駅のベンチ
私は待っている。
特定の誰かを待っているわけではない。
ただ、時が過ぎるのを、季節が巡るのを、そして人々が通り過ぎていくのを、静かに受け止め続けている。
私は駅のホームにある木製のベンチだ。
材質は硬いナラ材。背もたれは滑らかな曲線を描き、座面は四十年もの間、無数の人々の体重を支え続けてきたために、人が座る位置だけがわずかに窪んでいる。
私の体は飴色に輝いている。
それは工場で塗られたニスの光沢ではない。
人々の衣服との摩擦、触れられる掌の脂、こぼされたコーヒーの染み、そして幾千もの「お疲れ様」というため息が染み込んで生まれた、重厚な時間の艶だ。
私がこの駅に設置されたのは、まだ自動改札などなく、駅員が鋏で切符を切っていた時代だった。
昭和、平成、そして令和。
駅の風景は変わった。
カチカチという改札鋏のリズム音は、ピピッという電子音に変わった。
人々が広げるものは、インクの匂いのする新聞紙から、青白い光を放つ小さな板へと変わった。
だが、人々が抱えるものの重さは変わらない。
疲労、不安、希望、別れ、待ち合わせのときめき。
それらはいつの時代も、私の座面に同じ重力としてのしかかる。
私の世界は、音と振動で満ちている。
遠くから近づくレールの響き。到着を告げるアナウンス。
ドアが開く時のプシューという排気音。
ハイヒールのカツカツという刺すような足音。革靴の重い足音。スニーカーの柔らかく擦れる音。
「今日さ、部長に怒られちゃって」
「マジで? 最悪じゃん」
夜九時。サラリーマンの二人組。
彼らは缶ビールを開ける。プシュッ。
冷えたアルミ缶が私の座面に置かれ、結露した水滴が輪っかの染みを作る。
重い革鞄がドサリと置かれる。
その鞄の中には、書類やパソコンだけでなく、彼の一日のプライドや屈辱、家族への責任感が詰まっている。
私は黙ってそれを受け止める。
いいよ、寄りかかりなさい。
電車が来るまでの十分間だけ、君の人生の荷物を半分持ってあげよう。
背中から伝わる体温が、私の木目をじわりと温める。
彼は深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜く。
その瞬間、私は単なる設備ではなく、彼らの安息地になる。
私は定点観測者だ。
特定の人物の人生を、断片的にだが、長く見つめ続けることがある。
覚えている少女がいる。
最初は、赤いランドセルを背負った小学生だった。
足をぶらつかせ、私の座面の端っこに座っていた。
やがてセーラー服を着るようになった。
単語帳を開き、ブツブツと英単語を呟いていた。
試験の前日は、彼女のお尻が緊張で硬くなっているのがわかった。
「受かりますように」
彼女の祈るような体温。
春、彼女はブレザーを着て現れた。
隣には背の高い男の子がいた。
二人の手は、私の座面の上で、触れるか触れないかの距離を行き来していた。
もどかしい距離感。
やがて二つの手が重なり、彼女の体温が二度ほど上がったのを私は感じた。
初恋の熱量。
それから数年後、彼女はリクルートスーツに身を包み、ハイヒールで靴擦れした足をさすっていた。
疲れた顔。ため息。
そしてある日、彼女は小さな子供を抱いて座った。
「電車見る? ほら、来たよ」
母親になった彼女の声は、昔より少し低く、でも強く優しくなっていた。
最近、彼女を見かけない。
引っ越したのか、それとも車移動になったのか。
寂しくはない。
彼女の人生の一時期を、確かに私が支えたという事実は消えないからだ。
夏。
私の木肌は熱を持つ。
夕立の後の、湿った風が吹き抜ける夕暮れ。
浴衣姿の若者たちが座る。
線香花火の匂い。制汗スプレーのシトラスの香り。
彼らの汗が私に染み込み、若さというエネルギーを分け与えてくれる。
冬。
木枯らしが吹き荒れ、ホームに粉雪が舞い込む夜。
私の体は氷のように冷える。
終電間際。
酔っぱらった男が寝転がる。
「うぅ……」
吐く息が白い。酒と胃液の臭い。
汚い、とは思わない。
私のニスは剥げ、傷だらけだ。今更汚れなど気にならない。
人間は弱い生き物だ。
誰かに支えられなければ、自立していられない夜もある。
彼が流した一筋の涙が、私の座面の窪みに落ちて溜まる。
塩辛い、悲しみの味。
泣きなさい。
明日の朝には乾いているから。
私の年輪の一部として、君の悲しみを吸い取ってあげるから。
四十年。
長い歳月だった。
私の足元のボルトは赤く錆びつき、ガタがきていた。
最近の駅は綺麗になった。
周りのベンチは次々と撤去され、スタイリッシュな金属製のものや、個別に仕切られたプラスチック製のものに変わっていった。
冷たくて、硬くて、長居を拒絶するようなデザイン。
「排除アート」とか呼ばれているらしい。
ホームレスが寝転がれないように。酔っ払いが占領しないように。
効率と排除の論理。
悲しいことだ。
ベンチとは、広場における焚き火のような、無条件の優しさの形であるべきなのに。
そして、私の番が来た。
『駅舎改修工事に伴うベンチ撤去のお知らせ』
冷たい紙が、私の背もたれに貼られた。
ガムテープの粘着質が、乾いた木肌に食い込んで痒い。
ああ、ついに引退か。
不思議と恐怖はなかった。
私は十分に働いた。
私の座面はすり減り、私の背もたれは手垢で黒ずんでいる。
これ以上、何を望むというのだろう。
撤去の朝。
作業員がインパクトドライバーを持って現れた。
キュイーン、という甲高い音と共に、私を大地に繋ぎ止めていた錆びたボルトが強引にねじ切られる。
体が浮く。
足の裏がスースーする。
四十年ぶりに地面から離れた感覚。
私はトラックの荷台に乗せられた。
ガタガタと揺れる。
見慣れた駅の風景が遠ざかっていく。
ホームの雑踏、発車ベルの音、アナウンスの声。
さようなら、私の居場所。
さようなら、通り過ぎていった私の愛しい人間たち。
運ばれた先は、産業廃棄物処理場だった。
巨大なクレーンの下、木くずや建築廃材の山の中に私は落とされた。
目の前には巨大な焼却炉。
ごうごうと燃え盛る炎が、全てを灰へと変えている。
熱い。
けれど、それは心地よい熱さだった。
私は森へ還るのだ。
かつて私がまだ一本の木として森に立っていた頃、太陽の光を浴びて感じたあの熱に似ている。
アームが私を掴む。
宙を舞う。
炎の中へ投げ込まれる。
一瞬で炎が私を包み込む。
パチパチ、パチパチ!
私の木材に含まれていた水分が一気に蒸発する。
それは、かつて若者たちが流した汗であり、酔っ払いの涙であり、雨の日に染み込んだ湿気だ。
四十年分の人間の体液が、白い蒸気となって昇華していく。
私の身体が光になる。
ニスが燃え、木質が分解され、純粋な熱エネルギーへと変わる。
爆ぜる音は、まるで私自身が拍手をしているようだった。
あるいは、四十年分の「お疲れ様」という言葉が、一斉に弾け飛んだ音だったのかもしれない。
私の体は炭になり、灰になり、煙になる。
私は解き放たれる。
もう誰の重荷も背負わなくていい。
もう動かない足で立ち続けなくていい。
私は風になり、雲になり、空へと舞い上がる。
そしてまた、あの駅のホームへと雨となって降り注ぐだろう。
新しい、冷たいプラスチックのベンチに座る誰かの肩に、そっと触れる風として。
その時、もしあなたが少しだけ温かい、懐かしい気持ちになれたなら。
それは私がそばにいる証拠だ。
私の人生は、ただそこに在ることだった。
受け入れ、支え、見送ることだった。
そして今、私は世界の一部になった。
ありがとう。
重たくて、温かくて、愛おしい人間たちよ。




