細部にこだわり、技法を重視する風潮は文化的にじり貧な状況を生み出す
あるいはオタク的な発想や嗜好は自らの首を絞めるとでも言うべきだろうか。
じり貧とは、次第に悪い状況になっていくことであり、今現在は実感できなくてもいずれ困ったことになるだろうという未来志向な言葉である。未来が必ずしも良い方向に進むとは限らないことを端的に表現するものだ。
文化とは人間が精神の働きで作り出してきたあらゆるものを指し、それらは過去から受け継がれてきたものに新しいものを付け加えて形を整えながら、より豊かな存在となって次の世代に紡がれていくものだろう。
芸術に限らず、エンターテインメント的なものも文化を形作る上で重要な位置を占める事になるが、現代におけるそれらが文化をより豊かにする役割を担えるのか疑問に感じることがある。
例えば、やたらと細かいネタが詰め込まれていたり、過去の名作のオマージュ、再現に力を入れたりしている作品が持て囃されているように思える。重箱の隅をつつくような見方をして楽しむような作品を頭に思い浮かべて貰えば良い。オタクにしかわからないようなネタを嬉々として盛り込んでいる作品で、人によっては目新しく映るかもしれないけれど、本来的な意味での新しさに欠け、小ぢんまりとした印象を与えるものだ。
文化をより豊かなものとするためには、これまでにない新しさが必要になってくると考える。古典や名作として語り継がれるものには、何らかの新しさがあるために、時代を経てもなお新しい発見や面白さを感じさせるのではないだろうか。その新しさを生み出すには、今この世界にないようなものを作り出そうという発想、そして発想をしようという意思が必要なのだと思う。
ありがちな例え話だけれど、テレビゲーム(今となってはテレビという部分が伝わらないかもしれないが)を初めて作った人たちはテレビゲームを作ろうと発想をしたのではないということだ。今ここにないものを作ろうという意思が、多くの人を惹きつける発想を生み出し、テレビゲームという形に結実したのだ。この点に、どんなゲームを作ろうかという発想との大きな隔たりがある。
新しい発想により生み出されたものは人気を博すが、後に続く者が行き当たるのは大きく分けて二つの道だ。発想の結果に着目して同じようなものを作り出す道と、新しい発想が生まれた過程に着目しこれまでにない新しいものを作り出す道だ。どちらも価値ある道だが、最近というか、ここ数十年ほどは前者の道が渋滞を起こしているように見える。
過去の〇〇みたいなものを作りたいという発想からスタートしているものが大挙して押し寄せてきているように思えるのだ。自分で新しい器を作ろうという発想がそもそも存在せず、他人が用意した器に何を盛り付けるかを選ぶことが創作であると割り切っているような作品に心当たりはないだろうか。
そういった作品は往々にして技法としては優れているが、いまいち満足感を覚えないものが多い。それは技法というものが、そもそも何らかの目的、効果を達成するために編み出されたものであり、技法そのものに価値があるわけではないことに起因する。根底に作り手の意識というか、大袈裟に言えば思想がないと技法は本来の役割を果たさないのだと考える。
文化を紡いでいく上では新しい発想が必要になる。過去に敬意を払うにしても、その過去は先人たちの新しい発想により生み出されたものであると考えれば、それに続くものはたとえ上手くいかなくても新しいものを生み出そうという意思を忘れてはならないと思う。それは創作者だけでなく、受け手である鑑賞者、消費者などにも当てはまることだろう。受け手が新しいものを望むことも、創作者が新しい発想を生み出す後押しになるのだから。終わり




