プロローグ
手紙が届いた。日本からの、それもメールなどではなく、まぎれもない紙の手紙だ。
これまでの人生で、学生時代に授業で無理やり書かされたのを例外とすれば、紙の手紙など書いた試しがない。子供の頃はそもそも必要性がなかった。宿題以外、文字を書くこと自体が稀だったのだ。手紙を出すような年齢になる頃には、すでに世の中はEメール全盛期。周りの友人も、わざわざ手書きの便箋を欲しがるような手合いは一人もいなかった。そうして伝統的な手紙から完全に隔絶されて生きてきた。もし今「手紙を書け」と言われたら、封筒への住所の書き方すら怪しい。そんな男のもとに、あろうことか日本から手紙が舞い込んだのだ。当時の困惑ぶりが、どれほどのものだったか想像がつくだろうか。
郵便受けから取り出した時、まずは宛名と住所を凝視した。配達員の誤配ではないかと疑ったのだ。……いや、今でも手紙を配るのは郵便局員なのだろうか。少なくとも、小学校の国語の教科書にはそう書いてあったが。
だが、見間違いではなかった。住所は番地まで克明に記され、名前も寸分の狂いもない。しかも、そのすべてが漢字で綴られている。ただ、それは日本の国字特有の、中国語とは微妙に異なる字体だった。文字の崩れ具合からして、書き手もペンよりもキーボードに慣れ親しんだ人間なのだろう。封筒の裏には、差出人の名前も住所も一切なかった。
腑に落ちないまま自室へ持ち帰り、糊付けの隙間に沿って慎重に封を剥がした。「中身を確かめて、もし間違いなら、何事もなかったかのように糊付けし直して戻そう」という、さもしい考えが頭のどこかにあったのだ。
中からは、ずっしりと重い便箋の束が出てきた。紙を広げた瞬間、日本語の仮名と漢字の混ざり合った文章が容赦なく目に飛び込んでくる。自身の日本語力には多少の自負があったが、この分量を読まされるのかと思うと、さすがに眉根が寄った。
いったん台所へ行って冷水を一杯注ぎ、机に置く。椅子に深く腰掛け、一番楽な姿勢を整えてから、改めて手紙を手に取って目を通し始めた。
程くん、変わりはありませんか。小出靖です。覚えているでしょうか?
小出靖。記憶の引き出しをひっくり返す。幸いなことに、知人に「小出」を名乗る男はただ一人しかいない。おかげで、すぐにあの顔が蘇ってきた。
日本への留学時代に出会った男だ。当時の彼は物理学科の学生だった。痩せぎすで、背は頭一つ高く、肌は少し浅黒い。黒縁眼鏡をかけ、野暮ったい髪型をした、いかにも絵に描いたような生真面目な日本の大学生だった。私たちは同じサークルのメンバーだった。サークルには日本人の学生が十数人から二十人ほど在籍していた。当時の私の日本語は実にお粗末で、漢字の読み方が一筋縄ではいかない日本の人名を覚えるのには、相当骨を折った記憶がある。今となっては、メンバーのほとんどの名前が思い出せない。そんな中で小出のことだけを克明に記憶しているのは、いささか苦笑せざるを得ない「事件」があったからだ。
ある大学の休日のこと。例によって近くの公園でサークル活動をしていた。現地に着くやいなや、加藤という男から新しい手品を教わることにした。彼は第二外国語で中国語を履修しており、以前「中国人の指導と助けがほしい」という募集を出していた。それに名乗り出たのがきっかけで友人になり、このサークルを紹介されたのだ。その日の手品の手順は、少し入り組んでいた。彼の拙い中国語とこちらの不完全な日本語とが相まって、説明を咀嚼するだけで一苦労だった。トランプがどうやって一番上に来たのかを突き止めようと、全神経を指先に集中させていたため、小出がいつ現れたのか、まるで気づかなかった。背後から声をかけられた瞬間、心臓が跳ね上がったほどだ。
「程くん、昨日の夜、幽霊を見たんだ」
挨拶もなしに、唐突に切り出された。言葉の壁さえなければ、適当にいなして、からかってやるところだ。しかし、手品のパズルから頭が抜け切っていない上、当時の絶望的な語学力では、気の利いた言い返しなど思い浮かぶはずもない。ただ、口を開けて呆然とするだけだった。そんな、私の苦虫を噛み潰したような表情を誤解したのか、彼は我が意を得たりとばかりに言葉を継いだ。
「この話を聞いて、笑わなかったのは君が初めてだよ。ありがとう!」
やはり、声は出なかった。今度は本当に、返す言葉を失っていた。
しばらくして、私がいつまでも反応しないのを見て、彼は真剣な眼差しで身を乗り出してきた。
「あの……私の話を信じてくれますか?」
ちょうどその頃、授業で覚えたばかりの単語が頭をよぎった。「証拠」だ。早速使ってみることにした。
「証拠、ありますか?」
小出は、こちらが極めて真面目に受け止めていると早合点し、前夜の奇妙な体験談を弾丸のようにまくし立て始めた。ぶっちゃけて言えば、当時の語学力では話の全容など一割も理解できなかったのだが、途中で遮るのも不作法だと思い、いかにも感心したような相槌を打ち続けた。それが運の尽きだった。彼は私を「身の回りで唯一、オカルトを頭から否定しない無二の理解者」と思い込み、それ以降、自らが見聞きした奇妙な噂話を次々と持ち込むようになったのだ。幸い、信じるか信じないかはともかく、私自身そうした怪奇談の類いは嫌いではなかった。おかげで、最初のあの小さな「嘘」が露見することは、ついぞなかった。
そして今、便箋の冒頭に躍る挨拶文を前にして、嫌な予感が脳裏をかすめる。また、例の「奇妙な出来事」が起きたのではないか。日本を離れてから一度も連絡を取り合っておらず、歳月にしてすでに八、九年は流れている。これほどの年月を経て、音信不通だった男にわざわざ紙のペンを握らせた怪奇事件とは、一体何なのか。湧き上がる好奇心に抗えず、さらに先を読み進めた――




