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『焼け落ちた孤児院で拾った少女は、俺を裏切った婚約者の妹だった件』〜「あなたなんかと結婚するくらいなら死んだ方がマシ」と言われて婚約破棄された俺、傷心のまま故郷に帰ったら育った孤児院が燃えていて、瓦礫

作者: uta
掲載日:2026/05/31

「あなたなんかと結婚するくらいなら、死んだ方がマシ」


——え?


一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。


高級レストランの個室。柔らかな照明が白いテーブルクロスを照らし、グラスの中で赤ワインが揺れている。三年間の記念日を祝うはずだった夜。俺の向かいには、完璧に美しい女性が座っていた。


白石玲奈。


俺の、婚約者——だった、女。


「れ、玲奈……?」


声が震える。情けない。分かってる。でも、止められなかった。


「聞こえなかった?」


玲奈は眉一つ動かさない。切れ長の瞳は冷たく、まるで道端の石ころでも見るような目で俺を見下ろしていた。まるで天気の話でもするように、淡々と続ける。


「三年間、ありがとう。でも、もう終わりにしましょう。あなたとの婚約は——今日で破棄するわ」


頭が真っ白になった。


三年間。


俺は三年間、この女のために全てを捧げてきた。彼女が望むものは何でも与えた。欲しいと言われたブランド品。行きたいと言われた旅行先。会いたくないと言われた友人との縁。


全部、全部、全部——。


「なん、で……」


「理由? そうね」


玲奈が小さく笑う。その笑みが、ナイフのように俺の胸を抉った。


「飽きたの。それだけよ」


「——は?」


「あなたって、つまらないのよ。何を言っても『うん』『分かった』『玲奈の好きなようにしていいよ』。人形と話してるみたいだった」


違う。


違う違う違う。


俺は、お前に嫌われたくなくて——。


「あーあ、可哀想」


不意に、第三の声が割り込んできた。


隣のテーブル。いつの間にか座っていた派手な女が、わざとらしく頬杖をついてこちらを見ている。巻き髪に濃いメイク、ブランド物で固めた出で立ち。高城美月。玲奈の友人だ。


「三年も貢いで捨てられるとか、見る目なさすぎじゃない?」


「美月」


玲奈が窘めるような声を出すが、止める気配はない。


「だって本当のことでしょ? ねえ神崎さん、玲奈には最初から遊びだったのに、本気にしちゃったの?」


くすくすと笑う声が、耳の奥で反響する。


遊び?


三年間が——遊び?


「玲奈、これ、嘘だよな……?」


縋るように彼女を見た。俺を見下ろす切れ長の瞳は、どこまでも冷たい。


「嘘じゃないわ。むしろ、どうして本気だと思ったの?」


「だって、俺たち——」


「あなたが勝手にそう思っていただけよ」


玲奈が立ち上がる。テーブルの上には、俺が必死に貯めた金で買った婚約指輪の箱。今夜、渡すはずだった。まだ、開けてすらいない。


「じゃあね、神崎くん。——ああ、そうだ」


振り返った玲奈の唇が、残酷に歪んだ。


「来月、私、結婚するの。あなたの上司の御曹司と。式には呼ばないから、安心して」


——世界が、音を失った。


足音が遠ざかる。ドアが閉まる。美月の嘲笑が、どこか遠くで響いている。


一人残された俺は、震える手でグラスを掴んだ。水が跳ねて、テーブルクロスに染みを作る。


まあ、俺だしな。


心の中で、いつもの自嘲が響いた。


孤児院で育った俺。誰にも必要とされなかった俺。やっと見つけた「必要としてくれる人」に、三年間しがみついて——結局、捨てられた。


当然だ。


俺には、最初から価値なんてなかったんだから。


立ち上がる。足がふらつく。店員の視線が突き刺さる。全部聞こえていたのだろう。惨めな男の、惨めな結末を。


「……帰ろう」


帰る場所なんて、もうないけれど。


——いや、一つだけあった。


故郷。俺を育ててくれた、あの孤児院のある町。


逃げるように、俺は夜の街へ歩き出した。




      * * *




深夜二時。


故郷の駅に降り立った瞬間、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。


「……火事?」


見上げた夜空が、赤く染まっている。


嫌な予感がした。駆け出していた。革靴が砂利を蹴り、息が切れる。でも、足は止まらない。


あの方向は——。


「嘘、だろ……」


坂を上り切った瞬間、俺は立ち尽くした。


「ひだまりの家」。


俺を育ててくれた孤児院が、業火に包まれていた。


消防車のサイレンが夜を切り裂く。叫び声。逃げ惑う人影。赤と黒が交互に点滅する緊急灯。炎が窓ガラスを突き破り、火の粉が舞い上がる。


ぼんやりと、その光景を眺めた。


ああ、これは夢だ。


今日は俺にとって最悪の日で、だから夢の中でも最悪が続いているんだ。


そう思おうとした、その時——。


「——おにい、ちゃん」


聞こえた。


確かに、聞こえた。


炎の爆ぜる音の隙間から。瓦礫の下から。か細い、消えそうな声。


「誰かいるのか!?」


駆け寄る。熱風が顔を焼く。構うものか。


崩れた壁の隙間に、白い手が見えた。


「待ってろ、今助ける……!」


必死で瓦礫をどかす。手のひらが切れる。血が滲む。爪が剥がれそうになる。そんなことは、どうでもいい。


——だって、見捨てられない。


俺みたいに、誰かに見捨てられるのは、もう嫌だ。


「……っ!」


最後の瓦礫をどけた瞬間、少女が現れた。


煤だらけ。ボロボロの服。それでも分かる、透き通るような白い肌。腰まで伸びた黒髪は乱れ、左手首には古い傷跡が薄く残っている。そして——感情の読めない、琥珀色の瞳。


その瞳が、俺を捉えた。


「お兄ちゃん」


少女が、微笑んだ。


血と煤にまみれた顔で。崩れ落ちそうな体で。それでも彼女は、まるで神様に出会ったかのような表情で、俺を見上げている。


「やっと……見つけた」


「え——」


言葉が続く前に、少女の体が傾いだ。咄嗟に受け止める。


軽い。


あまりにも軽い。


「おい、しっかりしろ! おい!」


返事はない。気を失ったらしい。


救急隊員が駆け寄ってくる。少女は担架に乗せられ、運ばれていく。俺もその後を追おうとして——足元で、何かを踏んだ。


小さな、革の財布だ。


燃え残ったそれを拾い上げる。開く。


中には、身分証明書が一枚。


名前:白石灯しらいし あかり


——白石?


嫌な汗が背筋を伝う。


まさか。いや、でも——。


「兄ちゃん、あんたが助けたのか」


声をかけられて振り返る。消防隊員だ。顔は煤で汚れていたが、その目は鋭く俺を見ていた。


「ああ……瓦礫の下に」


「助かったよ。しかし、参ったな」


「何か、あったんですか」


隊員は、炎に包まれた孤児院を見上げた。


「放火だ。明らかに人為的な火の回り方をしてる。しかも——」


「しかも?」


「犯人は、建物の中にいたらしい。自分で火をつけて、自分も焼け死ぬつもりだったんだろう。兄ちゃんが助けた、あの少女がな」


——時間が、止まった。


あの少女が。


玲奈と同じ「白石」を名乗る、あの少女が。


放火犯。


「お兄ちゃん、やっと見つけた」


さっきの言葉が、頭の中で反響する。


俺を知っている。あの少女は、確かに俺を「お兄ちゃん」と呼んだ。まるで、ずっと探していたかのように。


何なんだ、これは。


何が起きている?


燃え盛る炎を背に、俺は呆然と立ち尽くした。


厄日だ。最悪の厄日だ。婚約破棄されて、帰ってきた故郷で、育った孤児院が燃えて、助けた少女が放火犯で、しかもその少女は——。


白石灯。


玲奈の、妹?


頭を抱えたくなった。でも、一つだけ確かなことがある。


あの少女は、俺を待っていた。


あの地獄の中で、俺の名を呼んでいた。


——放っておけるわけが、なかった。




      * * *




病院の廊下は、消毒液の匂いがした。


深夜三時。待合室のベンチに座った俺は、ぼんやりと天井を見上げていた。蛍光灯の光が目に沁みる。


「よう、蒼真」


聞き覚えのある声。振り返ると、坊主頭の大男が立っていた。日焼けした肌に、がっしりした体格。柴田修司。孤児院時代からの幼馴染で、今は地元の警察官だ。


「修司……」


「連絡受けて飛んできた。お前、怪我は?」


「俺は大丈夫だ。それより——」


「ああ、例の少女な」


修司が隣に座る。ベンチが軋む音がした。


「白石灯、十七歳。孤児院『ひだまりの家』の入所者。——放火の容疑者だ」


「……やっぱり」


「しかも、お前の元婚約者と同じ苗字だろ。偶然にしちゃ出来すぎてる」


「玲奈に妹がいるなんて、聞いたことなかった」


「そりゃそうだ。戸籍上は赤の他人だからな」


「は?」


修司が煙草を取り出し、吸えないと分かっていながら口に咥えた。


「白石玲奈は十五年前に別の家庭に養子に出されてる。実家との縁は完全に切れてた。——つまり、あの少女は『置いていかれた』側ってことだ」


置いていかれた。


孤児院に。


姉に、見捨てられて。


「…………」


胸が、痛んだ。


「お前は昔から損な役回りばっかだな」


修司が溜息をついた。


「婚約破棄されて帰ってきた日に、こんな事件に巻き込まれるとか。神様って奴は意地が悪い」


「俺だしな」


「またそれか」


「事実だろ」


「事実じゃねえよ。お前はいつも——」


「神崎さん」


看護師の声が、会話を遮った。


「患者さんが、目を覚まされました。あなたに会いたいと」


「……俺に?」


「はい。『お兄ちゃんを呼んで』と」


修司と目が合う。幼馴染は、複雑そうな顔で頷いた。


「行ってこい。——でも、気をつけろよ。あの少女は、普通じゃない」


普通じゃない。


そんなことは、分かっている。


病室のドアを開けた瞬間、琥珀色の瞳と視線が絡んだ。


「——お兄ちゃん」


白石灯は、包帯だらけの体をベッドに横たえていた。白い肌に白い包帯。それでも、彼女は笑っていた。まるで、世界で一番幸せなことが起きたかのように。


「来てくれた。来てくれたんだね」


「……どうして、俺を知ってる」


「知ってるよ。ずっと、ずっと覚えてた」


灯がゆっくりと手を伸ばす。俺の袖を掴む。その指は細くて、冷たかった。


「十年前。お兄ちゃんが孤児院に来た日。私、泣いてたの。お腹が空いて、寒くて、誰も助けてくれなくて。そしたら——」


『大丈夫?』


記憶が、蘇った。


十年前。俺が大学進学で上京する直前、一度だけ「ひだまりの家」を訪ねたことがあった。自分を育ててくれた場所に、お礼を言うために。


その時——泣いていた、小さな女の子がいた。


『お兄ちゃんが、いなくなっちゃう。私、一人になっちゃう』


理由は分からなかったけど、放っておけなくて。頭を撫でて、こう言ったんだ。


『一人じゃないよ。君を見てる人は、必ずどこかにいる』


——それが、この少女だったのか。


「お兄ちゃんの言葉だけが、私の支えだった」


灯の目が、異様に輝く。


「お兄ちゃんがいれば、生きていける。お兄ちゃんに会えれば、何でも耐えられる。だから——」


「だから、孤児院を燃やしたのか」


灯の表情が、一瞬だけ歪んだ。


「……汚かったの。あの場所。お兄ちゃんに会う前に、全部、綺麗にしたかった」


「綺麗に……?」


「私の中の、汚いもの。全部、燃やしたかった」


狂っている。


そう思った。この少女は、完全に壊れている。


でも——その壊れ方を、俺は知っている。


誰かに必要とされたくて。自分の存在に意味が欲しくて。たった一人の人間に全てを賭ける、あの感覚を。


俺と、同じだ。


「お兄ちゃん」


灯が、俺の袖をさらに強く握る。


「私のこと、捨てないでね?」


その瞳は、どこまでも真剣だった。


「だって私、お兄ちゃんのためなら何でもできるから」


——何でも。


その言葉の重さを、俺はまだ理解していなかった。


理解するには、あまりにも疲れ果てていたから。


「……分かった。今は、休め」


気づけば、俺は彼女の頭を撫でていた。十年前と、同じように。


灯が目を閉じる。安心しきった表情で。まるで、やっと帰る場所を見つけた迷子のように。


窓の外では、朝焼けが始まっていた。


焼け落ちた孤児院の煙が、まだ空に昇っている。


——これが、俺たちの始まりだった。




      * * *




それから三日が経った。


灯は俺の実家——今は空き家になっている古い一軒家で療養していた。本来なら警察に引き渡すべきなのだろう。でも、修司が「証拠固めに時間がかかる」と言って、暗黙の猶予をくれていた。


「お兄ちゃん、ご飯できたよ」


台所から、灯の声が聞こえる。


振り返ると、エプロン姿の少女が皿を運んできた。味噌汁と焼き魚。質素だが、丁寧に作られた朝食。


「……お前が作ったのか」


「うん。お兄ちゃん、昨日コーヒーしか飲んでなかったから」


鋭い。確かに、ここ数日ろくに食べていなかった。


「いただきます」


箸をつける。美味い。孤児院で覚えたのだろうか。そう思った瞬間、胸が痛んだ。


「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと、まだ好き?」


唐突な質問だった。


箸が止まる。灯は無表情のまま、俺を見つめている。


「……どうして、そんなことを聞く」


「知りたいから」


「玲奈のことは——」


言いかけて、言葉が詰まる。


好きだったのか? 本当に?


三年間、俺は玲奈に尽くしてきた。でもそれは、愛情だったのか。それとも、「必要とされたい」という飢えを満たすための手段だったのか。


「……分からない」


正直に答えた。


「そっか」


灯の表情が、僅かに緩む。


「私ね、お姉ちゃんのこと、嫌い」


「……そうか」


「だって、私を置いていったから。一人で、あんな場所に」


灯の声は淡々としていた。でも、その目の奥に、暗い炎が揺れているのが見えた。


「お姉ちゃんは、養子に行く時、私に言ったの。『すぐに迎えに来るから』って。——嘘だった」


十五年。


十五年間、灯はあの孤児院で待ち続けたのだ。迎えに来ない姉を。


「でもね、今は平気」


灯が、笑う。


「だって、お兄ちゃんがいるから」


——その笑顔が、怖かった。


どうしようもなく、怖かった。


玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。


「俺が出る。灯は部屋にいろ」


「……うん」


灯の目が、一瞬だけ警戒に染まる。


玄関を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。


「久しぶりね、蒼真」


——白石玲奈が、そこに立っていた。


完璧なスーツ。完璧なメイク。完璧な佇まい。でも、その目の下には薄い隈があった。三日前には気づかなかった疲労の色。


「……何の用だ」


「その子から離れて」


玲奈の声は、低く、切迫していた。


「灯——私の妹から、今すぐ離れなさい」


「妹がいることすら知らなかったのに?」


「それは——」


「お前が俺を捨てた三日後に、その妹が俺の前に現れた。偶然だと思うか?」


玲奈の顔が、僅かに歪む。


「……あの子は危険よ。あなたには分からないでしょうけど、あの子は——壊れているの」


「知ってる」


玲奈が目を見開く。


「知ってて、一緒にいるの?」


「ああ」


なぜか、そう答えていた。


「俺も壊れてるからな。お互い様だ」


「蒼真……」


玲奈の目に、複雑な感情が浮かぶ。怒り? 悲しみ? それとも——。


「お姉ちゃん」


背後から、声がした。


振り返ると、灯が廊下に立っていた。その目は、玲奈を真っ直ぐに射抜いている。


「久しぶり。十五年ぶりだね」


「灯——」


「迎えに来てくれたの? ——嘘。そんなわけないよね」


灯の唇が、残酷に歪む。


「お姉ちゃんは、私を迎えに来たんじゃない。お兄ちゃんを取り戻しに来たんでしょ?」


「違う、私は——」


「残念だけど、もう遅いよ」


灯が、俺の腕に絡みつく。蛇のように。獲物を逃さないように。


「お兄ちゃんは、私のものだから」


——空気が、凍りついた。


三人の間に、重い沈黙が落ちる。


玲奈の目には、恐怖があった。


灯の目には、勝利があった。


そして俺は——二人の間で、身動きが取れなくなっていた。


「……話がある」


玲奈が、絞り出すように言った。


「全部、話すわ。私があなたを捨てた、本当の理由を」


その言葉に、灯の体が強張るのが分かった。


何かが——動き始めている。


俺たちを巻き込む、大きな渦が。




      * * *




リビングに、三人が座っている。


俺と灯が並んでソファに。向かいの椅子に、玲奈が。まるで裁判のような配置だった。


「……どこから話せばいいのかしら」


玲奈が、震える手で煙草を取り出す。火をつける指先が、かすかに揺れていた。


「最初から話せ。全部」


俺の言葉に、玲奈が苦笑する。


「最初から、ね。——分かったわ」


煙を吐き出し、玲奈は語り始めた。


「私と灯は、本当の姉妹よ。父親は同じ。白石源一郎——『ひだまりの家』の院長」


「……なんだと?」


「驚いた? 私たちは、あの男の娘なの。でも、母親は違う。私の母は院長の最初の愛人。灯の母は、二番目の愛人」


灯の体が、僅かに強張るのが分かった。


「私たちは、最初から『商品』だった」


玲奈の声が、冷たく響く。


「院長は、私たちを売り物にしていたの。私は十二歳の時、裕福な家庭に『養子』として売られた。金額は、三百万円。灯は——」


「私は、売れなかった」


灯が、静かに言った。


「『商品価値がない』って。だから、孤児院に残された」


「灯……」


「いいよ、お姉ちゃん。今さら庇わなくていい」


灯の目が、冷えていく。


「十五年間、私はあそこで生きてきた。院長に殴られて、働かされて、夜は——」


言葉が、途切れる。


俺は、その先を聞きたくなかった。聞いてしまったら、何かが壊れてしまう気がしたから。


「……玲奈。お前は、それを知ってたのか」


「知ってた。でも、どうしようもなかった」


玲奈の手が、煙草を握り締める。


「養子先の家庭は、院長と繋がっていた。私が逆らえば、灯がもっと酷い目に遭う。だから私は、従うしかなかった。いい大学を出て、いい会社に入って、『優秀な商品』でいることしか——」


「じゃあ、俺との婚約は?」


玲奈が、俺を見た。


その目に浮かんでいたのは——痛みだった。


「本気だったわ。あなたと出会って、初めて『自分の意思で誰かを好きになれる』と思った」


「なら、なぜ——」


「院長に知られたの」


玲奈の声が、震える。


「あなたとの関係を。そしたら、脅されたわ。『別れなければ、妹をもっと酷い目に遭わせる』って」


「……!」


「あの日、婚約破棄したのは、あなたを守るためよ。あなたを巻き込みたくなかった。あなたまで、あの男に——」


「黙って」


灯の声が、部屋を切り裂いた。


「もう、黙って。お姉ちゃん」


灯が立ち上がる。その目には、涙が溢れていた。


「十五年間、お姉ちゃんを信じてた。いつか迎えに来てくれるって。でも、来なかった。一度も。手紙も、電話も、何もなかった」


「灯、それは——」


「お兄ちゃんを守るため? 私より、お兄ちゃんが大事だったの?」


玲奈が、言葉を失う。


「……違うわ。私は——」


「もういい」


灯が、俺の腕を掴む。


「帰って、お姉ちゃん。もう来ないで」


「灯——」


「来ないでって言ってるの!」


灯の叫びが、部屋に響き渡った。


玲奈が、よろめくように立ち上がる。その顔は蒼白で、今にも崩れ落ちそうだった。


「……分かったわ。今日は帰る」


玄関に向かう足音。ドアが開く音。そして——。


「蒼真」


振り返らずに、玲奈が言った。


「お願い。あの子を、守ってあげて」


「……俺が?」


「あなたにしか、できないから」


ドアが、閉まる。


静寂が、降りてきた。


「……お兄ちゃん」


灯が、俺に寄りかかる。小さな体が、震えていた。


「私、お姉ちゃんのこと、許せない。でも——」


「でも?」


「——会えて、嬉しかった」


その声は、子供のように小さかった。


俺は、何も言えなかった。


ただ、震える少女の頭を、撫でることしかできなかった。


窓の外では、日が暮れ始めていた。


長い一日が、終わろうとしている。


でも、俺には分かっていた。


本当の戦いは——これからだ。




      * * *




その電話が来たのは、翌日の夜だった。


「蒼真、ちょっと署まで来れるか」


修司の声は、いつになく硬かった。


「何かあったのか」


「……来てから話す。一人で来い」


電話が切れる。嫌な予感がした。


灯を残して外出するのは気が引けたが、「すぐ戻る」と告げて家を出た。


署に着くと、修司は厳しい表情で待っていた。


「こっちだ」


案内された先は、取調室ではなく応接室だった。そこに、一人の男が座っている。


脂ぎった顔。濁った目。不快感を与える笑み。


「初めまして、神崎蒼真くん」


男が、ゆっくりと立ち上がる。


「私は白石源一郎。『ひだまりの家』の院長——だった男だ」


血が、逆流するような感覚。


こいつが。こいつが、灯を——。


「随分と世話になっているようだね、うちの娘に」


「……何の用だ」


「おいおい、そう怖い顔をしないでくれ。私は話し合いに来ただけだ」


源一郎が、懐から封筒を取り出す。テーブルの上に置く。


「灯を返してくれないか。娘なんだ、心配でね」


「娘?」


俺の声が、低く響く。


「娘を『商品価値がない』と言って孤児院に捨てた奴が、何を言ってるんだ」


源一郎の目が、一瞬だけ鋭くなった。でも、すぐに笑みが戻る。


「誰から聞いたか知らないが、誤解だよ。私は常に娘たちのことを想って——」


「虐待していたんだろう。灯を。他の孤児たちも」


「証拠でもあるのかい?」


「灯の体にある、傷が証拠だ」


修司が、横から口を挟む。


「源一郎さん。あんた、ここに呼ばれた理由、分かってるよな」


「……何のことだい」


「孤児院の火災。放火だってのは確定してる。で、動機を持つ人間を調べてたら——あんたの名前が出てきたんだよ」


源一郎の笑みが、僅かに引き攣る。


「馬鹿馬鹿しい。私が自分の孤児院を燃やす理由がどこにある」


「証拠隠滅、とかな」


修司がファイルを開く。


「匿名の通報があったんだ。『ひだまりの家』で子供たちへの虐待が行われている、ってな。調査が入る予定だった。火災の、三日後に」


「……それは——」


「灯が火をつけたのは事実だ。でも、彼女を追い詰めたのは誰だ?」


源一郎の顔から、笑みが消える。


代わりに浮かんだのは——醜い、憎悪だった。


「……あの出来損ないが。私を裏切りやがって」


「今、何て言った」


「うるさい!」


源一郎が、テーブルを叩く。


「私がどれだけ苦労してあのガキどもを育てたと思ってるんだ! 金も、時間も、全部注ぎ込んだ! なのに、恩を仇で返しやがって——!」


「育てた?」


俺は、静かに言った。


「お前がやったのは、子供たちを売り物にすることだけだろう」


「何だと?」


「玲奈を三百万で売った。灯は売れなかったから、労働力として使い潰した。それのどこが『育てた』だ」


源一郎の目が、狂気に染まる。


「黙れ、孤児院出のゴミが! お前も所詮は捨てられた人間だろう! 私に説教する資格なんてない!」


「ああ、俺は捨てられた人間だ」


立ち上がる。源一郎を、真っ直ぐに見下ろす。


「だからこそ、お前みたいな奴を許せないんだ」


「っ——!」


「修司。こいつを逮捕しろ」


「蒼真——」


「証拠なら、俺が集める。灯の証言。他の孤児たちの証言。そして——」


ポケットから、USBメモリを取り出す。


源一郎の顔が、凍りつく。


「そ、それは——」


「お前の悪事の記録だ。玲奈から受け取った。彼女は、ずっと証拠を集めていたらしい。妹を救うために」


修司がUSBメモリを受け取る。


「白石源一郎。児童虐待、人身売買、詐欺、横領——容疑は山ほどあるぞ」


手錠がかかる音が、響いた。


「ま、待て! 私は何も——」


「黙れ」


俺は、振り返らずに部屋を出た。


背後で、源一郎の叫び声が聞こえる。


「覚えてろ! 必ず報復してやる! お前も、あの出来損ないの娘たちも——!」


——うるさい。


お前の声は、もう届かない。


外に出ると、夜空に星が見えた。


終わった。


やっと——終わった。


でも、まだやることがある。


灯のところへ——帰らなければ。




      * * *




家に戻ると、予想外の光景が広がっていた。


灯と玲奈が、リビングにいた。


二人とも、泣いていた。


「お、お兄ちゃん……」


灯が俺を見て、涙を拭う。


「お姉ちゃんが、来て……それで……」


「いいんだ。分かってる」


俺は、二人の側に座った。


「源一郎は逮捕された。もう、お前たちを脅かす奴はいない」


玲奈が、顔を上げる。


「……本当に?」


「ああ。お前が集めた証拠のおかげだ」


「私が……」


「ずっと戦ってたんだろう。一人で。誰にも言わずに」


玲奈の目から、新しい涙がこぼれる。


「ごめんなさい……蒼真……私、あなたに酷いことを——」


「いい。もう、終わったことだ」


本当は、まだ傷は癒えていない。でも、今はそれを言う時じゃない。


「灯」


玲奈が、妹の方を向く。


「十五年間、ごめんなさい。私は——姉失格だった」


「お姉ちゃん……」


「迎えに行けなかった。手紙も出せなかった。あの男に監視されていて、怖くて——でも、言い訳よね。私は結局、自分を守ることしか考えてなかった」


玲奈が、床に額をつける。


「許してなんて言わない。でも——生きていてくれて、ありがとう。会えて、嬉しかった」


長い沈黙が、流れた。


灯の手が、ゆっくりと動く。


姉の肩に、触れる。


「……私も」


灯の声は、震えていた。


「私も、会えて嬉しかった。ずっと——会いたかった」


玲奈が顔を上げる。


姉妹の目が、合う。


そして——。


灯が、玲奈に抱きついた。


「お姉ちゃん……!」


「灯……!」


十五年分の涙が、溢れ出す。


二人は抱き合ったまま、泣き続けた。


俺は、その光景を見守っていた。


胸の奥が、温かくなる。


——良かった。


本当に、良かった。


この二人が、やっと——。


「……お兄ちゃん」


灯が、涙で濡れた顔を上げる。


「私、決めた」


「何を?」


「自首する。孤児院に火をつけたこと」


俺の心臓が、跳ねる。


「灯——」


「分かってる。捕まるよね。刑務所に入るかもしれない。でも——」


灯が、微笑む。


壊れた笑みではなく。穏やかな、本当の笑みで。


「このままじゃ、お兄ちゃんの側にいる資格がない。ちゃんと罪を償って、綺麗になって——それから、戻ってきたい」


「灯……」


「待っててくれる?」


俺は、彼女を見た。


煤だらけで助け出した、あの夜。「お兄ちゃん」と呼んで微笑んだ、壊れた少女。


今、その少女は——自分の足で立とうとしている。


「——ああ」


俺は、頷いた。


「何年でも、待つ」


灯の目に、涙が光る。


「……ありがとう、お兄ちゃん」


玲奈が、二人を見守っている。


その目には、悲しみと、安堵と、そして——希望があった。


「私も、待つわ」


玲奈が言った。


「今度こそ、逃げない。妹が戻ってくるまで——何年でも」


窓の外から、朝日が差し込んでくる。


長い夜が、明けようとしていた。


俺たちの物語は——ここから、本当に始まるのだ。




      * * *




三年後——。


春の陽射しが、刑務所の門を照らしていた。


俺は、門の前に立っている。


手には、小さな花束。灯が好きだと言っていた、黄色いガーベラ。


「緊張してる?」


隣に立つ玲奈が、微笑む。三年前より柔らかくなった表情。大企業を辞め、児童福祉の仕事に就いた彼女は、かつての冷たさが嘘のように穏やかになっていた。


「……少しだけ」


「私もよ」


三年間。


短いようで、長い時間だった。


俺は故郷で小さな会社を立ち上げた。孤児院出身の若者を雇って、少しずつだけど成長している。修司は相変わらず地元の警察官で、時々差し入れを持って刑務所に通ってくれた。「お前らのために面会の便宜図るの、何回目だよ」と愚痴りながら。


そして——源一郎は、懲役十五年の判決を受けた。高城美月は共犯として逮捕され、社会的に抹殺された。正義が、遅ればせながら執行されたのだ。


門が、開く。


一人の女性が、歩いてくる。


三年前より少し大人びた顔。でも、変わらない琥珀色の瞳。長い黒髪は綺麗に整えられ、左手首の傷跡は薄くなっていた。そして——穏やかな、本物の笑み。


「お兄ちゃん」


灯が、俺の前で立ち止まる。


「……ただいま」


「おかえり、灯」


花束を渡す。灯がそれを受け取り、胸に抱く。黄色いガーベラが、春の光を浴びて輝いている。


「お姉ちゃんも」


「ただいま、灯」


玲奈が、妹を抱きしめる。灯も、姉を抱きしめ返す。


もう、壊れた少女ではない。


罪と向き合い、過去と向き合い、自分の足で立つことを選んだ——一人の女性がそこにいた。


「お兄ちゃん」


灯が、俺を見上げる。


「私、変われたかな」


「……ああ。変わったよ」


「良かった」


灯が、微笑む。太陽みたいに、眩しい笑顔だった。


「これから、どうするの?」


「決めてない。でも——」


俺の手を、そっと握る。三年前より、少しだけ温かい。


「お兄ちゃんの側に、いてもいい?」


「……当たり前だろ」


灯の目に、涙が滲む。


「ありがとう。——愛してる、お兄ちゃん」


「俺も——」


言いかけて、止まる。


灯が首を傾げる。


「……俺も、お前を大切に思ってる。これから、ゆっくり——」


「うん」


灯が、笑う。


「ゆっくり、でいいよ。時間は、たくさんあるから」


玲奈が、二人を見て微笑む。


「さあ、帰りましょう。家で、お祝いの準備をしてあるの」


「お姉ちゃんの手料理?」


「……修司さんの奥さんに手伝ってもらったわ」


「ふふ、楽しみ」


三人で歩き出す。


春の風が、髪を揺らす。桜の花びらが舞い、道を白く染めていく。


——焼け落ちた場所から、俺たちは始まった。


灰の中から、小さな灯火を見つけた。


その光は、今も俺の傍で、静かに、確かに——燃え続けている。


これからも、ずっと。




〈了〉

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