5
スタートラインに立った瞬間、まただ、と思った。
また頼子に見られている。
また裕紀を見てしまう。
裕紀が頼子の首を絞めた出来事は部内に知られることはなく、表向きは上級生下級生として接していた。そもそも競技種目がちがうので滅多に話すこともない。
しかし同じグラウンドにいる。短距離選手に集合がかかり、タイムを取り始めると頼子は目を吸い寄せられてしまう。気持ち悪いと思ったことは事実だ。今でもそれは変わらない。
けれど裕紀の走る姿はやはりきれいだった。
ひたむきな視線をわずらわしく思いながら裕紀はスターティングブロックにつま先を触れた。集中力もテンションも上がらない。ここのところずっとそうだった。
何の変化もないまま位置に付くのを頼子は見ていた。
ピストルの音が聞こえて走り出す。今回もスタートは良くなく、中盤も加速が伸びなかった。
ゴールを見届けることなく頼子は視線を外した。
ランニングを再開すると大げさに肩を落とす部長に行き当った。そのしょんぼりした様子に思わず声を掛ける。
「どうしたんですか?」
「ノリノリの調子が悪くてなあ」
手にはストップウォッチがあった。小さな液晶画面を覗き込むと数字は11秒93を表示していた。
「これってまさか近藤くんのタイムですか?」
「そのまさかだよ」
「コーチはなんて言ってるんですか?」
「精神的なものだって分かってるからフォームはいじらないようにしてる。たしかに崩れてるけど、ここで修正させるのはリスクが大きすぎるからって」
すべてのスポーツ選手にとってメンタルを保つのは至上の命題と言える。
「ノリノリのおねえさんに頑張ってって言ってもらったら一発だと思うんだが」
「そうでしょうね」
確実にそれでタイムを取り戻せるだろう。いや、速くなる。
「でもそんなことしたら彼はそれまでですよ」
「分かってる。だから頼みに行かないんじゃないか」
安定を他者に委ねることは危険すぎる。
だが、と頼子は心のなかで思う。裕紀の場合、最初から由利恵を中心にしている。ならばそれを失えば、どうにもならなくなるのは仕方がないのではないか。
そんなふうに深刻に話している二人を見ていた裕紀は舌打ちした。
「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」
聞こえずとも話題が自分であることくらい推測できる。部長は誰彼かまわず相談するわけではないが、なぜか自分のことは頼子に言うようだった。あの女に話したところで何かが改善するわけではないのに。
「むしろ悪化する……」
漏らした言葉はあまりにも弱々しくて裕紀は苛立った。由利恵の気を引く手段として陸上を選んだだけだ。
なのに、まわりの失望が苦しかった。妬みは嘲笑へ、いずれは憐みに変わるだろう。由利恵以外を気にしている自分がたまらなく優柔不断に思えた。
それもこれも全部、頼子のせいだ。あの女と会ってから何もかもがうまくいかない。
地面に伸びる影を睨んでいると、それが不意に消えた。見上げれば晴れ渡っていた空に黒雲が湧いていた。それらは風に流されながらも集まり、生暖かく湿った風を呼び寄せる。
集合を知らせる笛の音が聞こえた。おそらくグラウンドから撤収するのだろう。しかし足はとどろく雷鳴と同時に向きを変えていた。
いきなり校舎へ走り出した裕紀に部員たちは目を丸くした。
「なんだあいつ、雷が怖いのか?」
男女ともに室内練習への変更の説明を言い渡されるので頼子もその場にいた。意志を持った裕紀の走りは速く、あっという間に見えなくなった。
コーチが顔をしかめた。
「まさかスパイクのまま入ってないだろうな。廊下に穴なんざ空けたら怒られるぞ。おい、だれかあいつを連れ戻して来い」
「えー、イヤですよー」
「だいたい追いかけたって追いつかないし」
一年生男子が口々に言う。年上にはすぐに従うことを刷り込まれている彼らには珍しい。それだけで裕紀が浮いているということだ。
「なあヨリヨリ、頼めないか?」
部長が耳元に顔を寄せてきた。
「私、女子部員なんですけど」
「だがうちの部のなかでは一番接点があるだろう? 本当は俺が行ってやりたいが、この場を放ってはおけない」
「……このあいだ首を絞めてきた人のところに行けと言うんですか」
ひるむかと思ったのに、部長は明るく笑った。
「だからだよ。ノリノリはヨリヨリを無視できない。つまり彼を連れて戻れるのは君だけってことだ」
校舎に入ると出入り口にスパイクシューズがきちんとそろえて置かれていた。
どうでも良いのならこんなふうに扱わない。彼は陸上を嫌いなわけではないのだ。
すでに裕紀の姿は無かったが行く場所は分かっていた。あんなふうに駆けていく先がいくつもあるはずがない。
生徒会室は四階だ。
一階から四階まで一気に駆け上がるのはさすがの裕紀でも息が切れた。けれど急がなければならなかった。脳裏には泣き続ける一人の少女がいた。共働きの両親はいつも遅くまで帰ってこない。だから頼るのはお互いしかいなかった。
早くそばに行ってやらなくては────
ノックもせずに生徒会室を開けた裕紀はそのまま固まった。
一人でいるとは思っていなかった。生徒会室は役員以外も頻繁に出入りする。
だがたった二人だとは思いもしなかった。
「由利恵……」
裕紀は大地の腕のなかにいる少女の名を呼んだ。
由利恵は裕紀を見ると、雷が鳴っていないのに肩を縮こまらせた。身体中の血が引いていく。
それでも裕紀は両手を差し出したが、まるですがるものを探すような手つきになった。
「由利恵、こっちに来いよ。雷が来る」
「行かせないよ」
大地が静かに告げた。良く見れば部活のジャージを着ている。その彼がここにいる理由は一つしかない。自分と同じだ。
「由利恵」
「ごめんね、私はもうそこには行けない」
「なんで」
「大地くんじゃなきゃ駄目なの」
その言葉に頼子は廊下の壁に張り付き、息をひそめた。やはり裕紀は生徒会室に来ていた。けれど追うべきではなかったと今さら後悔する。すぐにここを立ち去らなくてはと思うのに、足がみっともなく震えている。階段で負荷を掛けたせいだ、と自分に言い訳する。
頼子がいることに誰も気付いた様子はなく、由利恵は言葉を続けた。
「ちゃんと言わなくちゃいけなかったのに、ごめんなさい。私は大地くんが好きなの。だから裕紀の気持ちには応えられない」
「……分かった。本当は嫌だけど、俺が十八歳になるまで待てって言うなら、絶対に近づかない」
「そう言うことじゃないの」
「じゃあどう言うこと? 言えなかったってことは、俺を手放したくないって思ったからなんだよな?」
稲光が走り、すぐに音が聞こえた。けれど由利恵はそれに怯えることなく、大地の腕から離れると真正面から裕紀に向き合った。
「裕紀でも良いって思ってた。そしたら居場所が出来て、本当の家族になれるって思ってた」
「だったら」
「でも気付いたの。居場所がどこでも良いわけじゃないことに……自分で選べることに」
由利恵の言っていることが理解できなかった。ただ漠然と、その居場所とやらが鈴村大地の腕のなかだと言うことは分かった。
「そいつと結婚するのか」
「分からない。でも近藤家だけが居場所じゃないことは、もう分かったから」
そして悲しそうな顔で言った。
「もう裕紀が雷を怖がってもそばにいてあげられない」
稲妻が白い光を投げかけるのに目の前が真っ暗になった。
雨が窓ガラスをたたき始めた。次の雷鳴をこらえることはできなかった。
裕紀は音と光から逃れるようにその場から飛び出した。ドアのそばにしゃがみ込んでいる頼子と目が合った。
やっぱりこの女はいつも嫌なときに遭遇する。
駆け去っていく姿を頼子は呆然と見つめた。
生徒会室からは嗚咽が聞こえた。大地がなだめているがしゃくり上げる声は止まらない。何度も裕紀に謝っている。
そんなふうに泣くくらいならばあんなこと言わなければ良いのにと怒りが込み上げる。そして生じた感情に突き動かされるように頼子は走り出していた。
由利恵が追いかけないのなら、自分が追う。自分しかいない。部長の言葉など関係ない。頼子がそうしたいのだ。
裕紀が由利恵のところ以外にどこに行くのかは見当がつかなかった。だから先ほど通り過ぎたときは閉じていたドアが開いているのに気付いたのは運が良かった。
カーテンがぴっちりと引かれた音楽室は暗く、静かだった。しかし人の気配はある。頼子は少し迷い、電気を点けることにした。
膝を抱えた裕紀は涙に濡れた顔をぬぐいもせずに頼子を睨み付けた。
来てほしいのはこの女ではなかった。
絶望が身体をひたす。
防音がしっかりされている音楽室には雷鳴も雨音も入り込むことはない。そして自分たちの声も外には届かない。
頼子は言葉を探した。
励ますことも、慰めることも、いっそ馬鹿にすることも、できる。しかし裕紀は望んでいないだろうし、自分も気が進まなかった。
カーテンの向こうに広がっている雨空に思いを馳せる。
「私、雷が嫌いなんだ。でも君は好きでしょ?」
いきなり何を言い出すのだ。聞き耳を立てていたのなら、怖がっていたのはむしろ自分であったことは分かっているだろう。問いただそうにも言葉にならないのは分かっていたので黙っていると、頼子は言った。
「怖くたって、雷が鳴れば近藤さんのそばにいる理由ができるから、好きでしょ」
頼子は雷が平気だった。しかし鳴るたびに兄が心配そうに自分を抱きしめるので、大嫌いだった。
「……だったらどうだって言うんだ。もう由利恵はいないし、好きでも何でもなくなった」
かすれた声が小さな子供のように上擦った。取り繕う気力もない。
このまま由利恵と一緒にすべてを失う。それが自分の恋の終焉だった。
頼子は歩み寄ると腕をつかんだ。腰を深く落とし、綱引きのように全体重を背後にかけた。
腕を引かれる強さと痛みには逆らえず、裕紀は立ちあがった。もうこのまま一生座り込みつづけたいほど落ち込んでいるのに、立ててしまった。
「君が失くしたのは一つだけだよ。たとえそれが一番大事なものだったとしても、一緒になにもかもを手放す必要なんてないんだよ」
知ったようなことを言うな。望んで手放すのではなく、勝手に失われていくのだ。
そんなふうに思ったが、頼子の声音があまりにも優しくて言い返せなかった。




