序章:怪(あやかし)ノ巻
その時の空は暗雲に包まれていた。
そして自分の周りには、沢山の屍が転がっていた。
それらはみな顔見知りの人達だった。
ふと自分の躯に目をやって、絶句した。
全身が血で真っ赤に染まっていた。
自分の血ではない。
不安と恐怖が込み上げてきた。
「母さん…母さんは何処?」
母を捜そうとしたとき、恐る恐る自分の足元を見る。
母が…血を流して息絶えていた。
「ああぁぁぁぁッ!」
母の屍を抱きしめた。
何度も何度も母を呼んだ。
返事はなかった。
自分が母を殺したのか。
そして周りにある屍も…
自分が…自分が…自分が…!! カラン…
下駄の音が聞こえた。
顔を上げて見ると、目の前に見知らぬ男が立っていた。
朱い高下駄を履いていた。
しかしそれよりも目についたのは、男の背中に生えた漆黒の翼だった。
「なんつう目ぇしてんだよ。馬鹿野郎!」
突然男は怒鳴った。
顔に痛みがはしった。殴られたのだ。
瞬間、自分のしたことが頭の中に浮かび上がってきた。
恐れ逃げ惑う人達を鋭い爪で切り裂いていき、その肉を喰らう。
そんな自分を泣いて必死に止める母の姿。その母を殺す自分…。
「村の…人達を…、母さんを…」
自分が恐くなった。
そして自分のしたことに…
「ああぁぁぁぁッ!!」
自分がわからなくなった。
自分が人なのかどうかさえ…。
そのとき、母に抱きしめられた暖かい感じがした。
男に抱きしめられていることに気付いた。
男は耳元で、自分に告げた。
「落ち着け。お前は悪くない。お前は知らなかったんだ。お前の中に眠る“鬼”の存在に」
「鬼…?」
「あぁ、しかも一番質の悪い鬼だ」
男は自分を見て言った。
「お前は…悪鬼・酒呑童子の生まれ変わりだ」
悪鬼…?酒呑童子…?
この男は何を言っているんだ。
「悪鬼…?酒呑童子…?なんだよそれ。そいつが俺の中にいるっていうのかよ!」
信じられなかった。
自分の中にそんなものがいることに、増々不安になる。
男は話しを続けた。
「おそらく、転生の際に魂の浄化が中途半端だったんだろうな。それがお前の中に残っちまったんだ」
話しの意味がわからない。
もうわからなくなって、男に縋り付いた。
「俺、どうしたらいい?」
男に問いたとき、頭を優しく撫でられた。
心地良かった。母に撫でられているようで、不安が少しずつ無くなっていった。
「黄泉の国に行こう。そこでちゃんと魂を浄化してもらうんだ。…長い旅になるけど、それでもいいか?」
そう男は言った。 自分は頷いた。
解放されたいことより、自分が何者なのかを知りたくなった。
男が翼を広げたとき、周りに屍はなく、暗雲もなく、青い世界が広がっていた。
この感覚…。
ああ、そうか…。
だから、安心できたんだ。
自分はこの男を知っている。
自分はこの男に再び会えることをいつも願っていたのだから…。
烏天狗様に…。
* * * * *
「愼介、疲れたぁ」
ああ、また始まった。
この方はいつもいつも、ちょっと歩いただけで駄々をこねる。
それで自分が担ぐはめになるのだ。
今回は甘やかしません。絶対に…。
「歩いてください、橘殿。今回は甘やかしませんから」
「愼介ぇ〜」
「泣いても駄目です」
そう言うも、相手は甘えるように擦り寄ってきた。
「愼介…」
「ッ!?」
な、なんでそんな仔犬のような目で見てくるんですか!?
そんな目しても駄目です!
駄目ですから!駄目……。
「わー、楽チン楽チン」
「………」
結果、いつもの如くおぶることになりました。
「あれは卑怯ですぞ、橘殿」
「なんか文句あるか、愼介」
「山程」
そう言うも、相手は気にせず、いつの間にか寝ていた。
ため息を吐き、自分は歩くことに集中した。
その日の夜は、もう使われていない古寺で寝ることになった。
実は、自分にはまだ橘殿に話してないことがあります。
甘えてほしくない理由…。
成人になってから橘殿を見るたびに、何故か欲情するようになった。
いや、橘殿以外でもなる。若い男や女にも…。
昔はなかったのに…。
そして今、私は隣でグッスリ寝ている橘殿を襲おうとしている。
必死に耐えてはいる。
だが、もう限界だ。
自分の意識が薄れていくなか、自分ではない者…“鬼”が橘殿に襲いかかるのが見えた。
「くぉらぁッ!!愼介!」
橘の拳が、愼介の腹にめりこんだ。
呻く愼介をよそに、橘は乱れた衣を直す。
「まったく、まだ相手が俺で良かったな。一般人だったら大変なことになってたぞ」
「………え?」
橘の言葉に、疼くまっていた愼介は顔を上げた。
「き、気付いていたのですか!」
「俺が気付かないとでも思ってたのか。お前の様子を毎日見てれば気付くさ。まあ、予想もしていたけどな」
懐から煙管を取り出し、それを満喫しながら橘は話し始めた。
「お前の欲情は、中に眠る酒呑童子のせいだ。昔、あいつは都の若者や女を攫って、犯して殺して食ってたからな。愼介もそういう年頃になったからな。そういうのが出てきてもおかしくない」
橘が話すなか、愼介は沸き上がる欲情に必死に耐えていた。
「ど…どうすればいいでしょうか」
「んー、そうだなぁ。自我で保っていられるのも大変になってきたからな。…あ、そうだ!」
橘は何かを思い出したように、ポンと手を叩いた。
「あれだったら、酒呑童子を抑えることができるな」
「あれ、とはなんですか?橘殿」
「お前を倒した奴が使っていた物だ」
「………?」
「ま、明日になればわかるだろう。じゃ、俺は寝るから。…また襲ってきたら斬るから、な」
そう言って、橘は眠りについた。
一方の愼介は、朝まで葛藤していたのだった。
――明朝
愼介が目を覚ますと、隣に橘の姿はなかった。
「橘殿…?」
愼介は起き上がり、古寺の中や周りを捜すが、見つからなかった。
「どこに行かれたのだろう」
愼介が縁側に座り、空を見上げていたときだった。
「おーい、愼介ぇ」
橘の声が響き渡り、漆黒の翼を広げた天狗が舞い降りた。
「悪りぃ、遅くなっちまった」
橘の手には、見たこともない太刀を持っていた。
刃長も反りも申し分のない、威風堂々たる物だ。
「橘殿…それは」
「ああ、これか。ちょっとした借り物だ」
と橘はそれを愼介に投げ渡した。
受け取った愼介は、朦朧としていた自我がはっきりとしてくることを感じた。
「橘殿」
「気付いたか。欲情しなくなっただろう。なんせ、その刀は悪鬼・酒呑童子を斬った…名刀・童子切安綱だ」
「童子切安綱!!天下五剣の一つで、最古の刀工ともいわれる大原安綱作の逸品。そして、清和源氏の嫡流・源頼光が所持していた、と」
「その通り!童子切安綱だったら、酒呑童子を大人しくさせることができるからな」
橘は自信満々に言った。
「さて、そろそろ行こうぜ。愼介」
「はい」
愼介は童子切安綱を腰にさげ、橘と共に古寺を後にしたのだった。