『焼け落ちた孤児院で拾った少女は、俺を裏切った婚約者の妹だった件』〜「あなたなんかと結婚するくらいなら死んだ方がマシ」と言われて婚約破棄された俺、傷心のまま故郷に帰ったら育った孤児院が燃えていて、瓦礫
「あなたなんかと結婚するくらいなら、死んだ方がマシ」
——え?
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
高級レストランの個室。柔らかな照明が白いテーブルクロスを照らし、グラスの中で赤ワインが揺れている。三年間の記念日を祝うはずだった夜。俺の向かいには、完璧に美しい女性が座っていた。
白石玲奈。
俺の、婚約者——だった、女。
「れ、玲奈……?」
声が震える。情けない。分かってる。でも、止められなかった。
「聞こえなかった?」
玲奈は眉一つ動かさない。切れ長の瞳は冷たく、まるで道端の石ころでも見るような目で俺を見下ろしていた。まるで天気の話でもするように、淡々と続ける。
「三年間、ありがとう。でも、もう終わりにしましょう。あなたとの婚約は——今日で破棄するわ」
頭が真っ白になった。
三年間。
俺は三年間、この女のために全てを捧げてきた。彼女が望むものは何でも与えた。欲しいと言われたブランド品。行きたいと言われた旅行先。会いたくないと言われた友人との縁。
全部、全部、全部——。
「なん、で……」
「理由? そうね」
玲奈が小さく笑う。その笑みが、ナイフのように俺の胸を抉った。
「飽きたの。それだけよ」
「——は?」
「あなたって、つまらないのよ。何を言っても『うん』『分かった』『玲奈の好きなようにしていいよ』。人形と話してるみたいだった」
違う。
違う違う違う。
俺は、お前に嫌われたくなくて——。
「あーあ、可哀想」
不意に、第三の声が割り込んできた。
隣のテーブル。いつの間にか座っていた派手な女が、わざとらしく頬杖をついてこちらを見ている。巻き髪に濃いメイク、ブランド物で固めた出で立ち。高城美月。玲奈の友人だ。
「三年も貢いで捨てられるとか、見る目なさすぎじゃない?」
「美月」
玲奈が窘めるような声を出すが、止める気配はない。
「だって本当のことでしょ? ねえ神崎さん、玲奈には最初から遊びだったのに、本気にしちゃったの?」
くすくすと笑う声が、耳の奥で反響する。
遊び?
三年間が——遊び?
「玲奈、これ、嘘だよな……?」
縋るように彼女を見た。俺を見下ろす切れ長の瞳は、どこまでも冷たい。
「嘘じゃないわ。むしろ、どうして本気だと思ったの?」
「だって、俺たち——」
「あなたが勝手にそう思っていただけよ」
玲奈が立ち上がる。テーブルの上には、俺が必死に貯めた金で買った婚約指輪の箱。今夜、渡すはずだった。まだ、開けてすらいない。
「じゃあね、神崎くん。——ああ、そうだ」
振り返った玲奈の唇が、残酷に歪んだ。
「来月、私、結婚するの。あなたの上司の御曹司と。式には呼ばないから、安心して」
——世界が、音を失った。
足音が遠ざかる。ドアが閉まる。美月の嘲笑が、どこか遠くで響いている。
一人残された俺は、震える手でグラスを掴んだ。水が跳ねて、テーブルクロスに染みを作る。
まあ、俺だしな。
心の中で、いつもの自嘲が響いた。
孤児院で育った俺。誰にも必要とされなかった俺。やっと見つけた「必要としてくれる人」に、三年間しがみついて——結局、捨てられた。
当然だ。
俺には、最初から価値なんてなかったんだから。
立ち上がる。足がふらつく。店員の視線が突き刺さる。全部聞こえていたのだろう。惨めな男の、惨めな結末を。
「……帰ろう」
帰る場所なんて、もうないけれど。
——いや、一つだけあった。
故郷。俺を育ててくれた、あの孤児院のある町。
逃げるように、俺は夜の街へ歩き出した。
* * *
深夜二時。
故郷の駅に降り立った瞬間、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
「……火事?」
見上げた夜空が、赤く染まっている。
嫌な予感がした。駆け出していた。革靴が砂利を蹴り、息が切れる。でも、足は止まらない。
あの方向は——。
「嘘、だろ……」
坂を上り切った瞬間、俺は立ち尽くした。
「ひだまりの家」。
俺を育ててくれた孤児院が、業火に包まれていた。
消防車のサイレンが夜を切り裂く。叫び声。逃げ惑う人影。赤と黒が交互に点滅する緊急灯。炎が窓ガラスを突き破り、火の粉が舞い上がる。
ぼんやりと、その光景を眺めた。
ああ、これは夢だ。
今日は俺にとって最悪の日で、だから夢の中でも最悪が続いているんだ。
そう思おうとした、その時——。
「——おにい、ちゃん」
聞こえた。
確かに、聞こえた。
炎の爆ぜる音の隙間から。瓦礫の下から。か細い、消えそうな声。
「誰かいるのか!?」
駆け寄る。熱風が顔を焼く。構うものか。
崩れた壁の隙間に、白い手が見えた。
「待ってろ、今助ける……!」
必死で瓦礫をどかす。手のひらが切れる。血が滲む。爪が剥がれそうになる。そんなことは、どうでもいい。
——だって、見捨てられない。
俺みたいに、誰かに見捨てられるのは、もう嫌だ。
「……っ!」
最後の瓦礫をどけた瞬間、少女が現れた。
煤だらけ。ボロボロの服。それでも分かる、透き通るような白い肌。腰まで伸びた黒髪は乱れ、左手首には古い傷跡が薄く残っている。そして——感情の読めない、琥珀色の瞳。
その瞳が、俺を捉えた。
「お兄ちゃん」
少女が、微笑んだ。
血と煤にまみれた顔で。崩れ落ちそうな体で。それでも彼女は、まるで神様に出会ったかのような表情で、俺を見上げている。
「やっと……見つけた」
「え——」
言葉が続く前に、少女の体が傾いだ。咄嗟に受け止める。
軽い。
あまりにも軽い。
「おい、しっかりしろ! おい!」
返事はない。気を失ったらしい。
救急隊員が駆け寄ってくる。少女は担架に乗せられ、運ばれていく。俺もその後を追おうとして——足元で、何かを踏んだ。
小さな、革の財布だ。
燃え残ったそれを拾い上げる。開く。
中には、身分証明書が一枚。
名前:白石灯
——白石?
嫌な汗が背筋を伝う。
まさか。いや、でも——。
「兄ちゃん、あんたが助けたのか」
声をかけられて振り返る。消防隊員だ。顔は煤で汚れていたが、その目は鋭く俺を見ていた。
「ああ……瓦礫の下に」
「助かったよ。しかし、参ったな」
「何か、あったんですか」
隊員は、炎に包まれた孤児院を見上げた。
「放火だ。明らかに人為的な火の回り方をしてる。しかも——」
「しかも?」
「犯人は、建物の中にいたらしい。自分で火をつけて、自分も焼け死ぬつもりだったんだろう。兄ちゃんが助けた、あの少女がな」
——時間が、止まった。
あの少女が。
玲奈と同じ「白石」を名乗る、あの少女が。
放火犯。
「お兄ちゃん、やっと見つけた」
さっきの言葉が、頭の中で反響する。
俺を知っている。あの少女は、確かに俺を「お兄ちゃん」と呼んだ。まるで、ずっと探していたかのように。
何なんだ、これは。
何が起きている?
燃え盛る炎を背に、俺は呆然と立ち尽くした。
厄日だ。最悪の厄日だ。婚約破棄されて、帰ってきた故郷で、育った孤児院が燃えて、助けた少女が放火犯で、しかもその少女は——。
白石灯。
玲奈の、妹?
頭を抱えたくなった。でも、一つだけ確かなことがある。
あの少女は、俺を待っていた。
あの地獄の中で、俺の名を呼んでいた。
——放っておけるわけが、なかった。
* * *
病院の廊下は、消毒液の匂いがした。
深夜三時。待合室のベンチに座った俺は、ぼんやりと天井を見上げていた。蛍光灯の光が目に沁みる。
「よう、蒼真」
聞き覚えのある声。振り返ると、坊主頭の大男が立っていた。日焼けした肌に、がっしりした体格。柴田修司。孤児院時代からの幼馴染で、今は地元の警察官だ。
「修司……」
「連絡受けて飛んできた。お前、怪我は?」
「俺は大丈夫だ。それより——」
「ああ、例の少女な」
修司が隣に座る。ベンチが軋む音がした。
「白石灯、十七歳。孤児院『ひだまりの家』の入所者。——放火の容疑者だ」
「……やっぱり」
「しかも、お前の元婚約者と同じ苗字だろ。偶然にしちゃ出来すぎてる」
「玲奈に妹がいるなんて、聞いたことなかった」
「そりゃそうだ。戸籍上は赤の他人だからな」
「は?」
修司が煙草を取り出し、吸えないと分かっていながら口に咥えた。
「白石玲奈は十五年前に別の家庭に養子に出されてる。実家との縁は完全に切れてた。——つまり、あの少女は『置いていかれた』側ってことだ」
置いていかれた。
孤児院に。
姉に、見捨てられて。
「…………」
胸が、痛んだ。
「お前は昔から損な役回りばっかだな」
修司が溜息をついた。
「婚約破棄されて帰ってきた日に、こんな事件に巻き込まれるとか。神様って奴は意地が悪い」
「俺だしな」
「またそれか」
「事実だろ」
「事実じゃねえよ。お前はいつも——」
「神崎さん」
看護師の声が、会話を遮った。
「患者さんが、目を覚まされました。あなたに会いたいと」
「……俺に?」
「はい。『お兄ちゃんを呼んで』と」
修司と目が合う。幼馴染は、複雑そうな顔で頷いた。
「行ってこい。——でも、気をつけろよ。あの少女は、普通じゃない」
普通じゃない。
そんなことは、分かっている。
病室のドアを開けた瞬間、琥珀色の瞳と視線が絡んだ。
「——お兄ちゃん」
白石灯は、包帯だらけの体をベッドに横たえていた。白い肌に白い包帯。それでも、彼女は笑っていた。まるで、世界で一番幸せなことが起きたかのように。
「来てくれた。来てくれたんだね」
「……どうして、俺を知ってる」
「知ってるよ。ずっと、ずっと覚えてた」
灯がゆっくりと手を伸ばす。俺の袖を掴む。その指は細くて、冷たかった。
「十年前。お兄ちゃんが孤児院に来た日。私、泣いてたの。お腹が空いて、寒くて、誰も助けてくれなくて。そしたら——」
『大丈夫?』
記憶が、蘇った。
十年前。俺が大学進学で上京する直前、一度だけ「ひだまりの家」を訪ねたことがあった。自分を育ててくれた場所に、お礼を言うために。
その時——泣いていた、小さな女の子がいた。
『お兄ちゃんが、いなくなっちゃう。私、一人になっちゃう』
理由は分からなかったけど、放っておけなくて。頭を撫でて、こう言ったんだ。
『一人じゃないよ。君を見てる人は、必ずどこかにいる』
——それが、この少女だったのか。
「お兄ちゃんの言葉だけが、私の支えだった」
灯の目が、異様に輝く。
「お兄ちゃんがいれば、生きていける。お兄ちゃんに会えれば、何でも耐えられる。だから——」
「だから、孤児院を燃やしたのか」
灯の表情が、一瞬だけ歪んだ。
「……汚かったの。あの場所。お兄ちゃんに会う前に、全部、綺麗にしたかった」
「綺麗に……?」
「私の中の、汚いもの。全部、燃やしたかった」
狂っている。
そう思った。この少女は、完全に壊れている。
でも——その壊れ方を、俺は知っている。
誰かに必要とされたくて。自分の存在に意味が欲しくて。たった一人の人間に全てを賭ける、あの感覚を。
俺と、同じだ。
「お兄ちゃん」
灯が、俺の袖をさらに強く握る。
「私のこと、捨てないでね?」
その瞳は、どこまでも真剣だった。
「だって私、お兄ちゃんのためなら何でもできるから」
——何でも。
その言葉の重さを、俺はまだ理解していなかった。
理解するには、あまりにも疲れ果てていたから。
「……分かった。今は、休め」
気づけば、俺は彼女の頭を撫でていた。十年前と、同じように。
灯が目を閉じる。安心しきった表情で。まるで、やっと帰る場所を見つけた迷子のように。
窓の外では、朝焼けが始まっていた。
焼け落ちた孤児院の煙が、まだ空に昇っている。
——これが、俺たちの始まりだった。
* * *
それから三日が経った。
灯は俺の実家——今は空き家になっている古い一軒家で療養していた。本来なら警察に引き渡すべきなのだろう。でも、修司が「証拠固めに時間がかかる」と言って、暗黙の猶予をくれていた。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
台所から、灯の声が聞こえる。
振り返ると、エプロン姿の少女が皿を運んできた。味噌汁と焼き魚。質素だが、丁寧に作られた朝食。
「……お前が作ったのか」
「うん。お兄ちゃん、昨日コーヒーしか飲んでなかったから」
鋭い。確かに、ここ数日ろくに食べていなかった。
「いただきます」
箸をつける。美味い。孤児院で覚えたのだろうか。そう思った瞬間、胸が痛んだ。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと、まだ好き?」
唐突な質問だった。
箸が止まる。灯は無表情のまま、俺を見つめている。
「……どうして、そんなことを聞く」
「知りたいから」
「玲奈のことは——」
言いかけて、言葉が詰まる。
好きだったのか? 本当に?
三年間、俺は玲奈に尽くしてきた。でもそれは、愛情だったのか。それとも、「必要とされたい」という飢えを満たすための手段だったのか。
「……分からない」
正直に答えた。
「そっか」
灯の表情が、僅かに緩む。
「私ね、お姉ちゃんのこと、嫌い」
「……そうか」
「だって、私を置いていったから。一人で、あんな場所に」
灯の声は淡々としていた。でも、その目の奥に、暗い炎が揺れているのが見えた。
「お姉ちゃんは、養子に行く時、私に言ったの。『すぐに迎えに来るから』って。——嘘だった」
十五年。
十五年間、灯はあの孤児院で待ち続けたのだ。迎えに来ない姉を。
「でもね、今は平気」
灯が、笑う。
「だって、お兄ちゃんがいるから」
——その笑顔が、怖かった。
どうしようもなく、怖かった。
玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。
「俺が出る。灯は部屋にいろ」
「……うん」
灯の目が、一瞬だけ警戒に染まる。
玄関を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
「久しぶりね、蒼真」
——白石玲奈が、そこに立っていた。
完璧なスーツ。完璧なメイク。完璧な佇まい。でも、その目の下には薄い隈があった。三日前には気づかなかった疲労の色。
「……何の用だ」
「その子から離れて」
玲奈の声は、低く、切迫していた。
「灯——私の妹から、今すぐ離れなさい」
「妹がいることすら知らなかったのに?」
「それは——」
「お前が俺を捨てた三日後に、その妹が俺の前に現れた。偶然だと思うか?」
玲奈の顔が、僅かに歪む。
「……あの子は危険よ。あなたには分からないでしょうけど、あの子は——壊れているの」
「知ってる」
玲奈が目を見開く。
「知ってて、一緒にいるの?」
「ああ」
なぜか、そう答えていた。
「俺も壊れてるからな。お互い様だ」
「蒼真……」
玲奈の目に、複雑な感情が浮かぶ。怒り? 悲しみ? それとも——。
「お姉ちゃん」
背後から、声がした。
振り返ると、灯が廊下に立っていた。その目は、玲奈を真っ直ぐに射抜いている。
「久しぶり。十五年ぶりだね」
「灯——」
「迎えに来てくれたの? ——嘘。そんなわけないよね」
灯の唇が、残酷に歪む。
「お姉ちゃんは、私を迎えに来たんじゃない。お兄ちゃんを取り戻しに来たんでしょ?」
「違う、私は——」
「残念だけど、もう遅いよ」
灯が、俺の腕に絡みつく。蛇のように。獲物を逃さないように。
「お兄ちゃんは、私のものだから」
——空気が、凍りついた。
三人の間に、重い沈黙が落ちる。
玲奈の目には、恐怖があった。
灯の目には、勝利があった。
そして俺は——二人の間で、身動きが取れなくなっていた。
「……話がある」
玲奈が、絞り出すように言った。
「全部、話すわ。私があなたを捨てた、本当の理由を」
その言葉に、灯の体が強張るのが分かった。
何かが——動き始めている。
俺たちを巻き込む、大きな渦が。
* * *
リビングに、三人が座っている。
俺と灯が並んでソファに。向かいの椅子に、玲奈が。まるで裁判のような配置だった。
「……どこから話せばいいのかしら」
玲奈が、震える手で煙草を取り出す。火をつける指先が、かすかに揺れていた。
「最初から話せ。全部」
俺の言葉に、玲奈が苦笑する。
「最初から、ね。——分かったわ」
煙を吐き出し、玲奈は語り始めた。
「私と灯は、本当の姉妹よ。父親は同じ。白石源一郎——『ひだまりの家』の院長」
「……なんだと?」
「驚いた? 私たちは、あの男の娘なの。でも、母親は違う。私の母は院長の最初の愛人。灯の母は、二番目の愛人」
灯の体が、僅かに強張るのが分かった。
「私たちは、最初から『商品』だった」
玲奈の声が、冷たく響く。
「院長は、私たちを売り物にしていたの。私は十二歳の時、裕福な家庭に『養子』として売られた。金額は、三百万円。灯は——」
「私は、売れなかった」
灯が、静かに言った。
「『商品価値がない』って。だから、孤児院に残された」
「灯……」
「いいよ、お姉ちゃん。今さら庇わなくていい」
灯の目が、冷えていく。
「十五年間、私はあそこで生きてきた。院長に殴られて、働かされて、夜は——」
言葉が、途切れる。
俺は、その先を聞きたくなかった。聞いてしまったら、何かが壊れてしまう気がしたから。
「……玲奈。お前は、それを知ってたのか」
「知ってた。でも、どうしようもなかった」
玲奈の手が、煙草を握り締める。
「養子先の家庭は、院長と繋がっていた。私が逆らえば、灯がもっと酷い目に遭う。だから私は、従うしかなかった。いい大学を出て、いい会社に入って、『優秀な商品』でいることしか——」
「じゃあ、俺との婚約は?」
玲奈が、俺を見た。
その目に浮かんでいたのは——痛みだった。
「本気だったわ。あなたと出会って、初めて『自分の意思で誰かを好きになれる』と思った」
「なら、なぜ——」
「院長に知られたの」
玲奈の声が、震える。
「あなたとの関係を。そしたら、脅されたわ。『別れなければ、妹をもっと酷い目に遭わせる』って」
「……!」
「あの日、婚約破棄したのは、あなたを守るためよ。あなたを巻き込みたくなかった。あなたまで、あの男に——」
「黙って」
灯の声が、部屋を切り裂いた。
「もう、黙って。お姉ちゃん」
灯が立ち上がる。その目には、涙が溢れていた。
「十五年間、お姉ちゃんを信じてた。いつか迎えに来てくれるって。でも、来なかった。一度も。手紙も、電話も、何もなかった」
「灯、それは——」
「お兄ちゃんを守るため? 私より、お兄ちゃんが大事だったの?」
玲奈が、言葉を失う。
「……違うわ。私は——」
「もういい」
灯が、俺の腕を掴む。
「帰って、お姉ちゃん。もう来ないで」
「灯——」
「来ないでって言ってるの!」
灯の叫びが、部屋に響き渡った。
玲奈が、よろめくように立ち上がる。その顔は蒼白で、今にも崩れ落ちそうだった。
「……分かったわ。今日は帰る」
玄関に向かう足音。ドアが開く音。そして——。
「蒼真」
振り返らずに、玲奈が言った。
「お願い。あの子を、守ってあげて」
「……俺が?」
「あなたにしか、できないから」
ドアが、閉まる。
静寂が、降りてきた。
「……お兄ちゃん」
灯が、俺に寄りかかる。小さな体が、震えていた。
「私、お姉ちゃんのこと、許せない。でも——」
「でも?」
「——会えて、嬉しかった」
その声は、子供のように小さかった。
俺は、何も言えなかった。
ただ、震える少女の頭を、撫でることしかできなかった。
窓の外では、日が暮れ始めていた。
長い一日が、終わろうとしている。
でも、俺には分かっていた。
本当の戦いは——これからだ。
* * *
その電話が来たのは、翌日の夜だった。
「蒼真、ちょっと署まで来れるか」
修司の声は、いつになく硬かった。
「何かあったのか」
「……来てから話す。一人で来い」
電話が切れる。嫌な予感がした。
灯を残して外出するのは気が引けたが、「すぐ戻る」と告げて家を出た。
署に着くと、修司は厳しい表情で待っていた。
「こっちだ」
案内された先は、取調室ではなく応接室だった。そこに、一人の男が座っている。
脂ぎった顔。濁った目。不快感を与える笑み。
「初めまして、神崎蒼真くん」
男が、ゆっくりと立ち上がる。
「私は白石源一郎。『ひだまりの家』の院長——だった男だ」
血が、逆流するような感覚。
こいつが。こいつが、灯を——。
「随分と世話になっているようだね、うちの娘に」
「……何の用だ」
「おいおい、そう怖い顔をしないでくれ。私は話し合いに来ただけだ」
源一郎が、懐から封筒を取り出す。テーブルの上に置く。
「灯を返してくれないか。娘なんだ、心配でね」
「娘?」
俺の声が、低く響く。
「娘を『商品価値がない』と言って孤児院に捨てた奴が、何を言ってるんだ」
源一郎の目が、一瞬だけ鋭くなった。でも、すぐに笑みが戻る。
「誰から聞いたか知らないが、誤解だよ。私は常に娘たちのことを想って——」
「虐待していたんだろう。灯を。他の孤児たちも」
「証拠でもあるのかい?」
「灯の体にある、傷が証拠だ」
修司が、横から口を挟む。
「源一郎さん。あんた、ここに呼ばれた理由、分かってるよな」
「……何のことだい」
「孤児院の火災。放火だってのは確定してる。で、動機を持つ人間を調べてたら——あんたの名前が出てきたんだよ」
源一郎の笑みが、僅かに引き攣る。
「馬鹿馬鹿しい。私が自分の孤児院を燃やす理由がどこにある」
「証拠隠滅、とかな」
修司がファイルを開く。
「匿名の通報があったんだ。『ひだまりの家』で子供たちへの虐待が行われている、ってな。調査が入る予定だった。火災の、三日後に」
「……それは——」
「灯が火をつけたのは事実だ。でも、彼女を追い詰めたのは誰だ?」
源一郎の顔から、笑みが消える。
代わりに浮かんだのは——醜い、憎悪だった。
「……あの出来損ないが。私を裏切りやがって」
「今、何て言った」
「うるさい!」
源一郎が、テーブルを叩く。
「私がどれだけ苦労してあのガキどもを育てたと思ってるんだ! 金も、時間も、全部注ぎ込んだ! なのに、恩を仇で返しやがって——!」
「育てた?」
俺は、静かに言った。
「お前がやったのは、子供たちを売り物にすることだけだろう」
「何だと?」
「玲奈を三百万で売った。灯は売れなかったから、労働力として使い潰した。それのどこが『育てた』だ」
源一郎の目が、狂気に染まる。
「黙れ、孤児院出のゴミが! お前も所詮は捨てられた人間だろう! 私に説教する資格なんてない!」
「ああ、俺は捨てられた人間だ」
立ち上がる。源一郎を、真っ直ぐに見下ろす。
「だからこそ、お前みたいな奴を許せないんだ」
「っ——!」
「修司。こいつを逮捕しろ」
「蒼真——」
「証拠なら、俺が集める。灯の証言。他の孤児たちの証言。そして——」
ポケットから、USBメモリを取り出す。
源一郎の顔が、凍りつく。
「そ、それは——」
「お前の悪事の記録だ。玲奈から受け取った。彼女は、ずっと証拠を集めていたらしい。妹を救うために」
修司がUSBメモリを受け取る。
「白石源一郎。児童虐待、人身売買、詐欺、横領——容疑は山ほどあるぞ」
手錠がかかる音が、響いた。
「ま、待て! 私は何も——」
「黙れ」
俺は、振り返らずに部屋を出た。
背後で、源一郎の叫び声が聞こえる。
「覚えてろ! 必ず報復してやる! お前も、あの出来損ないの娘たちも——!」
——うるさい。
お前の声は、もう届かない。
外に出ると、夜空に星が見えた。
終わった。
やっと——終わった。
でも、まだやることがある。
灯のところへ——帰らなければ。
* * *
家に戻ると、予想外の光景が広がっていた。
灯と玲奈が、リビングにいた。
二人とも、泣いていた。
「お、お兄ちゃん……」
灯が俺を見て、涙を拭う。
「お姉ちゃんが、来て……それで……」
「いいんだ。分かってる」
俺は、二人の側に座った。
「源一郎は逮捕された。もう、お前たちを脅かす奴はいない」
玲奈が、顔を上げる。
「……本当に?」
「ああ。お前が集めた証拠のおかげだ」
「私が……」
「ずっと戦ってたんだろう。一人で。誰にも言わずに」
玲奈の目から、新しい涙がこぼれる。
「ごめんなさい……蒼真……私、あなたに酷いことを——」
「いい。もう、終わったことだ」
本当は、まだ傷は癒えていない。でも、今はそれを言う時じゃない。
「灯」
玲奈が、妹の方を向く。
「十五年間、ごめんなさい。私は——姉失格だった」
「お姉ちゃん……」
「迎えに行けなかった。手紙も出せなかった。あの男に監視されていて、怖くて——でも、言い訳よね。私は結局、自分を守ることしか考えてなかった」
玲奈が、床に額をつける。
「許してなんて言わない。でも——生きていてくれて、ありがとう。会えて、嬉しかった」
長い沈黙が、流れた。
灯の手が、ゆっくりと動く。
姉の肩に、触れる。
「……私も」
灯の声は、震えていた。
「私も、会えて嬉しかった。ずっと——会いたかった」
玲奈が顔を上げる。
姉妹の目が、合う。
そして——。
灯が、玲奈に抱きついた。
「お姉ちゃん……!」
「灯……!」
十五年分の涙が、溢れ出す。
二人は抱き合ったまま、泣き続けた。
俺は、その光景を見守っていた。
胸の奥が、温かくなる。
——良かった。
本当に、良かった。
この二人が、やっと——。
「……お兄ちゃん」
灯が、涙で濡れた顔を上げる。
「私、決めた」
「何を?」
「自首する。孤児院に火をつけたこと」
俺の心臓が、跳ねる。
「灯——」
「分かってる。捕まるよね。刑務所に入るかもしれない。でも——」
灯が、微笑む。
壊れた笑みではなく。穏やかな、本当の笑みで。
「このままじゃ、お兄ちゃんの側にいる資格がない。ちゃんと罪を償って、綺麗になって——それから、戻ってきたい」
「灯……」
「待っててくれる?」
俺は、彼女を見た。
煤だらけで助け出した、あの夜。「お兄ちゃん」と呼んで微笑んだ、壊れた少女。
今、その少女は——自分の足で立とうとしている。
「——ああ」
俺は、頷いた。
「何年でも、待つ」
灯の目に、涙が光る。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
玲奈が、二人を見守っている。
その目には、悲しみと、安堵と、そして——希望があった。
「私も、待つわ」
玲奈が言った。
「今度こそ、逃げない。妹が戻ってくるまで——何年でも」
窓の外から、朝日が差し込んでくる。
長い夜が、明けようとしていた。
俺たちの物語は——ここから、本当に始まるのだ。
* * *
三年後——。
春の陽射しが、刑務所の門を照らしていた。
俺は、門の前に立っている。
手には、小さな花束。灯が好きだと言っていた、黄色いガーベラ。
「緊張してる?」
隣に立つ玲奈が、微笑む。三年前より柔らかくなった表情。大企業を辞め、児童福祉の仕事に就いた彼女は、かつての冷たさが嘘のように穏やかになっていた。
「……少しだけ」
「私もよ」
三年間。
短いようで、長い時間だった。
俺は故郷で小さな会社を立ち上げた。孤児院出身の若者を雇って、少しずつだけど成長している。修司は相変わらず地元の警察官で、時々差し入れを持って刑務所に通ってくれた。「お前らのために面会の便宜図るの、何回目だよ」と愚痴りながら。
そして——源一郎は、懲役十五年の判決を受けた。高城美月は共犯として逮捕され、社会的に抹殺された。正義が、遅ればせながら執行されたのだ。
門が、開く。
一人の女性が、歩いてくる。
三年前より少し大人びた顔。でも、変わらない琥珀色の瞳。長い黒髪は綺麗に整えられ、左手首の傷跡は薄くなっていた。そして——穏やかな、本物の笑み。
「お兄ちゃん」
灯が、俺の前で立ち止まる。
「……ただいま」
「おかえり、灯」
花束を渡す。灯がそれを受け取り、胸に抱く。黄色いガーベラが、春の光を浴びて輝いている。
「お姉ちゃんも」
「ただいま、灯」
玲奈が、妹を抱きしめる。灯も、姉を抱きしめ返す。
もう、壊れた少女ではない。
罪と向き合い、過去と向き合い、自分の足で立つことを選んだ——一人の女性がそこにいた。
「お兄ちゃん」
灯が、俺を見上げる。
「私、変われたかな」
「……ああ。変わったよ」
「良かった」
灯が、微笑む。太陽みたいに、眩しい笑顔だった。
「これから、どうするの?」
「決めてない。でも——」
俺の手を、そっと握る。三年前より、少しだけ温かい。
「お兄ちゃんの側に、いてもいい?」
「……当たり前だろ」
灯の目に、涙が滲む。
「ありがとう。——愛してる、お兄ちゃん」
「俺も——」
言いかけて、止まる。
灯が首を傾げる。
「……俺も、お前を大切に思ってる。これから、ゆっくり——」
「うん」
灯が、笑う。
「ゆっくり、でいいよ。時間は、たくさんあるから」
玲奈が、二人を見て微笑む。
「さあ、帰りましょう。家で、お祝いの準備をしてあるの」
「お姉ちゃんの手料理?」
「……修司さんの奥さんに手伝ってもらったわ」
「ふふ、楽しみ」
三人で歩き出す。
春の風が、髪を揺らす。桜の花びらが舞い、道を白く染めていく。
——焼け落ちた場所から、俺たちは始まった。
灰の中から、小さな灯火を見つけた。
その光は、今も俺の傍で、静かに、確かに——燃え続けている。
これからも、ずっと。
〈了〉




