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駅のベンチ

作者: 雨宮 沙奈
掲載日:2026/01/30

 私は待っている。

 特定の誰かを待っているわけではない。

 ただ、時が過ぎるのを、季節が巡るのを、そして人々が通り過ぎていくのを、静かに受け止め続けている。


 私は駅のホームにある木製のベンチだ。

 材質は硬いナラ材。背もたれは滑らかな曲線を描き、座面は四十年もの間、無数の人々の体重を支え続けてきたために、人が座る位置だけがわずかに窪んでいる。

 私の体は飴色に輝いている。

 それは工場で塗られたニスの光沢ではない。

 人々の衣服との摩擦、触れられる掌の脂、こぼされたコーヒーの染み、そして幾千もの「お疲れ様」というため息が染み込んで生まれた、重厚な時間の艶だ。


 私がこの駅に設置されたのは、まだ自動改札などなく、駅員が鋏で切符を切っていた時代だった。

 昭和、平成、そして令和。

 駅の風景は変わった。

 カチカチという改札鋏のリズム音は、ピピッという電子音に変わった。

 人々が広げるものは、インクの匂いのする新聞紙から、青白い光を放つ小さな板へと変わった。

 だが、人々が抱えるものの重さは変わらない。

 疲労、不安、希望、別れ、待ち合わせのときめき。

 それらはいつの時代も、私の座面に同じ重力としてのしかかる。


 私の世界は、音と振動で満ちている。

 遠くから近づくレールの響き。到着を告げるアナウンス。

 ドアが開く時のプシューという排気音。

 ハイヒールのカツカツという刺すような足音。革靴の重い足音。スニーカーの柔らかく擦れる音。

 

 「今日さ、部長に怒られちゃって」

 「マジで? 最悪じゃん」

 夜九時。サラリーマンの二人組。

 彼らは缶ビールを開ける。プシュッ。

 冷えたアルミ缶が私の座面に置かれ、結露した水滴が輪っかの染みを作る。

 重い革鞄がドサリと置かれる。

 その鞄の中には、書類やパソコンだけでなく、彼の一日のプライドや屈辱、家族への責任感が詰まっている。

 私は黙ってそれを受け止める。

 いいよ、寄りかかりなさい。

 電車が来るまでの十分間だけ、君の人生の荷物を半分持ってあげよう。

 背中から伝わる体温が、私の木目をじわりと温める。

 彼は深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜く。

 その瞬間、私は単なる設備ではなく、彼らの安息地サンクチュアリになる。


 私は定点観測者だ。

 特定の人物の人生を、断片的にだが、長く見つめ続けることがある。


 覚えている少女がいる。

 最初は、赤いランドセルを背負った小学生だった。

 足をぶらつかせ、私の座面の端っこに座っていた。

 やがてセーラー服を着るようになった。

 単語帳を開き、ブツブツと英単語を呟いていた。

 試験の前日は、彼女のお尻が緊張で硬くなっているのがわかった。

 「受かりますように」

 彼女の祈るような体温。

 春、彼女はブレザーを着て現れた。

 隣には背の高い男の子がいた。

 二人の手は、私の座面の上で、触れるか触れないかの距離を行き来していた。

 もどかしい距離感。

 やがて二つの手が重なり、彼女の体温が二度ほど上がったのを私は感じた。

 初恋の熱量。

 それから数年後、彼女はリクルートスーツに身を包み、ハイヒールで靴擦れした足をさすっていた。

 疲れた顔。ため息。

 そしてある日、彼女は小さな子供を抱いて座った。

 「電車見る? ほら、来たよ」

 母親になった彼女の声は、昔より少し低く、でも強く優しくなっていた。

 最近、彼女を見かけない。

 引っ越したのか、それとも車移動になったのか。

 寂しくはない。

 彼女の人生の一時期を、確かに私が支えたという事実は消えないからだ。


 夏。

 私の木肌は熱を持つ。

 夕立の後の、湿った風が吹き抜ける夕暮れ。

 浴衣姿の若者たちが座る。

 線香花火の匂い。制汗スプレーのシトラスの香り。

 彼らの汗が私に染み込み、若さというエネルギーを分け与えてくれる。


 冬。

 木枯らしが吹き荒れ、ホームに粉雪が舞い込む夜。

 私の体は氷のように冷える。

 終電間際。

 酔っぱらった男が寝転がる。

 「うぅ……」

 吐く息が白い。酒と胃液の臭い。

 汚い、とは思わない。

 私のニスは剥げ、傷だらけだ。今更汚れなど気にならない。

 人間は弱い生き物だ。

 誰かに支えられなければ、自立していられない夜もある。

 彼が流した一筋の涙が、私の座面の窪みに落ちて溜まる。

 塩辛い、悲しみの味。

 泣きなさい。

 明日の朝には乾いているから。

 私の年輪の一部として、君の悲しみを吸い取ってあげるから。


 四十年。

 長い歳月だった。

 私の足元のボルトは赤く錆びつき、ガタがきていた。

 最近の駅は綺麗になった。

 周りのベンチは次々と撤去され、スタイリッシュな金属製のものや、個別に仕切られたプラスチック製のものに変わっていった。

 冷たくて、硬くて、長居を拒絶するようなデザイン。

 「排除アート」とか呼ばれているらしい。

 ホームレスが寝転がれないように。酔っ払いが占領しないように。

 効率と排除の論理。

 悲しいことだ。

 ベンチとは、広場における焚き火のような、無条件の優しさの形であるべきなのに。


 そして、私の番が来た。

 『駅舎改修工事に伴うベンチ撤去のお知らせ』

 冷たい紙が、私の背もたれに貼られた。

 ガムテープの粘着質が、乾いた木肌に食い込んで痒い。

 ああ、ついに引退か。

 不思議と恐怖はなかった。

 私は十分に働いた。

 私の座面はすり減り、私の背もたれは手垢で黒ずんでいる。

 これ以上、何を望むというのだろう。


 撤去の朝。

 作業員がインパクトドライバーを持って現れた。

 キュイーン、という甲高い音と共に、私を大地に繋ぎ止めていた錆びたボルトが強引にねじ切られる。

 体が浮く。

 足の裏がスースーする。

 四十年ぶりに地面から離れた感覚。

 私はトラックの荷台に乗せられた。

 ガタガタと揺れる。

 見慣れた駅の風景が遠ざかっていく。

 ホームの雑踏、発車ベルの音、アナウンスの声。

 さようなら、私の居場所。

 さようなら、通り過ぎていった私の愛しい人間たち。


 運ばれた先は、産業廃棄物処理場だった。

 巨大なクレーンの下、木くずや建築廃材の山の中に私は落とされた。

 目の前には巨大な焼却炉。

 ごうごうと燃え盛る炎が、全てを灰へと変えている。

 熱い。

 けれど、それは心地よい熱さだった。

 私は森へ還るのだ。

 かつて私がまだ一本の木として森に立っていた頃、太陽の光を浴びて感じたあの熱に似ている。


 アームが私を掴む。

 宙を舞う。

 炎の中へ投げ込まれる。

 一瞬で炎が私を包み込む。

 

 パチパチ、パチパチ!

 

 私の木材に含まれていた水分が一気に蒸発する。

 それは、かつて若者たちが流した汗であり、酔っ払いの涙であり、雨の日に染み込んだ湿気だ。

 四十年分の人間の体液が、白い蒸気となって昇華していく。

 私の身体が光になる。

 ニスが燃え、木質リグニンが分解され、純粋な熱エネルギーへと変わる。

 爆ぜる音は、まるで私自身が拍手をしているようだった。

 あるいは、四十年分の「お疲れ様」という言葉が、一斉に弾け飛んだ音だったのかもしれない。


 私の体は炭になり、灰になり、煙になる。

 私は解き放たれる。

 もう誰の重荷も背負わなくていい。

 もう動かない足で立ち続けなくていい。

 私は風になり、雲になり、空へと舞い上がる。

 そしてまた、あの駅のホームへと雨となって降り注ぐだろう。

 新しい、冷たいプラスチックのベンチに座る誰かの肩に、そっと触れる風として。

 その時、もしあなたが少しだけ温かい、懐かしい気持ちになれたなら。

 それは私がそばにいる証拠だ。


 私の人生は、ただそこに在ることだった。

 受け入れ、支え、見送ることだった。

 そして今、私は世界の一部になった。

 ありがとう。

 重たくて、温かくて、愛おしい人間たちよ。


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