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妹に奪われたので、兄にしました

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/04/24

 伯爵令嬢オルガ・レインフォードである私が、王都の夜会に出るのは三か月ぶりだった。薄青のドレスは古い型だが、裾の刺繍だけは母が眠る前に残してくれたもので、胸を張るにはそれで十分だった。


 隣に立つ侯爵令息セドリック・アルヴァンは、私の婚約者である。金の髪を撫でつけ、誰にでも優しく笑う男だが、その笑みが私に向いたのはもう半年も前のことだった。


「オルガ、少し話がある。人の少ない場所へ来てくれないか」


「嫌よ。あんたの少しは、たいてい私が泣くまで続くもの」


「今日は違う。大事な話なんだ。頼むから、ここでは騒がないでくれ」


 騒がないでくれ、という言い方がまず気に入らない。まだ何もしていない女を、先に悪者の椅子へ座らせるのは卑怯者のやり方だ。


 けれど、周囲の視線がこちらへ流れ始めていた。私は扇を閉じ、笑ってやった。笑っていないと、こいつの靴を踏み抜きそうだったからだ。


「いいわ。逃げ道のない場所だけはやめなさいよ。私が怒鳴った時、皆に聞こえないと困るでしょう」


「君は本当に、昔から口が悪いな」


「あんたは昔から、肝心な時だけ耳が悪いわね」


 セドリックの頬が少し引きつった。その背後から、甘い香水の匂いが滑り込んでくる。


 子爵令嬢ミレーユ・レインフォード。私の異母妹である。父が後妻と一緒に屋敷へ連れてきた、花のように笑うのが得意な娘だった。


「お姉さま、そんな怖いお顔をなさらないでください。セドリック様は、ずっと悩んでいらしたんです」


「へえ。本人の口より先に、あんたの口が動くのね。腹話術でも覚えたの?」


「ひどいです。わたくし、お姉さまに幸せになってほしくて」


「私の幸せを語る前に、その腕を離しなさい。婚約者の腕に妹がぶら下がる趣味は、うちの家にはないわ」


 ミレーユの細い指が、セドリックの袖をぎゅっと握った。潤んだ瞳が上を向く。あの角度はよく知っている。父が叱りかけた時も、侍女が注意した時も、彼女はいつもその顔を作る。


 セドリックは守るように半歩前へ出た。ああ、なるほど。今夜の私は悪役で、ミレーユは震える花か。


「オルガ、彼女を責めるな。悪いのは僕だ」


「そこだけは同意するわ。続けなさい」


「僕は、君との婚約を解消したい。そして、ミレーユ嬢を選びたい」


 広間の音が少し遠のいた。楽師の弓が弦を撫でる音も、貴婦人たちのさざめきも、どこか水の向こうから届くようだった。


 泣くと思ったのだろう。セドリックは苦しげな顔をしていた。ミレーユは勝った顔を隠すため、白い手袋で口元を押さえている。


「そう。で、それを今ここで言うのね」


「君には悪いと思っている。だが、僕は真実の愛に気づいてしまったんだ」


「真実の愛。便利な言葉ね。寝坊も借金も浮気も、それを被せれば香水の瓶に見えるもの」


「浮気ではない。僕たちは清らかな気持ちで支え合ってきた」


「清らかね。人の婚約者に毎晩手紙を書いて、庭園で二人きりになって、私の悪口を相談と呼んでいたのに?」


 ミレーユの肩が跳ねた。セドリックの顔から血の気が引く。どうやら、私が何も知らないと思っていたらしい。


 私は扇で自分の胸元を軽く叩いた。息が浅くなるのを、腹の底へ押し返す。泣くには早い。泣くなら、こいつらの前ではなく、勝ってからだ。


「お姉さま、誤解です。わたくし、ただ寂しくて相談していただけで」


「相談なら父にしなさい。侍女にしなさい。壁にでも話しかけなさい。どうして私の婚約者の手を握る必要があるのよ」


「だって、セドリック様は優しく聞いてくださって」


「盗った菓子は甘いでしょうね。噛んだ後で歯が折れればいいのに」


「オルガ!」


 セドリックの声が広間に響いた。周囲の視線が一気に集まる。彼はしまったという顔をしたが、もう遅い。


 招待客たちが扇の影でこちらを見ている。誰も止めない。こういう時、貴族は助けるより眺める。蜜に群がる蜂より行儀が悪い。


「君のそういうところが嫌だった。強くて、可愛げがなくて、僕が何を言っても言い返してくる」


「黙って頷く人形が欲しいなら、陶器店へ行きなさいよ」


「ミレーユは違う。彼女は僕を頼ってくれる。僕を必要としてくれるんだ」


「必要としているのは財布と肩書と、姉に勝った気分でしょう」


 ミレーユの目に涙が盛り上がった。だが落ちない。絶妙な場所で止まっている。職人芸だ。拍手してやってもいい。


「お姉さま、わたくし、そんなつもりではありません。ただ、セドリック様をお慕いしてしまっただけです」


「人の皿から肉を取って、好きになっただけですって言えば許されると思うな」


「わたくしをそんなふうに言わないでください。お姉さまは何でも持っているのに」


「母の形見も、父の関心も、婚約者も、全部欲しがったあんたがそれを言う?」


 ミレーユの唇が震えた。今度は本当に傷ついたような顔だった。けれど、私は知っている。傷つくのはいつも奪えなかった時だけだ。


 セドリックがミレーユの肩を抱いた。その瞬間、胸の奥で何かが小さく砕けた。腹は立つ。情けない。だが一番嫌なのは、少しだけ寂しいと思ってしまった自分だった。


「もうやめてくれ。彼女を傷つけるなら、僕は君を許せない」


「許さなくて結構。こっちも、あんたを磨いて飾る係は今日で終わりよ」


「僕を磨いて飾る?」


「夜会の挨拶を忘れた時、誰が横から助けたの。贈り物の好みを外した時、誰が先方へ詫びたの。あんたが笑っていられたのは、後ろで私が泥をかぶっていたからでしょうが」


 セドリックは答えなかった。答えられない沈黙は、下手な謝罪より腹が立つ。


 ミレーユがすがるように彼を見上げる。セドリックはその視線に力を得たらしく、胸を張り直した。


「それでも、僕はミレーユを選ぶ。君とは終わりだ、オルガ」


「終わりね。分かったわ」


「……ずいぶん簡単に引くんだな」


「泣いてすがれば満足だった? 残念ね。私があんたにすがるくらいなら、噴水の魚に求婚するわ」


 周囲から小さな笑いがこぼれた。セドリックの耳が赤くなる。ミレーユの目が鋭く細まった。


 勝ったつもりの女は、笑われることに弱い。私はその顔を見て、やっと少し息が楽になった。


「ただし、言っておくわ。私を捨てて妹を選ぶなら、最後まで抱えて歩きなさい。途中で重いと泣きついてきても、こっちは扉を閉める」


「誰が泣きつくものか。僕は彼女を幸せにする」


「なら今すぐ幸せにしなさいよ。まずは彼女が私から借りた真珠の髪飾りを返すところからね」


 ミレーユの顔が白くなった。今夜の髪に挿している大粒の真珠。母の遺した物だ。貸した覚えはない。彼女の部屋から、侍女が見つけた時にはもう遅かった。


 ざわめきが広がる。ミレーユは髪に触れ、涙を落とした。今度は落とす場所を間違えた。真珠の上で光る涙は、美談ではなく盗人の飾りに見える。


「ち、違います。これは、お父さまがわたくしに」


「父はその真珠を見分けられないわ。母の物に興味なんてなかったもの」


「オルガ、今それを言う必要があるのか」


「あるわよ。婚約者を取られた夜に、母の形見まで飾られて黙るほど、私は出来のいい姉じゃない」


 声が震えかけた。奥歯を噛んで止める。泣くな。泣くな。ここで泣けば、全部あの女の舞台になる。


 ミレーユが一歩下がった。セドリックが彼女をかばう。二人並ぶ姿は、絵に描いた恋人同士のようだった。胸の痛みが、だんだん熱に変わる。


「セドリック様、怖いです。お姉さまが、わたくしを皆の前で」


「大丈夫だ。僕が守る」


「守るなら、真珠を外してからにしなさい。盗んだ飾りで震えられても、こっちは虫唾が走るのよ」


「君は本当にひどい女だ」


「今さら気づいたの? おめでとう。観察力が赤ん坊より少し上がったわ」


 広間の入口で、重い扉が開く音がした。冷えた夜気が流れ込む。人々の視線が、私たちからそちらへ移った。


 黒い礼装の男が立っていた。長身で、肩幅があり、銀の髪を後ろで結んでいる。セドリックの兄であり、アルヴァン侯爵家の長男ヴィクトル・アルヴァンである。


 彼は社交の場にほとんど出ない。戦場帰りの狼だとか、笑わない鉄仮面だとか、令嬢たちは好き勝手に噂していた。だが今夜の彼は、冷たい顔どころか、ひどく楽しそうに片眉を上げていた。


「ずいぶん賑やかだな。弟が婚約者を捨てる場に、俺が遅れたか」


「兄上、これは僕たちの問題です」


「そうか。なら、まずその髪飾りを返せ。母親の形見を盗んだ女を抱いて、真実の愛とは大した芸だ」


 ミレーユが小さく悲鳴を上げた。セドリックが凍りつく。周囲のざわめきが一段高くなる。


 ヴィクトルは私の前まで歩いてきた。黒い手袋の指が、私の肩に落ちたショールを拾い上げる。彼の動きは乱暴ではないのに、誰にも逆らわせない重さがあった。


「オルガ嬢、泣くなよ。ここで泣くと、あの二人が物語の主役みたいになる」


「泣いてないわ。目に怒りが詰まっただけよ」


「いい返事だ。なら聞こう。君はまだ、あの弟が欲しいか」


「いらない。返品札を貼って、箱ごと川へ流したいくらいよ」


 ヴィクトルが低く笑った。初めて聞く笑い声だった。胸の痛みが、少しだけ別の音に紛れる。


「では、俺が君をもらう」


「……は?」


「弟が手放したなら、アルヴァン家で一番見る目がある男が拾う。それだけだ」


「ちょっと待ちなさい。犬猫みたいに言わないでくれる?」


「失礼した。では言い直す。オルガ・レインフォード嬢、俺の妻になる気はあるか」


 広間が爆発したようにざわめいた。セドリックが何か叫んだ。ミレーユが泣いた。誰かが扇を落とした音もした。


 私だけが、目の前の男を見上げていた。銀の瞳は冗談の色をしていない。からかいでも同情でもない。彼は本気で、私に手を差し出している。


「今この場で言う話じゃないでしょうが」


「今でなければ、弟が自分の損を理解できない」


「性格悪いわね、あんた」


「君ほどではない」


「褒め言葉として受け取るわ」


 差し出された手を見た。母の形見を髪に挿した妹。真実の愛を掲げた元婚約者。見物人たちの好奇の目。その全部が、急に遠くなる。


 私はヴィクトルの手を取った。手袋越しなのに、熱が伝わる気がした。


「いいわ。どうせ今夜、私は捨てられた悪女役なんでしょう。だったら、もっと派手に奪われてやる」


「上出来だ。泣くよりずっと似合う」


「当然よ。私を泣かせたいなら、もっと高い男を連れてきなさい」


「その条件なら、俺で足りるな」


 ヴィクトルは私の手を引き、広間の中央へ向きを変えた。セドリックの顔は、初めて見るほど歪んでいた。


「兄上、ふざけるな。オルガは僕の婚約者だったんだ」


「だった、のだろう。自分で捨てた物を、兄が拾って怒るな」


「彼女は物ではありません!」


「今さら丁寧に扱うな。似合わん」


 私は思わず吹き出した。最悪の夜だと思っていたのに、腹の底から笑いが込み上げた。


 ミレーユが私を睨んでいる。真珠はまだ彼女の髪で光っていた。けれどもう、あの輝きは彼女を飾っていない。むしろ、彼女の首を細い糸で締めているように見えた。


 ヴィクトルが私の耳元へ顔を寄せる。


「まずは髪飾りを取り戻す。次に、君を温かい馬車へ乗せる。それから、好きなだけ怒れ」


「怒鳴ってもいいの?」


「俺に向けるな。馬車の壁なら好きにしろ」


「あんた、案外けちね」


「君に蹴られるほど、まだ親しくない」


 私はまた笑った。笑いながら、少しだけ目の奥が熱くなった。だが涙は落とさなかった。


 今夜、私は捨てられた。けれど、終わりにはしない。あの二人が甘い物語を始めるなら、私はその表紙ごと踏みつけてやる。


 ヴィクトルの手を握り返すと、彼は満足そうに目を細めた。


 その時初めて、セドリックが私の名を呼んだ。


「オルガ、待て」


 私は振り返り、にっこり笑った。


「嫌よ。待つ女は、もう廃業したの」



 夜気が頬を刺した。広間の熱が嘘みたいに遠ざかり、馬車の前で私はやっと息を吐いた。握っていた手が離れると、急に足元が軽くなる。


 伯爵令嬢オルガ・レインフォードである私を、アルヴァン侯爵家長男ヴィクトル・アルヴァンが連れ出した。夜会の中央から、何の遠慮もなく。


 あり得ない話だ。だが、今の私には都合がいい。


「で、あんた。さっきの話、本気なの?」


「本気でなければ、あの場で言わん。俺は舞台の上で冗談を言う趣味がない」


「じゃあ聞くわ。私を拾った理由、三つ以内で答えなさい」


「注文が多いな。いいだろう。一つ、君は有能だ。二つ、君は逃げない。三つ、弟に渡すには惜しい」


「最後が一番しょうもないわね」


「だが分かりやすいだろう」


 ヴィクトルが馬車の扉を開ける。内側には厚いクッションが敷かれ、毛布まで用意されていた。用意が良すぎる。


 私は乗り込まず、腕を組んだ。


「もう一つ聞く。私を慰めるための善意なら、いらないわ」


「善意で人を妻にするほど、俺は暇ではない」


「なら、利用する気ね」


「互いにだろう。君は居場所を欲し、俺は隣に立つ人間を欲しい」


「言い方が商売人ね」


「恋に酔うよりは役に立つ」


 私は少しだけ笑った。甘い言葉より、こういう冷たい言い方の方が信用できる。


 だが、条件は握っておく。


「分かった。じゃあ、私も三つ出す。受けるなら乗る」


「言ってみろ」


「一つ、私を隠さないこと。拾ったなら堂々と連れ歩きなさい」


「当然だ。隠すなら拾わん」


「二つ、私に口を出させること。黙る人形は嫌いなの」


「それも問題ない。むしろ黙る方が困る」


「三つ、あの二人に泣きつかれても、絶対に助けないこと」


 ヴィクトルの目がわずかに細くなった。夜の中で、その銀色だけが光る。


「助ける価値があるなら考えるが、ないだろうな」


「即答しなさいよ。あんた、妙に優しい顔する時があるわ」


「優しい顔ではない。面倒を避ける顔だ」


「同じよ。で、どうなの」


「助けん。少なくとも、君の前では」


「……そこは一生にして」


「君が飽きなければな」


 私は少しだけ息を吐いた。完全ではないが、悪くない答えだ。


 足を一歩、馬車へ乗せる。


「じゃあ契約成立。あんたの馬車、借りるわ」


「借りる? もう君のだろう」


「調子に乗るな。まずは座り心地を確かめる」


「気に入らなければ、別のを用意する」


「金持ちの嫌なところが出てるわよ」


 座席に腰を下ろすと、体の力が一気に抜けた。背中を預けた瞬間、今まで張っていたものが緩む。


 泣くな。まだだ。


 ヴィクトルが向かいに座り、扉を閉める。馬車がゆっくり動き出した。


「まず、髪飾りだ。あれは必ず取り返す」


「どうやって。あの場で奪い返せばよかったじゃない」


「奪うより、返させた方が長く効く」


「性格悪いわね」


「さっきから褒めているのか」


「半分ね」


 私は目を閉じた。まぶたの裏に、さっきの光景が残っている。セドリックの顔、ミレーユの涙、笑う客たち。


 胸の奥がじわじわと痛む。


「……あんた、どうして来たの」


「夜会にか」


「そう。あんた、社交に出ないんでしょ」


「用があった」


「用?」


「弟の様子が妙だった。だから来た」


「それで、あの場面に間に合ったわけ」


「間に合ったというより、間に合わせた」


 私は目を開けた。ヴィクトルはまっすぐこちらを見ている。


「見てたの?」


「途中からな。君が言い返すところも、黙るところも」


「全部?」


「ほぼ全部」


「……最悪」


「同意する。だが、良かった」


「どっちよ」


「君が折れなかったからだ」


 その言葉は、思ったより静かに胸へ落ちた。


 私は顔を逸らした。窓の外は暗い。灯りが流れていく。


「折れるつもりなんて、最初からないわ」


「そうだろうな」


「ただ……少しだけ、悔しかっただけよ」


「当然だ」


「少しだけよ」


「嘘をつくな。もっと悔しい顔をしていた」


「見てたくせに言うな」


 ヴィクトルが低く笑う。その音は、広間で聞いたものより近い。


 私は膝の上で拳を握った。指先が少し震えている。


「……あいつ、私を見ないで言ったのよ」


「誰だ」


「セドリック。婚約を解消したいって言う時、私の目を見なかった」


「卑怯だな」


「そうよ。だから、余計に腹が立つの」


 声が少しだけ掠れた。喉が痛い。


 ヴィクトルは何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。


 その視線が妙に落ち着くのが、また腹立たしい。


「泣きたければ泣け」


「嫌よ」


「我慢するな」


「するわ。あんたの前で泣いたら、負けた気がするもの」


「勝ち負けの話か」


「そうよ。私は負けて終わるのが一番嫌いなの」


「なら、勝て」


「簡単に言うわね」


「簡単だ。勝つ場所を変えればいい」


 私は眉をひそめた。


「どういう意味」


「さっきの場は、あいつらの土俵だ。そこで勝つ必要はない」


「じゃあどこで勝つのよ」


「これから作る」


 ヴィクトルは当たり前の顔で言った。


 その言い方が、妙に腹に落ちる。


「……あんた、いつもそんなふうに考えてるの」


「負ける場所で戦うのは無駄だ」


「嫌な考え方ね」


「役に立つだろう」


「……まあね」


 馬車が揺れる。私は背もたれに体を預けた。


 少しだけ、力が抜けてきた。


「で、具体的には?」


「まず、君の立場を整える」


「整えるは禁止よ。言い換えなさい」


「……揃える、だな。屋敷、使用人、衣装、全部だ」


「最初から全部あるわよ。私は伯爵令嬢よ」


「あるが、弱い」


「言うじゃない」


「事実だ。父親は後妻に傾いている。家中の力は割れている」


「……見てるのね」


「当たり前だ。だから拾った」


 私は息を吐いた。悔しいが、否定できない。


「次」


「次に、君の名前を上げる」


「どうやって」


「俺の隣に立たせる」


「それだけ?」


「それだけで十分だ」


 自信満々に言われると、腹が立つより呆れる。


「自分の価値、分かってるのね」


「知らんわけがない」


「嫌な男」


「今さらだ」


 私は少しだけ笑った。


 その瞬間、目の奥が熱くなる。


 しまった、と思った時には遅かった。


 涙が一滴、頬を伝う。


 私は慌てて顔を背けた。


「見ないで」


「見ていない」


「嘘よ。見てるでしょ」


「見ているが、数えない」


「数えるな」


「一滴だ」


「言うな!」


 思わず声が大きくなった。ヴィクトルが肩をすくめる。


「泣くなと言われたから数えた」


「そういう問題じゃない!」


「面倒だな」


「うるさい!」


 私は袖で乱暴に涙を拭いた。もう一滴出そうになって、必死に押し込む。


 ヴィクトルが少しだけ身を乗り出した。


「オルガ」


「何よ」


「次に泣く時は、俺の前でいい」


「だから嫌だって言ってるでしょ」


「命令ではない。許可だ」


「いらない」


「そうか」


 あっさり引く。その距離感が、また妙に心地いい。


 私は深く息を吸った。


 そして、ゆっくり吐いた。


「……あんた、本当に変な男ね」


「よく言われる」


「普通は、もっと甘いこと言うのよ」


「甘いものは食事の後でいい」


「意味分からない」


「分からなくていい」


 馬車が止まった。屋敷に着いたらしい。


 ヴィクトルが先に降り、手を差し出す。


「来い」


「命令口調ね」


「嫌か」


「嫌じゃない」


 私はその手を取った。今度はためらわない。


 地面に足をつけると、夜の空気が胸に入る。


 冷たいのに、少しだけ軽い。


「ここが、あんたの城?」


「仮のな」


「仮でも十分広いわね」


「中も広い。迷うなよ」


「迷ったら叫ぶわ。あんたが来なさい」


「面倒だが、行く」


「いい返事ね」


 屋敷の扉が開く。灯りが広がる。


 私は一歩踏み出した。


 振り返らない。


 あの夜会も、あの男も、もう背中側だ。


 前にあるのは、知らない場所と、知らない男。


 そして――勝つための、次の舞台だ。



 朝の光が差し込む廊下は、やけに静かだった。昨夜の喧騒が嘘みたいで、足音がやけに大きく響く。


 伯爵令嬢オルガ・レインフォードである私は、アルヴァン侯爵家の屋敷で目を覚ました。客室は広く、寝具は妙に良い。ぐっすり眠ったはずなのに、胸の奥だけがまだざらついている。


 扉を開けると、すぐに使用人が頭を下げた。


「おはようございます、オルガ様。朝食のご用意が整っております」


「早いわね。誰の指示?」


「ヴィクトル様でございます」


「……あの男、寝てるの?」


「既に執務室へ向かわれました」


 私は小さく鼻で笑った。拾った女を放って仕事へ行くとは、ずいぶん余裕がある。


 だが、嫌いじゃない。


「案内して」


 食堂に入ると、窓際の席に銀の食器が並んでいた。量は控えめだが、どれも香りがいい。腹が減っていると自覚した瞬間、妙に苛立つ。


 昨夜はほとんど何も食べていない。


「……いただくわ」


 一口食べると、体がやっと目を覚ました。温かいスープが喉を通るたび、胸のざらつきが少しずつ溶ける。


 その時、足音が近づいた。


 振り返らなくても分かる。あの軽い靴音は一人しかいない。


「オルガ、おはよう」


「遅いわね。もう半分食べたわよ」


「それは失礼した。眠れたか」


「ぐっすりよ。あんたの屋敷、寝心地だけはいいわね」


「だけ、か」


「他はまだ分からない」


 ヴィクトルが向かいに座る。視線が真っ直ぐで、朝から疲れる。


「今日は客が来る」


「誰」


「予想はつくだろう」


「……ああ、あの二人ね」


「正解だ」


 私はスプーンを置いた。食欲が少しだけ落ちる。


「早いわね。昨日の今日で来るなんて」


「追い詰められると、人は速い」


「で、どうするの」


「どうするも何も、会う」


「私も?」


「当然だ。主役だろう」


「嫌な主役ね」


「観客は多い方がいい」


 私は息を吐いた。逃げるつもりはない。だが、面倒だ。


「条件、覚えてる?」


「助けない、だろう」


「そう。それ、忘れないで」


「忘れん」


 ヴィクトルは短く答えた。その一言が、妙に重い。


 私は立ち上がった。


「じゃあ、準備するわ。あの女、どうせ泣くもの」


「泣くなと言うのか」


「言わないわ。泣かせる」


「いい顔だ」


「褒めても何も出ないわよ」


 ◇


 応接室に入ると、すでに二人は来ていた。


 侯爵令息セドリック・アルヴァンと、子爵令嬢ミレーユ・レインフォード。昨日と同じ並びで、だが表情はまるで違う。


 セドリックは青ざめ、ミレーユは涙で顔を濡らしている。


 私はわざとゆっくり歩いた。視線を逸らさない。


「ずいぶん早いお越しね。まだ朝よ」


「オルガ……」


「名前を呼ばないで。用件だけ言いなさい」


 セドリックが一歩前へ出る。だが言葉が出ない。喉で詰まっている。


 先に動いたのはミレーユだった。


「お姉さま……お願いです……昨日のこと、誤解ですの……」


「誤解?」


「わたくし、本当に愛してしまっただけで……」


「まだそれ言うのね。根性あるじゃない」


「どうか、セドリック様を責めないでください……」


「責めてないわよ。捨てただけ」


 ミレーユが泣き崩れそうになる。だが踏みとどまる。


 セドリックが拳を握った。


「オルガ、頼む。あの場でのことは謝る」


「遅いわね。昨日のうちに言いなさい」


「混乱していたんだ」


「私はしてなかったわよ」


「……すまない」


 その謝罪は軽い。軽すぎて、床に落ちる前に消える。


 私は椅子に座り、足を組んだ。


「で? 謝って終わり?」


「違う。婚約の件だが……」


「まだ続くの?」


「考え直したい」


 私は瞬きをした。笑いそうになるのを必死に抑える。


「は?」


「昨夜のことは勢いだ。君とやり直したい」


 その瞬間、ミレーユの顔が真っ白になった。


「セドリック様……?」


「ミレーユ、すまない。だが、やはり僕にはオルガが必要だ」


「必要って、便利な言葉ね」


 私は笑った。今度は隠さない。


「昨日は真実の愛だったんでしょう? 一晩で腐ったの?」


「違う、そうじゃない。君の価値を見誤っていた」


「今さら気づいたの? 遅すぎて笑えるわ」


「オルガ、頼む。もう一度」


「嫌よ」


 即答だった。迷いもない。


 セドリックの顔が崩れる。


「どうしてだ」


「どうしてって、捨てたのはあんたでしょ」


「だが、君も僕を必要としていたはずだ」


「してないわ。してたのは、私の方を見てくれる男よ」


 言葉が刺さる。セドリックが言い返せない。


 ミレーユが震える声を出した。


「お姉さま……ひどいです……」


「ひどいのはどっちよ」


「わたくし、全部失うんですか……?」


「私が失った分、少し返ってきただけよ」


 ミレーユの涙が落ちる。今度は本物だ。止める余裕がない。


 だが、同情はしない。


「ヴィクトル様……どうか、お止めください……」


 ミレーユが助けを求めるように視線を向ける。


 ヴィクトルは壁際に立ったまま、腕を組んでいる。


「なぜ俺に言う」


「お兄様でしょう……?」


「そうだ。だから止めん」


「そんな……」


「自分で選んだだろう。最後まで持て」


 冷たい声だった。情けもない。


 ミレーユが崩れ落ちた。


 セドリックが支えようとするが、手が止まる。もうどちらを取るか分からない顔だ。


 その様子を見て、私は静かに息を吐いた。


 これでいい。


「帰りなさい」


「オルガ……」


「二度と来るな。次に来たら、門番に追い返させる」


「そんな……」


「あと、それ」


 私は指を向けた。ミレーユの髪。


「真珠、置いていきなさい」


 ミレーユが震えながら髪に手をやる。外そうとして、指がもつれる。


 セドリックが手伝おうとして、やめた。


 結局、ミレーユが自分で外し、机に置いた。


 小さな音がした。


 それだけで、全部終わった気がした。


「……帰る」


 セドリックがそう言った。声が空っぽだ。


 ミレーユを支え、二人は部屋を出ていく。


 扉が閉まる。


 静かになる。


 私は背もたれに体を預けた。


 長く息を吐く。


「終わったわね」


「終わったな」


 ヴィクトルが近づいてくる。


 私は目を閉じた。


「……勝った?」


「まだだ」


「厳しいわね」


「ここからだ」


 目を開けると、ヴィクトルがすぐ近くにいた。


「オルガ」


「何よ」


「選べ」


「何を」


「俺を」


 私は少しだけ笑った。


「命令?」


「違う。提案だ」


「……いいわ」


 答えは、思ったより軽く出た。


「ただし条件追加」


「言え」


「泣かせないこと」


「無理だな」


「は?」


「泣く時は来る。その代わり、理由は全部俺にさせる」


「意味分からない」


「分からなくていい」


 私はため息をついた。


 でも、嫌じゃない。


「じゃあ、責任取りなさいよ」


「最初からそのつもりだ」


 ヴィクトルが手を差し出す。


 私はそれを取った。


 今度は、迷わない。


 これで終わりじゃない。


 ここからが、私の物語だ。



 王都の昼は、夜よりも残酷だ。噂が光の中で広がり、誰もが知っている顔で知らないふりをする。


 伯爵令嬢オルガ・レインフォードである私は、アルヴァン侯爵家の正面階段をゆっくり降りた。隣にはヴィクトル・アルヴァンがいる。堂々と並んで歩く、それだけで視線が集まる。


 門の外には馬車が並び、使用人が控えている。今日はあえて人目の多い時間に出ると決めた。隠れないという条件は、こういう場面で効く。


「いい顔だな」


「いつもよ。あんたが横にいるからって、変わらないわ」


「嘘だ。少しだけ上がっている」


「細かいのよ」


 私は扇を軽く開いた。街の空気はざわついている。昨日の夜会の話が、もう半分は広がっているはずだ。


「行き先は?」


「まずは宝飾店よ。母の形見、ちゃんと磨き直す」


「自分で取りに行くのか」


「当然でしょ。返ってきた物を、誰かに任せる趣味はないわ」


「いい趣味だ」


 馬車に乗り込むと、通りの人々の視線が追ってくる。耳に入るささやきは、ほとんどが同じ内容だ。


 ――捨てられた令嬢が、侯爵家の長男に拾われた。


 言い方はどうでもいい。結果だけが残ればいい。


 店に着くと、主人が慌てて出てきた。


「オルガ様、本日は……!」


「預かり物を取りに来ただけよ。手入れ、終わってる?」


「は、はい。すぐにお持ちいたします」


 差し出された箱を開ける。真珠は昨日と同じ光を持っているが、今はちゃんと私の手の中だ。


 髪に挿す。鏡を見なくても分かる。位置も重さも、体が覚えている。


「似合うな」


「知ってる」


「昨日より、いい顔でつけている」


「当然よ。奪い返した物だもの」


 店を出ると、通りのざわめきが一段強くなった。視線が増える。指さす者もいる。


 私は歩みを止めない。ヴィクトルも同じ速さで隣を進む。


 その時、正面から見覚えのある二人が現れた。


 セドリックとミレーユだ。


 偶然にしては出来すぎている。だが、逃げる理由はない。


 セドリックが足を止めた。目が大きく見開かれる。私の髪にある真珠を見て、息を詰めた。


「オルガ……」


「道を塞がないで」


「話がある」


「ないわ」


「頼む、少しだけでいい」


 声が弱い。昨日とは別人だ。


 ミレーユはその隣で俯いている。顔色が悪い。装いも簡素だ。


 私は立ち止まった。ほんの数秒だけ。


「一言だけよ」


「……すまなかった」


「それ、もう聞いたわ」


「違う。全部だ。僕は間違えた」


「知ってる」


「戻ってきてくれ」


 私は瞬きをした。やっぱり来るのね、その台詞。


「嫌よ」


「どうしてだ」


「どうしても何も、終わったでしょ」


「終わっていない。僕は君を――」


「やめなさい」


 言葉を切る。長く聞く価値はない。


「愛してるって言うつもりなら、もっと早く言いなさいよ。昨日じゃなくて、その前に」


 セドリックが黙る。何も言えない。


 ミレーユが顔を上げた。目が赤い。


「お姉さま……わたくし……」


「何」


「返します……全部……」


「もう返ってきたわ」


「違います……セドリック様も……」


 その言葉に、セドリックが振り向く。


「ミレーユ?」


「わたくし、間違えました……お姉さまから奪えば、幸せになれると思って……」


「今さらね」


「でも……できません……」


 ミレーユの声は震えている。だが、昨日よりも作り物が少ない。


 それでも、私は首を振った。


「返すとか、渡すとか、そういう話じゃないの」


「……え?」


「人は物じゃない。昨日あんたが証明したでしょう」


 ミレーユが言葉を失う。


 セドリックが一歩前に出る。


「なら、どうすればいい」


「知らないわよ。自分で考えなさい」


「僕は……」


「私に聞くな。あんたの人生でしょ」


 私は扇を閉じた。もう十分だ。


「最後に言うわ。私はあんたを選ばない。二度と」


 セドリックの肩が落ちる。完全に力が抜けた。


 ミレーユがその場に座り込みそうになるのを、彼が支える。今度は迷いなく。


 遅い。全部、遅い。


「行きましょう」


 ヴィクトルに言う。


「いいのか」


「ええ。これ以上は時間の無駄」


 歩き出す。背中に視線が刺さるが、振り返らない。


 数歩進んだところで、ヴィクトルが口を開いた。


「終わりだな」


「ええ。綺麗にね」


「綺麗ではない」


「私には十分よ」


 馬車に戻ると、体の力が一気に抜けた。座席に沈み込む。


 息を吐く。長く、深く。


「……疲れた」


「だろうな」


「でも、すっきりした」


「顔に出ている」


「嘘でしょ」


「いい顔だ」


 私は少しだけ笑った。


 窓の外を見ながら、ゆっくり瞬きをする。


 胸のざらつきは、もうほとんど残っていない。


「ねえ、ヴィクトル」


「何だ」


「これからどうするの」


「決まっている」


「聞いてない」


「俺の妻になる」


 即答だった。迷いがない。


 私はため息をつく。


「強引ね」


「嫌か」


「……嫌じゃない」


 その答えは、もう迷わない。


「ただし条件」


「まだ増えるのか」


「当然よ。私は面倒な女なの」


「知っている。言え」


「私を退屈させないこと」


「難しいな」


「努力しなさい」


「する」


 短い返事。だが、それで十分だ。


 ヴィクトルが手を差し出す。


 私はそれを取る。


 今度は、最初から握るために。


「じゃあ、よろしく」


「こちらこそだ」


 馬車が動き出す。


 窓の外で、王都が流れていく。


 昨日までの私は、あの中にいた。


 今日からは違う。


 捨てられた夜は、終わった。


 その先で、私は自分で選んだ。


 ――負けない場所を。



完。

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― 新着の感想 ―
非常に小気味良くて、楽しく読ませていただきました。
伯爵令嬢なのに「あんた」など言葉が汚いなぁ。 口が悪いのと言葉が汚いのは別ですよね。 平民上がりみたいで違和感がありました。
姉が伯爵令嬢で、妹が子爵令嬢…… 伯爵位を持っていたのは、母親の方だったのかな?
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