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理由を刻めない門番の俺、滅びた王女の《鍵》で千年閉ざされた門を開けて世界を救う

掲載日:2026/04/15

南が燃えている。


三日前、クロルムが落ちた。昨夜、ネーヴィアが。バスタは今夜——崖道を難民の列が埋め尽くしていた。母は子を背負い、老人は杖を頼りに進み、荷馬車の荷台で幼子が眠ったまま揺れている。


ヴェラという薬師が、道端に倒れた老婆の手を取った。名も知らない老婆だった。それでも、離さなかった。荷馬車を引くトルベが叫ぶ。「先を急げ!」。叫ぶだけで、足が止まった。


どこへ行くのか、という問いは誰も口にしない。答えがないからだ。


世界の果てには、門がある。


古い地図に×印だけが残る場所。文字はない。誰かの筆跡が一行——「来るな」。何代前の字なのか、誰も知らない。


-----


## 一


ひゅうっ、と風が鳴った。


カドモリ(十九)は今日も立っていた。高さ三十メートルを超える石柱が二本。その間に挟まれた門は、夜を凝縮して固めたような色をしている。光を吸い込み、返さない。触れれば染み込んでいきそうな、深い黒だ。


表面には六角形の窪みが刻まれていた。千二百と幾つか。


鍵穴だ。


歴代の門番たちが「門を開けるに値する理由」を見つけた時、自らの手で刻んだ穴。一つひとつが誰かの想いの化石。アイネという女が刻んだもの、ソレイユという男が刻んだもの、マリス、コルス、ミレン、アスタ——名前は父の記録で知っている。顔は知らない。


その中に一つ、彫りかけの穴がある。浅い。完成していない。


父カドウの穴だ。最後の夜、「理由を見つけかけた」と言った。それだけ言って、死んだ。


カドモリの穴は、まだ一つもない。


ざく、ざく——石段を踏む音が来た。


バストだった。五十がらみの旅商人。白い鬚、息を切らして坂を登ってくる。妻のエラが背に次男のアル(三つ)を負い、息子のコランが末娘のルル(四つ)の手を引いていた。長男のフィン(七つ)が先頭を走ってくる。後ろに手代のダミが続く。


「番人様、クロルムが——」


「三日前に落ちた。ネーヴィアが昨夜。バスタは今夜か明朝だろう」


バストの顔が白くなった。「なぜ知っているんで」


「難民から聞こえてくる」


「番人様」バストが一歩踏み出した。「うちの家族を——先に通らせてもらえますか」


「通れる。止めない。ただし急げ」


「ありがとうございます」


コランが妻の手を取り、子供たちを急かした。フィンが振り返って「番人のおじちゃん、ありがとう」と言った。柔らかい声だった。ルルが手を振りながら崖の向こうへ消えていく。


カドモリは、何も言えなかった。


懐に手を入れると、指先に当たるものがある。六角形の石片。親指の爪ほどの大きさ。父の形見だ。門の石と材質が違う。色も違う。どこから来たものか、父は最後まで教えてくれなかった。「いつか分かる」とだけ言って、死んだ。


ごう——と、門が唸った。何かに、反応した。


感知陣が揺れたのは、それからすぐのことだった。


崖道で、一人が倒れる気配。見に行くと、少年がいた。十四か五。顔色が悪く、足首が腫れている。荷もなく、仲間もいない。


「立てるか」


「……はい」


立てなかった。カドモリは引き上げた。


「名前は」


「ハル。クロルムの——もういない集落の子です」


「今どこへ行く」


「どこかへ」


どこかへ。静かに刺さった。怖がっている声ではない。もう怖さが終わった声だ。


「崖を下りた先の集落へ行け。ミルカという婆さんのところへ行け。俺の名を出せば泊めてくれる」


ハルは頷いた。それから門を見た。「あれが、閉ざされし門ですか」


「そうだ」


「……怖くないですか。魔神がいるんでしょう」


「怖い時もある」


「でも立ってる」


「立つのが仕事だ」


ハルは少し考えて「そうですか」と言った。崖道を下りていく後ろ姿を見送り、カドモリは門に戻った。鍵穴が、風に鳴った。ひゅうっ、ひゅうっ、と。千二百の理由が、今夜も待っている。


-----


## 二


感知陣が揺れたのは、その一時間後だった。


一人の重さ。だがそれだけではない——年月と、決意と、引き返せない選択の、積み重なった重量だ。


「止まれ」


崖道の角を曲がってきたのは、少女だった。


十七か八。旅装束に刃こぼれした長剣。左肩に古傷の縫い跡、三本。首に白布が巻かれ、びっしりと文字が書き込まれている——誓約文だ。生涯を何かに捧げる証。


右手の甲に、ぼう、と光る六角形の紋様。


《鍵》。父の記録にあった言葉だ。「いつか来るかもしれない者の証」として。


少女の目が静かだった。恐怖がない。後悔も、迷いも、すでに処理済みだ。全てを知った上で前に進む選択をした人間の目だ。


「カドモリという名前ですよね」


「……何者だ」


「セイラ。それだけで十分です」


「十分なわけがない」


「そうですね」


一歩踏み出した。武器は鞘に収めたまま。今は戦わないという意思表示だ。


「門を開けてください。向こうに《終焉の楔》があります。私の《鍵》でそれを引き抜けば、魔神の力の源が断たれる。でも——」


「魔神も出てくる」


「はい」


あっさりしすぎる。六年間ずっと分かっていた、と言っている声だ。


「帰れ」


「魔神は今、眷属を通して外へ力を送り続けています。三都市はその力で落ちた。バスタも今夜——残りは五日、早ければ三日です」


「知らない話だ」


「知ろうとしなかっただけです」


刺さった。カドモリは黙った。


「……帰れ」


「一人で来たわけじゃないんです。ライオスが後方で眷属の迂回部隊を足止めしています。ティアが集落の封印を打ちに行っています。クレナとソウダが情報収集で東へ回っています。みんな——私の《鍵》のために動いています」


「お前が来なければ良かった」


「そうです」


否定しなかった。


「でも来ました。だから今日は野営してもいいですか。体力が——」


「……好きにしろ」


-----


## 三


焚き火の橙が揺れる。ぱちぱち、と音を立てる。


セイラは干し肉を齧りながら地図を広げていた。カドモリはいつの間にか近くに座っていた。理由は分からない。


「飯、食べますか」


二人で食べた。無言だった。


「仲間は」


「ライオスが南の分岐路にいます。デラという守備隊員が協力してくれていますが、眷属の主力が来れば保ちません。ティアはリーヴァという老術師と組んで、集落三つに封印を打っています。ソウダが東の索敵から戻ったら合流します」


「大人数だ」


「全員、各自の事情で来ています。私のためというより——自分の理由で」


右手の甲の紋様を見た。細い線が幾重にも絡み合っている。熱を持ったように光っている。


「痛くないのか」


「最初は痛かった」


「いつ」


「十三の時」


六年前。ずっとこれを持って生きてきた。


「王女だと聞いたことがある。父の記録に——ヴェスタニア王国の末裔が訪ねてくると」


セイラの手が止まった。「父上は、そこまで残していたんですね」


「だから門番一族は待てた」


「……ヴェスタニアはもうない。王族も私一人。でも——この《鍵》は私一人のものじゃないんです」


「というと」


「エルダという人が、死に際に私に刻んでくれたものです。ヴェスタニア最後の宮廷魔術師でした。眷属に追われながら逃げる途中で——自分の命と引き換えに」


ぱちっ、と炎が弾けた。


「十三の私の手に刻んで。それから笑って——とても静かに笑って、動かなくなりました。『セイラ、これはあなたには重すぎる。でもあなた以外に持てる人間がいない』と言って」


「重かったか」


「今も重いです」


静かな答えだった。


「だから逃げられない。逃げれば、エルダが死んだことが——ただの無駄になる」


「エルダの命を無駄にしないために、お前が死ぬのか」


「……死ぬつもりはないです」


語尾が弱かった。


カドモリは空を見た。父が言っていた。「異界の星が透けて見えるんだ」と。今夜は見えない。厚い雲だ。


「俺の父は、門を刻もうとして死んだ。理由を見つけかけたと言った。なんの理由なのか——教えてくれないまま、眷属の小隊と戦って、俺を逃がした」


「だから刻んでいない?」


「正しい理由が分からないから。間違えたら父の死が——ただの無駄になる」


二人は同時に気づいた。


同じことを言っている。


「……同じですね、私たち」


「ああ」


沈黙。ぱちぱち、と焚き火が鳴る。


「ある日、女の子に言われたんです。リナという子に。私が泣いていたら近づいてきて——『でも、やるんでしょ』って。それだけ言って行ってしまいました。二度と会えなかった」


「やるんでしょ、か」


「変な言葉ですよね」


「いや」


「俺も——誰かに言われた気がする、たまに。父に言われたわけじゃない。でも声がある。嫌な声じゃない」


焚き火が完全に落ちるまで、二人は何も話さなかった。


-----


## 四


夜明け前。感知陣が揺れた。


複数の重さ。三十以上。


「セイラ」


「分かってます」


すでに剣を抜いていた。


ごごごっ——地が震える。崖道を踏み砕く音が迫る。先頭のヴォルクは人型だが両目が金色に光り、肩幅が人間の二倍ある上位個体だ。右に副官のガルド、左に斥候のネスが続く。後ろに戦闘型が三十以上。


「番人」


ヴォルクの声が地を揺らした。


「我が主が問いかけを持ってきた」


「断る」


「まだ聞いていない」


「どうせ『退け』か『死ね』だろう」


沈黙。ヴォルクが少し考えた。


「貴様の父、カドウは優秀な門番だった。惜しかった。貴様も父の血を継いでいる。退けば生かす」


「断る」


「——セイラ・ヴェスタニア」


今度はセイラに向けた声だった。


「楔を渡せ。代わりに——ヴェスタニアを再建する。我が主には、滅ぼす力と同様に、再建する力がある。土地を返す。ガーナ家、シレム家、ラーン侯爵家の末裔を集める。国の形を取り戻させる」


セイラの動きが、一瞬止まった。


ほんの一瞬。でも確かに止まった。


「……嘘です」


「本当だ。我が主は約束を守る」


「守るかもしれない。でも——あなたの主が再建したヴェスタニアに、ヴェスタニアの人たちは帰れない。場所があれば国が戻るわけじゃない。エルダはそこへ帰ってこない。死んだ人たちは帰ってこない」


「それで断るのか」


「次のために戦います。ヴェスタニアじゃなくていい——ハルみたいな子が、また同じ目に遭わない、次の百年のために」


ぴん——と、空気が張り詰めた。


《門閉牢》——千の鍵穴が光る。歴代門番たちの「理由」が薄い膜として展開した。


ヴォルクが腕を持ち上げた。ごうっ——魔力の奔流が放たれる。


短剣で空気を裂き、門の幻影を展開した。暗い膜が奔流を飲み込む。びりびり、と手の内で何かが震えた。熱い。焦げる匂い。


横ではセイラが動いていた。


ざっ——ざっ——無駄がない。余裕がない。だが六年間で磨かれた刃の動きだ。下位個体二体を同時に相手取り、体重移動で一体を崖際に追い込む。かちん、かちん——金属音が短く響く。ガルドが突進した。セイラが横に跳んだ。地面が割れる。


「楔を渡せ、セイラ!」


「嫌です」


《門開放》——


吸収した魔力を解き放つ。ごおんっ——爆発的な光が崖に反響した。ヴォルクの防御が割れ、眷属が霧散していく。ヴォルク自身は転がりながらも消えなかった。ガルドとネスが後退した。


「……覚えておけ、番人」


怒りではない声。重さを持った声だ。


「次に来る時は、問いかけはない」


眷属が引いた。地響きが遠ざかる。


カドモリは膝をつきそうになるのを堪えた。


セイラが近づいてきた。右肩から血が落ちている。ぽたり、ぽたり。


「大丈夫か」


「浅いです。——さっき揺れました、少し。私が」


「知ってる」


「分かってましたか」


「ああ」


「……ヴェスタニアを取り戻せるって言われたら、普通は揺れますよ」


「普通じゃないから六年間一人で歩いてきたんだろ」


セイラは少し間を置いて、「そうですね」と言った。それだけだった。


-----


## 五


夜明け後、仲間たちが来た。


ライオスが先頭だった。大柄な男、背が高く、顔中に戦いの跡。後ろにデラ——若い守備隊員、右腕を布で吊っている。その後ろにカル(十八)が続く。少年の顔をしていた。


「セイラ!」


「腕に傷があります。浅いです」


「それだけか」


「それだけです」


大きく息を吐いた。ライオスがカドモリを見た。「お前が番人か。飯を食わせてくれたと聞いた」


「それだけだ」


「十分だ」


「バスタが今朝、落ちた。デラの隊長——ジェルトが最後まで守ったが、保たなかった。デラが唯一の生き残りだ」


デラは何も言わなかった。目が遠かった。「眷属の主力はここへ向かっています。早ければ今夜——二百超、ヴォルクの直属です」


カルが小さく口を開いた。「……俺たちで保ちますか」


ライオスが答えなかった。答えなかったことが、答えだった。


翌朝、ティアが来た。後ろにリーヴァがいた——七十を過ぎた老術師、腰が曲がり、それでも杖をまっすぐ持っている。


「集落三つの封印は完了しました。リーヴァさんがいなければできなかった」


「私はここまでです。足がもう動かない。でも符を維持することはできる——集落の守りを、最後まで私が持ちます」


リーヴァはセイラを真っすぐ見た。「エルダのことは聞いています。あの子は、あなたに命を賭けた。無駄にしないでください」


セイラは深く頭を下げた。言葉が出なかった。


ティアが小さく頷いた。目に涙があったが、拭わなかった。


「泣いてないです」


「泣いてるだろ」


「泣いてないです」


ライオスが苦笑した。


午後、ミルカ婆さんが登ってきた。後ろにダルク、ルウ、産婆のナエ、農夫のガーダ、フォルム、ビネが続く。それから——ハルが来た。足首を引きずりながらも走ってくる。


「番人のおじちゃん!」


「生きていたか」


「はい。ミルカさんに飯をもらいながら待ってました」


ルウがカドモリの袖を引っ張って笑った。全部分かった上で選んだ笑い方だった。ダルクが深く頭を下げた。「行ってきてください」と言った。ナエが「傷の薬です」とセイラに薬袋を渡した。ガーダが帽子を脱いで「神様が味方しますように」と言った。フォルムが「必ず戻れ」と言った。ビネが何も言わず、地面に額をつけた。


「どうする」


ライオスが言った。


「開ける」


セイラが答えた。


「カドモリ——あなたは?」


全員の視線が集まった。


カドモリは懐の石片を取り出した。門を見た。


——そして、初めて気づいた。


父の彫りかけの穴の隣。ごく浅い彫りかけの縁に、微かな傷が入っている。三本の細い線。指の引き方で分かる。「もう一つ分の穴のための余白」だ。


父は最初から、隣に刻む場所を空けていた。


-----


## 六


深夜。カドモリは一人、門に触れた。


今夜は違う。指先が沈み込むような感覚があった。ひんやりとした石が、内側から温かくなっていく。


幻影が来た。


霧の中に、老いた女。腰まで白い髪、長年剣を持ち続けた大きな手。アイネだ。十六代前の門番。


「久しぶりだね、カドモリ。刻んでいない番人を見るのは久しぶりだよ」


「刻まれた穴は、私たちの声だよ。守ろうとした瞬間の、凝り固まった意志だ」


次の幻影——ソレイユ、二十二代前。肩に矢傷の跡。「村の子供たちのために刻んだ。全員逃がした時、門が応えた。理由なんて、その場では分からなかった」


マリス、三十代前。左手に包帯。「老人のそばにいただけだ。それが理由になった」


コルス、五十三代前。片目に眼帯。「犬のために刻んだ。それだけだ」


ミレン、七十九代前。まだ十五か六。「情けなくて刻んだ。情けなさも、十分な理由だと後から分かった」


アスタ、百一代前。「ただ——ここに立ち続けることが、誰かの明日を作ると信じていた。それだけだった」


エナ、百二十代前。「誰もいない夜に刻んだ。孤独が理由になった」


声が重なった。十の声。二十の声。百の声。


千になる前に——一人の男が来た。


カドモリは震えた。


カドウ。父だ。


「……父さん」


「久しぶりだな」


あっさりとした口調。父らしかった。


「鍵穴が完成していないから、ちゃんとここに入れなかった。ずっと半分だけここにいた」


「なんで——なんで刻まなかったんだ。理由が見つかったと言っていたのに」


「隣のお前の分を空けておいたから」


カドモリの目が熱くなった。


「……それが父さんの理由か」


「そうじゃない」


カドウは静かに笑った。


「理由は——お前が理由を見つけること、だ。俺はそのための場所を空けておいた。お前が刻む場所を」


「なんで言ってくれなかった」


「言葉で教えられる理由なら、刻む必要はない。お前が自分で辿り着かなきゃ意味がない」


「……残酷だ」


「そうだ。ごめんな」


初めての謝罪だった。父は滅多に謝らない人間だった。


「懐の石片は——異界の石だ。俺がここに来た最初の日、門に触れたら——一瞬だけ、向こうへ引き込まれた。引き戻された時に手に握っていた。石が温かくなった時——それがお前に来る日の合図だ」


カドモリは懐の石片を取り出した。


温かかった。


「もう分かってるだろ」


カドウが言った。


「怖かったんだな。理由を決めると、その人のために何かを失うことになるから。俺がお前を逃がした時のように」


「……ああ」


「でも、もう見つかってる」


カドモリは目を閉じた。


セイラの顔が浮かんだ。エルダの命を背負って六年間歩いてきた目。揺れながらも、それでも答え続けてきた声。リナの言葉を引き継いで走り続けた足。


「ああ」


目を開けた。短剣を取り出した。父の彫りかけの隣、余白の場所に刃を当てた。


形は迷わなかった。六角形。


がり——と刃が石に食い込む。


ごうう——と、門が唸った。待ちが終わる時の音だ。千の鍵穴が一斉に、微かな光を滲ませた。


穴が完成した。カドモリは膝をついた。手が震えていた。


怖いからではない。理由が決まったから。


-----


## 七


夜明け前。ライオスが走ってきた。


「眷属の主力が迫っている! 夜明けまでに到達する!」


カドモリは立ち上がった。セイラが来た。


「刻んだんですね」


「ああ」


「誰のために」


「俺のために刻んだ。六年間ここに立ち続けた俺のために——お前が来て、俺はやっと分かった。守るべきものを持てば、何かを失う。でも、それで良かったんだ」


セイラは何も言わなかった。目が、少し変わった。


「俺が、お前の鍵穴になる」


「……開けましょう」


「ああ」


ライオスが前に出た。「俺とデラとカルで外を守る。ティアが封印で補助する。ソウダが後方の索敵を担当する」


「デラ——」


デラは初めて表情を変えた。静かな、強い目だ。「ジェルト隊長の分まで、ここで戦います」


「戻ります。絶対に」


「当たり前だろ」


カルが短く「はい」と言った。ティアが小さく頷いた。目に涙があったが、拭わなかった。


「泣いてないです」


「泣いてるだろ」


「泣いてないです」


ライオスが苦笑した。ミルカ婆さんが「戻ってきたら飯を炊いて待ってます」と言った。ハルが「番人のおじちゃん!」と叫んだ。ルウが袖を引っ張って笑った。ダルクが「行ってきてください」と言った。


セイラが門に右手を当てた。


ぼう——と、《鍵》の紋様が光った。金色の光が門の表面に広がる。千の鍵穴に一斉に注ぎ込まれた。父の彫りかけの穴にも。カドモリの穴にも——縁がまだ荒れた、生まれたての穴にも。


きいい——と軋んだ。千年の時間が詰まった軋みだ。


ぎぎぎぎ——石柱が震えた。空間が裂けた。光ではない。深さのある暗がりが、一本の線から広がった。


「行くぞ」


「はい」


二人は踏み込んだ。


-----


## 八


異界は冷たかった。


地平線がない——いや、無数にある。空の色が「色」ではなく「圧力」だ。びりびりと、足の裏から何かが伝わってくる。時間が形を持って積み重なっているような感触。足音が響かない。音が、消える場所だ。


《終焉の楔》はすぐに分かった。


空間の中心に、光を集める点。近づくと人の背丈ほどの柱だと分かった。「柱の形をした束縛」だ。魔神を縛っている。


そして魔神は、そこにいた。


高さ優に十メートルを超え、全身から低温の何かが放出されている。ずん、ずん、と存在するだけで空間が歪む。目が四つ。上二つが怒りで、下二つが——悲しみに近い色だ、とカドモリは思った。


「番人」


声が圧力だった。千年の封印の重さが乗っている。


「千年ぶりだ。お前の一族を見るのは」


「話は必要ない」


「——《鍵》の娘よ。お前は何のために戦う」


「エルダという人が、私に命を賭けました。その選択を、正しかったと言えるものにするために」


「一人の死のために世界を変えようとする。滑稽ではないか」


「そうです」


言い切った。


「でも十分です。エルダの死が理由になるなら——それだけで」


魔神が黙った。想定外のものを見た沈黙だった。


「貴様の一族が千年、この門を守ってきた理由を知っているか」


カドモリに向けた言葉だった。


「知らない」


「貴様の遠い先祖は——私と友人だった。私が封じられることを望んだ。そして、その友人の子孫に、この門を任せた」


カドモリは黙った。


「嘘かもしれん。だが——貴様は今、確かにここに立っている。理由を持って。それで十分だ」


「……走れ、セイラ」


千の鍵穴が光った。アイネが、ソレイユが、マリスが、コルスが、ミレンが、アスタが、エナが——そしてカドウが。老いた手が、若い腕が、傷だらけの背中が。


《千鍵開扉》——


技ではない。継承だ。千年間、誰かを守ろうとして刻んだ理由が、一瞬だけ実体を持った。激しい光でも爆発でもなく、静かで確かに重い何かだ。


ずん——と、魔神の動きが止まった。


一秒。二秒。三秒。


セイラが走った。楔に右手を当てた。ぱあっ——《鍵》の紋様が爆発するように輝いた。


「——くっ」


声を漏らした。痛いはずだ。それでも手を離さなかった。


魔神が身を捩った。縛りが緩んでいく。楔が引き抜かれ始めると、力の源が削られていく。


「番人——やめさせろ!」


「断る」


カドモリは魔神の正面に立った。門の幻影を盾でなく牢として展開した。


《終門閉鎖》——


記録の中にだけ残っていた最終手段。発動条件——門番が鍵穴を持つこと。門が開いた状態であること。そして——発動者が「戻れない」こと。


「——カドモリ!」


セイラの声が来た。楔を半分引き抜いた状態で、こちらを見ている。


「使いません」


「何だと」


「《終門閉鎖》を使ったら、あなたが戻れなくなる。使いません」


「でも、これしか——」


「あります」


言い切った。


「楔が完全に抜けた瞬間、魔神の力が断たれる。その瞬間に外から門を閉じれば——内側に残る必要はない」


「外から、どうやって」


「私の《鍵》で門を閉じます。あなたが先に出て。それで終わりです」


魔神が叫んだ。残る力を全て使い、縛りを破ろうとしている。ごおおお——空間が揺れた。足元が崩れていく。亀裂が走る。


「時間がない——」


「なら急いでください!」


セイラが楔を引き抜いた。


どん——光が爆発した。


カドモリは判断したのではなく——体が動いた。セイラの手を掴んで走った。二人で走った。魔神の叫び声が背後で崩れていく。力を失った存在が崩壊する音だ。


門が見えた。外の光。朝の光。


「出ろ!」


カドモリはセイラを押し出した。自分も飛び出した。


セイラが振り返りながら右手を掲げた。光が伸び、門に向かった。


きいい——ぎぎぎぎ——


門が、閉じた。


軋みが収まった。千の鍵穴から光が消えていく。父の穴も。カドモリの穴も。最後の一瞬——懐の石片が、温かくなった。


そして冷えた。


沈黙。二人は地面に倒れ込んでいた。


「……生きているか」


「はい」


セイラの声は震えていた。でも確かにここにある声だった。


「生きています」


-----


## 九


夜明けが来た。


眷属の主力が崩壊していた。魔神の力が断たれたことで、次々と戦闘能力を失った。崖道には、動かなくなった眷属が散らばっていた。


ライオスとデラとカルが、最後まで守っていた。カルの頬に一筋の血が流れていた。それだけだった。


ヴォルクだけは、最後まで立っていた。


カドモリと目が合った。


「……見事だ、番人」


静かな声。怒りではなかった。


「貴様の父も、同じ目をしていた。カドウは彫りかけの穴を残して死んだ——ずっと謎だった。今、分かった」


ヴォルクは一歩引いた。


「眷属は散る。だが世界は変わらない。次の混乱が来る。備えることだ」


そして消えた。消えたというより、退いた。


「セイラ!」


ライオスが駆けてきた。セイラは立ち上がろうとして、膝をついた。右手が震えている。楔を引き抜いた代償がじわじわと来ている。


「大丈夫か——」


「大丈夫じゃないですが、生きています」


ライオスが抱き起こした。ティアが駆けてきて、治療の符を貼り始めた。ぽたぽたと涙を落としながら。


「泣いてないです」


「泣いてるだろ」


「泣いてないです」


ライオスが苦笑した。


カルが黙って剣を地面に刺した。深呼吸をした。「——終わりましたね」と言った。デラが崖の向こうを見ていた。


「……ジェルト隊長に、報告できます」


それだけ言った。


ミルカ婆さんが登ってきた。「さあ、飯にしましょう」と言った。ハルが走ってきた。「番人のおじちゃん!」と叫んだ。ルウがカドモリの袖を引っ張って笑った。ダルクが「お帰りなさい」と言った。ナエが「傷はどこですか」とセイラの右手を取った。ガーダが「神様に感謝だ」と言った。フォルムが「腹が減ったな」と言った。ビネが地面に座り込んで空を見上げた。


「番人様、ご無事で——」


「俺は番人だ」


カドモリは言った。でも続く言葉が少し変わった。


「今は——それだけじゃないかもしれない」


門の方向から、誰かが笑った気がした。アイネが、ソレイユが、マリスが、コルスが、ミレンが、アスタが、エナが——そしてカドウが、笑った気がした。


カドモリは門を見た。閉じている。千二百幾つかの鍵穴の中に、二つ——父の彫りかけの穴と、その隣のカドモリの穴がある。


縁がまだ荒れた、生まれたての穴が。ちゃんとそこにある。


セイラが立った。ライオスの肩を借りながら、自分の足で。


「カドモリ」


「何だ」


「あなたの鍵穴——自分のために刻んだって言ってましたが」


「ああ」


「でも、お前が来て決まったとも言ってた」


「……そうだな」


「じゃあやっぱり、私のためじゃないですか」


「違う。お前は俺に理由を見せてくれた。刻んだのは俺だ。そこが違う」


セイラは何も言わなかった。それから、きちんと笑った。歪な笑い方ではなく、ちゃんとした笑い方で。


「世界を救ったのに、そんな理由ですか」


「救ったのはお前だ」


「一人じゃないです」


「——そうだな」


懐の石片が、少しだけ温かかった。それだけだった。でも、それで十分だった。


-----


## 後日


旅商人のバストが近隣集落に来た時、ミルカ婆さんがこう話したという。


「崖の上の番人さんは、今もあそこに立ってるよ。ただ、今は一人じゃないけどね」


「もう一人は」


「剣の傷が治るまで、そこで休んでいる娘さん。でもね——傷はもうほとんど治ってるのに、まだ立ち上がらないらしくてね」


「なぜですか」


「『もう少しだけ』って言ってるらしい。番人さんも何も言わないらしくて」


バストの後ろでコランが「どういう意味ですか?」と聞いた。バストは答えなかった。エラが笑った。フィンが「番人のおじちゃんは元気かな」と言った。


「それから」と婆さんが続けた。「ハルという子が、崖道の手伝いをするようになったよ。難民の道案内を。あの子、番人さんにもらった言葉があったらしくてね」


「どんな言葉ですか」


「『立つのが仕事だ』って。——変な言葉ですよね」


「変ですか」


「そうかい? 私には変じゃないけどね」


バストは笑って、集落に入った。遠くで、崖の上の門が風に鳴った。


閉じていて——でも待っている門が。


次に開くべき理由を、また一つ、刻んだ音だった。

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