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たった一人が加わるだけでこうも雰囲気が変わるのかと驚く。それも悪いほうに。
いくら陸上が個人競技だからと言ってもこれは部活動で、上下関係や同級生との付き合いもある。しかし裕紀はその一切を無視した。
曰く、「俺より遅いやつの命令をなんで聞かなきゃいけないんだよ」と。
とりあえず100mのタイムを計ると、さすがに11秒フラットは出なかったが前半を叩き出した。軽く流しただけでこの成績なのだ。
期待は、嫉妬をも同時に生む。
入部して数日で裕紀は孤立した。中等部で同じ陸上部だった男子たちは最初から関わろうとせず、上級生も生意気な裕紀を扱いあぐねた。
ただ一人部長だけが持ち前の明るさで接している。競技がかぶらないのも幸いしたのだろう。
今も部長が笑顔で話しかけている。ここまで声は聞こえないが、裕紀がうんざりした表情をしていることから話はあまり弾んでいないようだ。
ペアストレッチで筋肉を伸ばしていると部長が感心した声を上げた。
「ノリノリは良い筋肉をしてるなあ!」
「はあ」
変なあだ名を付けないでほしい。
「陸上部は三年生になってから入ったと聞いたが、それまでは何のクラブに所属していたんだい?」
中等部は部活動が必修なので帰宅部は有り得ない。
「パソコン部です」
「これはまたバリバリの文化系だな。でもいきなり速くは走れない。なにかやっていたんだろう」
教える義理はない。そう言ってやろうかと思うが、どうせ誰かに聞けば分かることだと思い直す。もうこの人に関してはあきらめた。
「小学生まで水泳をやっていました。中等部でも入部はしなかったけどよく泳ぎに行っていました。あと走り込みも少し」
中等部も温水プールがあるのだが、水泳部員が少なかったので申請すればだれでも混ざることができた。由利恵と並んでも見劣りしないよう、一刻も早く身体を作りたかったので運動は欠かさずに続けた。
「なんで水泳部に入らなかったんだ?」
「部員だと合宿とか大会とかに参加しなくちゃいけないから」
「それは陸上部も変わらないと思うが」
「入部しないとトラックが使えないですから」
水泳部がイレギュラーなだけで、本来はそれぞれのテリトリーとも言える場所に部外者が入り込むことはできない。
とは言っても、裕紀は陸上部が自分の居場所であるとは思っていなかった。周囲の妬むような視線を当然分かっていたし、それがなくてもなじむつもりはなかった。
仲良しこよしをしたいわけでも、走りを極めたいわけでもない。
由利恵が目を輝かせて「格好いいね」と言ってくれるならそれで十分だ。
そんなふうに考えていたとき、グラウンドの片隅がほのかに輝いたように思えた。
由利恵がそこに立っていた。
「城下さん、やっほー」
いきなり呼びかけられて頼子が振り返ると由利恵が手を振っていた。
「どうしたの、近藤さん」
「陸上部のマネージャーさんにグラウンドの使用スケジュールの日程表をもらいにきたの」
「生徒会の仕事だね。お疲れさま」
「好きでやってるから。それよりクラスが離れちゃったね。今年こそ一緒になると思ってたのに、残念」
「ほんとに~? 鈴村くんと別になったことのほうが残念なんじゃない?」
からかうように言うと由利恵は頬を染めた。こんなふうにきれいに赤くなる芸当は日焼けした自分には無理だ。
「良いの。大地くんと同じクラスだと、よそ見ばかりしちゃって授業にならないから」
「わあ、ラブラブだー」
「うん」
照れずにうなずく由利恵は幸せそうだった。あんなおとうとがいて、どうしてこんなふうに笑えるのだろう。どうやったら振り切って、恋などできるのだろう。
自分ならどうしたってあの強すぎる感情に引きずられてしまうのに。
「由利恵!」
はずんだ声が思考を散らした。裕紀が一目散に駆けてきた。
「俺の様子を見に来たの?」
「ううん。生徒会の仕事」
その答えは予想通りとは言え、少しがっかりする。だがすぐに気を取り直して裕紀は由利恵の手を取った。
「これからタイムをとるから見て行ってよ」
「でも他にもまわらなくちゃいけない部活があって」
「そんなに掛からないから」
滅多にこんな機会は訪れない。自分の走っている姿を見てもらうのは何も大会である必要はないのだ。
由利恵が助けを求めるように頼子を見てきた。続いて裕紀が余計なことは口にするなと言いたげに睨みを効かせてきた。
どちらの肩を持つべきかを考え、べつに見るくらいはかまわないだろうと結論づける。
「せっかくだから私たちの活動を見て行って。それで部費を増やすように会長に進言してよ」
冗談めかして言うと由利恵も笑った。
「じゃあ見ていく。でも期待しないでね」
「いやいや、期待はするよ? ぜひともドーンと万札を!」
裕紀は話している二人には構わず、すぐに部長に掛け合った。やるからにはきちんとした形にしたい。すでにアップを済ませていたメンバーも集められ、慌ただしく場がしつらえられていく。
その様子を見ながら場を持たそうと頼子は話しかけた。
「おとうとくんが走ってるところは見たことある?」
「じつは一度もないの。去年も他の運動部の試合とかぶっちゃって行けなくて。だから陸上の大会を見たのは二年前だけなんだ」
「私が出場したやつだね。あ、始まるよ」
スタートラインに五人が一直線に並ぶ。真ん中に裕紀がおり、こちらを気にしている。あんなに注意力散漫で大丈夫なのだろうか。
だがスターティングブロックに足先が触れた瞬間、表情が一変した。
ブロックの位置を調整し、角度を変えるその手つきに迷いはない。セットし終えると一度だけ体勢を確認し、後はもう弄ることはなかった。他のメンバーが何度も微調整しているのとは対照的だ。
「位置について」
部長の声が重く響く。
「用意」
一切の揺らぎなく、裕紀の腰が上がった。力が身体に込められていく。
ピストルの乾いた音が鳴った。聞いてからではなく、まさに音と同時に飛び出したのは裕紀だった。
フライングにはならない、絶妙なタイミングだった。
スタート時から加速し、そのまま先頭を走る。腕の振りも足運びもスムーズで無駄がない。終盤の加速はやや不十分ではあったが、つむじ風が吹き過ぎるように駆けていく。
頼子は頬がどうしようもなく紅潮するのを感じた。
速いのは知っていた。けれど間近で見るのは初めてで、裕紀がたしかに逸材であることを思い知らされた。
「おい! 11秒切ったぞ!」
記録係が興奮気味にストップウォッチを振り回しているが、裕紀は気にすることなく軽やかに駆けてくる。その笑顔に頼子は胸打たれた。
「由利恵! どうだった?」
隣に立つ由利恵しか目に入っていないのが分かる。当たり前だ。今のは彼女のためだけに走ったのだ。
「すごく速いね。びっくりしちゃった」
ふんわりと由利恵は微笑んだ。その様子に興奮はいささかも見られずに頼子は驚いた。あんな走りを見せられてどうしてこんなにも平常でいられるのだ。
「格好良かった?」
「うん。私なんて百メートル19秒だからうらやましいな。裕紀にこんな特技があったんだね」
裕紀はそれまでの熱が急速に冷めていくのを感じた。由利恵は嘘をついていない。本当にすごいと思ってくれている。
だがそれだけだ。
思わず視線をそらすと、言葉もなく自分を見つめる頼子のまなざしとぶつかった。
この女ではない、と苦々しさが込み上げる。賛辞も憧憬も、欲しいのはたった一人だ。
「じゃあ私はもう行くね。裕紀、部活がんばってね」
由利恵が何事も無かったかのように去っていく。
がんばっても意味がない。どんなに速く走っても、由利恵に届かないのなら虚しいだけだ。
「おい、裕紀! おまえはもっと伸びるぞ!」
肩を叩かれて振り向くと部長がいた。その後ろには隠しきれない妬みを表情に浮かべる部員たちも。
どうでも良い。
「俺、陸上部やめます」
なんの感情もこもらない言葉が頼子の耳に届いた。
「ちょっと待ってよ!」
他の者たちは衝撃で立ち尽くすなか、頼子だけはその背中を追いかけた。部室に入るまえになんとかつかまえる。彼は競歩もいけそうだ。
「さっきのは嘘だよね?」
「嘘じゃない。やめる」
「近藤さんが見てくれないから? 君はそれだけで持っているものを捨てちゃうの?」
耳障りな言葉に怒りが込み上げる。
「それだけ? それだけって言ったか? 俺にとってはそれだけなんかじゃないんだよ!」
本気の怒気に頼子はすくんだ。しかし放っておけなかった。このまま彼の走りが失われてしまうなんて絶対に嫌だ。
「そんなふうに全部の基準を近藤さんにしてたら君には何も残らないよ」
「知った口をきくなよ! 俺は由利恵さえ残ればそれで良いんだ! 他はぜんぶいらない!」
「だけど近藤さんは他の人を選んだじゃない」
「選んでない!」
気付くと右手のなかに細い首があった。頼子を壁に押し付け、これ以上話せないように締める。苦しげに眉が寄せられたがかまわなかった。
「う、ぐ……っ」
「俺はまだ十五歳で、結婚できるまであと三年もある。そのあいだに由利恵がどんなに汚れたってかまわないんだ」
にじむ視界の向こうで裕紀がつぶやく。あまりにも暗い感情に悪寒が背筋を這い上る。走っていたときの煌めきは跡形もなく消え失せ、ただただおぞましさしか感じない。
頼子が肺に残っていた息を吐き出すと、目を閉じていないのにすべてが暗闇に閉ざされたのだった。




