(26)平民少女は、闇に触れて生き延びる
二体目は、正直に言って運が良かった。
茂みの奥で、丸くなっている魔物を発見したからだ。
姿は先ほどと同じ、角の生えたウサギ型だが、背中が大きく膨れ上がっている。
――今なら。
チャンスだ。
距離を保ったまま、杖を構える。
「《ストーンバレット》!」
礫を放つ。
慌てず、狙いを定めて――命中。
魔物がこちらに気づく前に、二発目、三発目と続けて撃ち込む。
三発目が命中した瞬間、魔物はぴくりとも動かなくなり、塵となって霧散した。
二体目、撃破。
足が、がくがくと震える。
もう怖くて仕方がない。
(……帰りたい)
でも、あと一体だ。
なんとか頑張って、三体目を見つけよう――そう思った、その矢先。
ザワッ。
森の木々が揺れる音とともに、全身に冷たい汗が滲んだ。
本能が警鐘を鳴らす。
何かがおかしい。
今までとは、桁違いの存在感が前方から迫ってくる。
ドスン、ドスン。
藪を割って現れたのは――漆黒の巨体だった。
人の二倍以上はある体躯。
暗灰色の硬質な甲殻に覆われ、節足動物のような関節部が赤黒く脈打っている。
昆虫型魔物――それも、これまで見てきた小型の個体とは比べものにならない。
額には、ルビーのように輝く魔石。
視線が合った瞬間、背筋に氷水を流し込まれたような寒気が走る。
(……違う)
こいつは、只者じゃない。
授業でも、昆虫型魔物は危険度が高いと教わっていた。
特に大型個体は、初級生では対処不能だと。
思わず後ずさる。
だが足に力が入らず、尻餅をついてしまった。
恐怖で、身体が金縛りにあったように動かない。
呼吸することすら忘れてしまう。
それでも魔物は、ゆっくりと距離を詰めてくる。
鋭い鎌のような前肢を振り上げ――襲いかかってきた。
パニックに陥り、杖を握りしめる。
詠唱が、できない。
言葉が出てこない。
頭の中では何度も呪文を繰り返しているのに、舌が動かない。
「あ……あぁ……」
涙が溢れ、身体が震える。
杖も、がたがたと揺れていた。
影が、すぐそこまで迫る。
――もう、だめだ。
そう思った瞬間、脳裏にメリッサ先生の言葉が蘇った。
『危険を感じたら、即座に緊急連絡手段を使用すること』
……そうだ。
ピンクの煙を出す、あの筒。
必死にポケットへ手を突っ込む。
硬い感触を掴み、親指でピンを引き抜いた。
バシュッ!!
眩い閃光が辺りを照らし、甲高い音が鼓膜を貫く。
同時に、ピンク色の煙が勢いよく噴き上がった。
衝撃に吹き飛ばされそうになり、思わず目を閉じる。
光と音と煙の中で、魔物の動きが一瞬止まる。
――でも、それだけだ。
すぐにこちらを睨みつけてくる。
(まずい……!)
煙幕の効果は、すぐに切れる。
この巨体を止める手段は、もう――!
その時。
私の中の何かが、弾けた。
生まれて初めて味わう、根源的な恐怖と絶望。
もう無理だと、諦めかけた瞬間――
不思議な感情が、胸の奥から湧き上がってきた。
「……嫌だ」
声が、漏れる。
「……死にたくない!!」
強い想いが、心の底から噴き出す。
途端に、視界が歪んだ。
闇色の靄が、周囲に漂い始める。
濃密で、粘つくような感覚。
今まで感じたことのない――異質な魔力。
無意識のまま、杖を掲げる。
「闇よ……私の絶望に応えよ!」
初めて使う魔法だった。
それでも言葉が、勝手に流れ出る。
杖の先から、黒い触手のようなものが伸び、魔物へと絡みつく。
同時に、私の身体からも黒い靄が噴き出し、魔物を包み込んだ。
ズシャッ!!
闇の触手が魔物を拘束すると同時に、鋭い爪が闇を引き裂く。
火花が散り、力が拮抗する。
――だが、魔物の方が強い。
このままでは、破られる。
必死に踏ん張るが、魔力の消耗が激しく、膝が震える。
(……終わり、なの?)
絶望感に押し潰されそうになり、諦めかけた――その時。
ヒュン。
空気を切り裂く音。
視線を向けると、魔物の右側面に小さな火球が炸裂した。
グオォォッ!!
怒号のような咆哮を上げ、魔物が振り向く。
火球が飛んできた方向から、若い女性の声が響いた。
「伏せて!!」
反射的に地面へ伏せる。
頭上を風圧が通り過ぎた。
恐る恐る顔を上げると――
そこに立っていたのは、華奢な少女だった。
黒髪が風に靡き、碧眼が爛々と輝いている。
「大丈夫? 助けに来たよ!」
――クロエ・エルヴェールさん。
信じられないことに、先ほどまで私の命を脅かしていた魔物が、怯んでいる。
「……え?」
呆然とする私をよそに、クロエさんが小さく首を傾げる。
「ふむ、手加減しすぎたかな」
彼女の杖が、淡く輝き始めた。
魔物が威嚇するように前肢を振り上げた、その瞬間――
轟音が、森を支配した。
クロエさんの杖から放たれた魔法が、魔物の頭部を粉砕する。
爆発的な威力に、目が眩み、耳鳴りがする。
仰け反った魔物が、塵と化していく。
私は、夢見心地でその光景を眺めていた。
あまりにも現実味がなくて。
自分が、死にかけていたことさえ、忘れて。
その場に、へなへなと座り込んでいた。
すべてが終わり、辺りは静寂に包まれた。
地面には、討伐された魔物が残した魔石が転がっている。
拳よりも一回りは大きく、今まで私が見たどの魔石よりも遥かに巨大だ。
クロエさんはそれを拾い上げ、くるくると手の中で弄ぶ。
「怪我はない?」
「は……はい……」
声がかすれ、うまく返事ができない。
それでも彼女は気にする様子もなく、そっと手を差し伸べてくれた。
「無理しないでね。みんな最初は怖いよ。でも、少しずつ慣れていけばいいんだよ」
「あ……ありがとうございます……!」
差し出された手を、ぎゅっと掴む。
――温かい。
その感触だけで、胸の奥がいっぱいになり、今にも涙が溢れそうになる。
(この人は……すごい)
同じクラスメイトのはずなのに、ずっと雲の上の存在のように感じていた。
八歳という若さでエンシェントの資質を持ち、四つの属性すべてを扱える天才少女。
私なんかとは、比べものにならないほど優れた魔法使い。
けれど今、この瞬間。
ただ憧れるだけの存在ではなく、初めて「近くにいる人」だと感じられた。
その気持ちと同時に――
クロエ・エルヴェールという存在に対する、静かな畏敬の念が、私の中に芽生え始めていたのだった。




