何を言っても裕紀は傷つかないって」
「そんなわけないだろっ」
由利恵に対して口調がきつくなる。しまったと思って片手で口元を覆うが、由利恵はうれしそうに笑った。
「もし裕紀が少しでも傷ついたって思うなら、それは城下さんが特別だってことなんだって」
「…………」
「裕紀は傷ついた?」
「傷ついてなんか……」
語尾が消えていく。己の不誠実さから目を背けたくて由利恵を抱きしめる。
人目のあるグラウンドでの行動に気付いた者も何人かいたが、噂の近藤姉弟だと知ると興味を失ったようだ。
由利恵の柔らかな身体はよく知ったものでとても安心できた。
「俺は由利恵だけで良いのに」
今だって心からそう思ってる。自分のものになってくれるならこんなに幸せなことはない。
しかし目を閉じると走り去る後ろ姿が脳裏にちらつく。きれいなフォームだった。
「…………」
裕紀は自分から腕を解いた。記憶にある限り初めてのことだった。
「気になるやつがいる」
「うん」
「心変わりとか、そういうのしたくないのに。周りに影響されたくなんかないのに」
「仕方ないよ。私たちがいるのは二人きりの家じゃないもの」
雷鳴の日、互いのぬくもりで慰めあった幼い日々は幻のように遠くなっていた。




