前世で殺した男と、今生の結婚
第一章 再生
意識が戻ったとき、彼女の最初の感覚は、消毒液の匂いだった。
鋭い痛みが頭を走り抜ける。あの夜、自宅の階段から転げ落ちる感覚。そして、夫である高崎稔が、上から見下ろす冷たい目。浮かべているのは、罪を犯したという悔恨ではなく、むしろ…達成感に近い、静かな安堵の表情。
「そう、私は殺されたのだ」
小林美咲は、二十五年の短い生涯を、そんな形で終えるはずだった——。
「由衣さん?…お目覚めになりましたか?」
耳慣れない名前。美咲は必死に瞼を持ち上げた。ぼやけた視界が少しずつ焦点を結ぶ。真っ白な天井。そして、視界にゆっくりと顔を寄せてきた男——。
稔だ。
しかし、なぜか老けていない。むしろ、若々しい。皺ひとつない額。そして、その瞳には、記憶にある冷たさではなく、心配と安堵の色が満ちている。
「良かった…本当に良かった…」
稔が彼女の手を握りしめる。その手の温もりに、美咲——いや、今の彼女は誰なのか——は、底知れぬ悪寒に襲われた。彼女はゆっくりと自分の手を見つめた。これは、彼女の慣れ親しんだ、家事で少し荒れた手ではない。つややかで、きちんと手入れされた、明らかに他人の手だった。
「あ…」
声を出そうとしたが、喉が渇き、かすれた吐息しか出てこない。
「水だね。少しまってて」
稔は慣れた様子で湯飲みにストローを差し、彼女の口元に運んだ。その動作は、前世の彼が決して示さなかった、自然な気遣いに満ちていた。
冷たい水が喉を通り、思考が徐々に現実に追いつく。彼女は目を泳がせ、病室を見回す。最新の医療機器。壁のカレンダーは、昭和ではなく、見知らぬ元号を表示している。
平成…?
「由衣、無理をしすぎたんだよ。仕業の締め切りが迫ってるのは分かるけど、倒れるほど働くんじゃない。心配したよ」
由衣。平野由衣。ふと、その名前と共に、断片的な記憶が頭に流れ込んだ。デザイン事務所で働く、二十八歳。結婚して一年の新妻。そして、眼前のこの男は、高崎稔、三十三歳、彼女の夫——。
吐き気がした。胃の底から沸き上がる、強い嫌悪と恐怖。殺人者が、被害者の新たな人生に、最も近い存在として紛れ込んでいる。これが、天の皮肉というものか。
「顔色が悪いよ、由衣。医者を呼んでくる」
稔が立ち上がろうとした時、彼女は必死に力を振り絞って、彼の袖をつかんだ。
「…み…の…る…」
声にならない声を出すのが精一杯だった。なぜそんなことをした?私を殺しておいて、なぜまた私の前に現れるの?問い質したいことは山ほどあった。しかし、今の彼女にできるのは、この恐ろしい現実を受け入れ、演じることだけだ。
彼女は涙を浮かべた。恐怖と怒りの涙を、安堵の涙として見せかけて。
稔は優しく彼女の手を握り返した。
「もう大丈夫だよ、由衣。私がついているから」
その言葉に、美咲の、いや、由衣の背筋に冷ややかな戦慄が走った。この男は完全に演じ切っている。それとも、本当に…別人なのか?
いや、違う。あの目は忘れない。人を殺めることのできる、冷たい目。たとえ時代が変わろうと、たとえ名前が変わろうと、こいつは高崎稔なのだ。
由衣はそっと目を閉じた。ふたたび、深い闇に堕ちていくように。だが今度は、孤独ではない。この胸に、燃え上がるほどの憎しみを抱いて。
稔は、何も知らない。この身体に、彼が殺した女の魂が息吹いていることなど、夢にも思っていない。
「ゆっくり休んでください、由衣さん」
看護師の声が遠く聞こえる。由衣は、自分の心が冷ややかに、そして確かに固まっていくのを感じた。
復讐は、急ぐ必要はない。蛹のように、じっと時を待てばいい。月が満ち欠けするように、必ずや訪れるチャンスを待てばいい。
彼女は新しい人生で、新しい役を演じる。完璧な妻として。
そして、完璧な復讐者として——。
第二章 偽りの新婚生活
病院を出て一週間が経った。
平野由衣という女の人生は、思っていた以上に整理されていた。デザイン事務所「スタジオ・エクリ」に勤め、趣味は茶道とフラワーアレンジメント。スマートフォンには友人や同僚との何気ない会話の記録が残り、SNSには新婚当初の、稔と肩を並べる笑顔の写真がいくつも載っていた。
「まったく、由衣さんはいつもそう。頑張り屋すぎるんだから」
事務所の先輩、佐藤文乃は、由衣のデスクに差し入れてきた缶コーヒーを置きながら、そう言って嘆息した。
由衣は申し訳なさそうに笑った。前世の美咲が育んだ、慎ましくへりくだる態度は、今の彼女を自然に守る鎧となっていた。
「すみません、文乃さん。みなさんに心配をおかけして…」
「いいのよ。でもね、もっと自分を甘やかしていいの。だって、」
文乃は由衣の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。
「高崎さんみたいなイケメンで優しい夫がいるんだから、たまには甘えちゃいなさいよ」
由衣の胃が軽く痙攣した。甘える?あの男に?
「ええ…そう、ですね」
彼女の笑顔は、完璧に作られていた。
自宅は閑静な住宅街にある、モダンなデザインの一戸建てだった。前世、美咲と稔が暮らした古びたアパートとは比較にならない。扉を開けると、稔の声が聞こえてきた。
「おかえり、由衣。ちょうどいいところに。夕飯の支度をしているんだ」
彼はエプロンを姿に、台所に立っていた。野菜を刻む包丁さばきは慣れたものだ。前世、家事と言えば「女の仕事」とばかりにほとんど手を出さなかった男の面影は、どこにもなかった。
「すみません、私がやりますよ」
由衣もエプロンをつけ、台所に向かおうとした。
「いいのよ。今日は君が病人だ。座ってて」
稔は笑いながら由衣を軽く居間へと押し戻した。その手の感触に、由衣はまたしても鳥肌が立った。
食事は静かだった。しかし、その静けさは不自然ではない、むしろ穏やかなものに感じられた。稔は由衣の好みを細かく把握しているようで、どれもこれも由衣(美咲)の好きな味付けだった。
「おいしいです」
「そうか、良かった」
稔の微笑みは、心底から安心しているように見えた。
これが、完璧な偽装だ。由衣は米一粒ひとつぶ残さず、静かに咀嚼した。憎悪は胸の奥にしまい込み、表面には感謝の表情を浮かべる。これこそが、彼女の戦い方だ。
夜、彼らは別々の布団で寝た。これも、由衣が「体調がまだ完全に回復していない」という理由で申し出て、稔がすんなりと了解したことだった。薄暗い部屋で、隣の布団で眠る男の寝息を聞きながら、由衣は考える。
なぜ、こんな演技ができるのか? 前世の記憶は間違いなのか?
いや、間違いない。あの冷たい目、階段から転落する感覚は、まぎれもない現実だ。
だとすれば、この男は狂っている。二つの人生にわたって、彼女を弄び続けることに何らかの快楽を見いだしているに違いない。
ある夜、由衣はこっそりと起き上がった。稔が深く眠っていることを確認すると、彼の書斎に向かった。証拠を探さねばならない。彼の正体を暴く何かを。
パソコンにはパスワードがかかっていた。引き出しはきちんと整理され、仕事の書類ばかりだ。しかし、一番下の引き出しだけは、なぜか鍵がかかっていた。
(ここに何かある…)
由衣の心臓が高鳴った。しかし、今は無理をして開ける時ではない。彼女は静かに書斎を後にした。
次の日、由衣はある決断をした。彼女は文乃に、かつて稔が勤めていた出版社の名前をさりげなく聞き出した。そして、昼休みにその出版社の古い資料が保管されている図書館に向かった。
縮刷版の新聞の棚で、彼女はある年の合併号を手に取った。彼女が死んだはずの、昭和63年末の新聞だ。
社会面をめくる指が震えた。
見出しが目に飛び込んできた。
《世田谷区のアパートで女性転落死 事故か事件か 夫が通報》
美咲の呼吸が止まった。記事には、小林美咲(25)が自宅階段から転落し死亡、同居する夫の稔氏(28)が不在中に帰宅し発見、とある。警察は事故の可能性が高いと見ているが、状況を調査中、と結ばれていた。
事故。そう、それは表向きの結末だ。彼女は殺されたのだ。
彼女はその記事のコピーを取った。そして、ほとんど衝動的に、その数年後の新聞もめくってみた。稔のその後が知りたかった。
そして、彼女はもう一つの記事を見つけた。小さな囲み記事だった。
《元編集者、高崎稔氏、ベンチャー企業を起業へ かつての担当作家が賛同》
記事の横には、少し若いが、間違いなく現在の稔の写真があった。そして、記事の末尾に、短いインタビューが載っていた。
「…人生で大きな失敗をし、大切なものを失ってしまいました。その悔恨をバネに、新しいことに挑戦したい」
由衣は新聞を握りしめた。墨の匂いが鼻をつく。
“大切なもの”?
それは、彼が奪った彼女の命のことなのか?
それとも、彼が“失ってしまった”と感じる、何か別のものなのか?
悔恨? そんなものがあったとしても、それは一切、彼の罪を軽くするものではない。
家に帰る道すがら、由衣はコインロッカーに新聞コピーをしまった。そして、平静な表情でドアを開けた。
「おかえり、由衣。今日は少し早いね」
稔は相変わらずの笑顔で迎えてくれた。しかし、今日、その笑顔は由衣には違って見えた。どこか陰のある、深読みしたくなる笑顔に。
「ええ、たまには早く帰って、ご飯でも作ろうかと」
由衣も笑顔を返す。
二人の笑顔の裏で、冷たい戦いが続いていた。
由衣は知った。この男は、単純な殺人鬼ではない。もっと複雑で、危険な何かだ。
そして彼女の復讐は、単なる暴力では終わらせない。彼が最も恐れるもの、彼の現在の完璧な人生を、骨の髄まで破壊しなければ意味がない。
蛹は、静かに、ゆっくりと、羽化の時を待つ。
第三章 闇への階段
平野由衣という仮面を被り、日常を演じることにある種の慣れが生じ始めていた。デザインの仕事は、前世では縁遠かったクリエイティブな世界で、思いのほか彼女の心の逃げ場となった。パソコン画面に向かい、色と形を操っている間だけは、復讐の念頭から一時的に解放された気がいた。
一方で、高崎稔という男への違和感は、日増しに大きくなっていった。彼の振る舞いはあまりにも自然で、妻を思いやる細やかな気配りは、一朝一夕に演じられるものではない。時折、彼が由衣を見る目に、どこか哀しげな、あるいは深く考え込むような影が差すのを、由衣は見逃さなかった。
(これは…罪悪感なのか? それとも、何か別の感情なのか?)
ある金曜日の夜、稔が仕事の付き合いで外出するとの連絡が入った。由衣の胸に、期待と緊張が走った。待ちに待った、書斎のあの引き出しを調べる絶好の機会だ。
「わかった。お気をつけて。…お酒、飲みすぎないでね」
電話口で、由衣は愛らしい妻を演じきった。
稔の帰宅予定時間まで、たっぷりと三時間はある。彼がいない家は、静まり返っていた。由衣はまず窓のカーテンを全て閉め、家の外から中の様子が伺えないようにした。そして、細心の注意を払い、手袋をはめた。
書斎のドアを開けると、わずかな埃の匂いがした。彼女はまず、すでに調べ尽くした他の引き出しや本棚を軽く揺するなどして、わざとらしく物音を立てた。万一、稔が何らかの防犯装置を仕掛けていた場合に備えての芝居だ。
そして、いよいよ一番下の、鍵のかかった引き出しの前にしゃがみ込んだ。懐中電灯で仔細に照らす。ごく普通の安物の南京錠だ。由衣はヘアピンを慎重に曲げ、ピッキングの道具を作り出した。前世、夫の浮気調査に執着した末に、ろくな情報商材から学んだおぞましい技術が、ここで役立つとは。
何度か失敗し、額に汗がにじんだ。時間が過ぎ去っていく。焦りが彼女の指先を震わせた。
カチッ。
小さな、しかし由衣の耳には雷鳴のように響く音がした。鍵が開いた。
彼女は息を詰め、ゆっくりと引き出しを引いた。
中には、ごくわずかな物しか入っていなかった。まず目に入ったのは、一枚の写真だ。色あせた、昭和時代のスナップ写真。写っているのは、若き日の高崎稔と――小林美咲だった。二人は公園のベンチで並んで座り、美咲は恥ずかしそうにうつむき、稔はどこかよそよそしい表情をしていた。あの時代、彼がそんなに自然に笑ったことは、ほとんどなかった。
(なぜ…この写真を?)
由衣の手が震えた。彼が記念に取っておくような、幸せな思い出など、どこにもない。これは、むしろ…トロフィーか? それとも…
彼女は写真の裏を見た。そこには、稔の字で、一つの日付が書かれていた。美咲が死んだ日付だ。その下には、一言。
「許してください」
由衣は一瞬、理解できなかった。許せ? 誰が誰を? 殺した者が、殺された者に?
混乱が彼女の頭を駆け巡った。彼は後悔しているのか? それなら、なぜ今、彼女(由衣)と結婚した? 罰を受けるためか? しかし、彼の日々の態度は、罪の償いというより、むしろ…
彼女の思考は、引き出しの奥にしまわれた一冊のノートによって中断された。それは、美咲が使っていたものと同じような、ごく普通の大学ノートだった。表紙には何も書いていない。
手帳を開くと、中身は稔の字でびっしりと埋められていた。日記の体裁をとっているが、その日付はばらばらで、時系列ではない。
最初のページには、こう書かれていた。
『また、彼女を見つけた。今度は、平野由衣という名だ。運命とは残酷なものだ。いや、これは運命ではなく、私への罰なのかもしれない。』
由衣の背筋に氷の柱が走った。血の気が引いていくのを感じた。
『彼女は美咲に瓜二つではない。しかし、あの仕草、あの無意識に眉をひそめる癖、あの優しげな物腰…全てが美咲を思い起こさせる。私は、彼女に近づかずにはいられなかった。』
ページをめくる指が震えた。
『由衣と結婚した。美咲への贖罪のためではない。それはわかっている。私は…ただ、彼女のそばにいたいだけなのだ。この感情が何なのか、自分でもわからない。』
日記の記述は、時に支離滅裂で、自己矛盾的だった。美咲への罪悪感と、由衣への執着が入り乱れている。
そして、最も由衣の息を呑ませた一節は、ほんの数ヶ月前の日付のものだった。
『由衣が階段でつまずいた。一瞬、あの夜のことがフラッシュバックした。私は飛び寄り、彼女を抱きしめた。あの時、美咲を支えられなかった…今度は、絶対に守る。たとえ、彼女が誰であっても。』
(彼は…知っているのか? 私が美咲の魂であることを?)
(いや、違う…“たとえ、彼女が誰であっても”… これは、私が美咲に似ているから、という意味か? それとも…)
混乱と恐怖が頂点に達したその時、突然、玄関のドアが開く音と、稔の声が聞こえた。
「由衣、ただいま。予定より早く終わったよ」
由衣の心臓は口から飛び出そうになった。冷や汗が一気に吹き出る。焦りとパニックの中で、彼女はノートを引き出しに戻し、鍵を閉めようとした。しかし、震える指がうまく動かない。
足音が居間から廊下へ、そして書斎へと近づいてくる。
「由衣? どこにいるの?」
引き出しを閉め、南京錠をかけ直す。ヘアピンを外し、手袋を素早く外してポケットにしまう。一連の動作を、恐怖が研ぎ澄ました集中力で行った。
書斎のドアが開かれる直前、由衣は咄嗟に本棚から一冊の本を手に取り、窓辺に立った。
ドアが開いた。
「あ、由衣。こんなところにいたのか」
稔が立っていた。彼の頬は少し赤く、酒の気配がした。
「ええ、たまにはここで読書でも…と思って」
由衣は笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉がこわばっていた。手に持った本は、何のタイトルかも確認していない。
稔の視線が、由衣の体をゆっくりと撫でるように動いた。そして、彼の目は、由衣の足元へと向かった。
「由衣…その足元、どうしたんだい?」
由衣が下を向く。彼女のスリッパの先に、ほんの少し、細かな木屑が付着していた。慌てて引き出しを閉めた時に、古い木の破片が跳ねたのだろう。
一瞬、時間が止まった。稔の目が、由衣の目を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥には、一瞬、鋭い探るような光が走ったように思えた。
「あ、これか…さっき、本棚を整理してたら、ほこりが積もってたから、はたいたの。びっくりしたよ、ほこりだらけで」
由衣は笑いながら、さりげなくスリッパを拭った。心臓は狂ったように鼓動を打っている。
稔はしばらく無言で由衣を見つめていた。その沈黙は、由衣には永遠のように感じられた。
そして、彼はふっと、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうか。由衣が掃除をしてくれるのはありがたいけど、無理はするなよ。体調が完全には回復していないんだから」
そう言って、稔は由衣に近づき、そっと彼女の肩を抱いた。
「外は少し冷えてきた。温かい紅茶でも入れようか」
稔の腕に導かれて書斎を出る時、由衣は振り返らずにはいられなかった。あの引き出しは、しっかりと閉まっているか?
そして、稔の優しげな態度の裏に、あの一瞬走った鋭い眼光は、果たして気のせいだったのか?
紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上る。対面して座る夫は、何もなかったように穏やかに笑っている。
しかし、由衣にはわかっていた。この平穏は、もはや完全な偽装だということを。彼女の探った引き出しは、潘多拉の箱であった。中から飛び出した疑念と恐怖は、もう二度と元には戻らない。
彼女は、一歩、深い闇へと足を踏み入れたのだ。そして、その階段は、もう下りることはできず、ただ更深くへと続いている――。
第四章 甘い罠
あの夜以来、平野由衣の内面は、静かなる激動に揺れていた。稔の日記の言葉——「許してください」「彼女が誰であっても」——が、脳裏から離れない。憎しみは依然として彼女の胸の奥で燻り続けていたが、そこに、得体の知れない困惑と、ある種の憐れみさえもが混ざり始めていた。この男は、単なる殺人鬼ではなく、自身の内なる悪霊に苛まれる、病んだ魂なのかもしれない。
しかし、そんな感情は危険だ、と由衣は自分に言い聞かせた。油断は死を意味する。たとえ彼が苦しんでいようと、それが彼女の命を奪った事実を消し去ることはない。
翌週、仕事で大きなプロジェクトの山場を越えた事務所は、少し浮ついた空気に包まれていた。昼休み、佐藤文乃が由衣のデスクにやって来た。
「由衣ちゃん、ちょっといい? 高原商事のパーティーの件なんだけど…」
高原商事。由衣の心臓が一拍飛んだ。それは、稔が現在、最も重要視している取引先の一つだった。
「ええ、何でしょう?」
由衣は平静を装って顔を上げた。
「実はね、うちの事務所からも数名出席することになってて。由衣ちゃん、もし体調が大丈夫なら、一緒にどう? 高崎さんもいらっしゃるし、夫婦でいたほうが自然でしょ」
誘い、というよりは、暗黙の了解を得るような口調だった。社交の場は、情報収集の絶好の機会だ。しかし、それは同時に、稔のビジネスの世界に深く足を踏み入れることも意味した。危険と隣り合わせの誘い。
由衣は一瞬ためらった。しかし、蛹の中に閉じこもっているだけでは何も始まらない。
「そうですね…お言葉に甘えて、お供させていただきます」
パーティーは、六本木の高層ホテルの一室で開催された。グラス越しに輝く都心の夜景、優雅に響くクラシック音楽。前世の美咲には縁遠い、華やかな世界だった。由衣は、稔によって選ばれたという淡いパステルカラーのワンピースを着込み、彼の腕に軽く手を添えて会場に入った。
「おや、高崎さん。ご夫妻でいらっしゃったのですね」
早速、顔見知りの重役らしき男性が声をかけてきた。
「ええ、妻がようやく体調を戻しまして。由衣、こちらは高原商事の専務、杉野さんだよ」
稔の紹介は、ごく自然だった。
由衣はお辞儀をした。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます。夫がいつもお世話になっております」
その瞬間、杉野専務の目が、由衣の顔にじっと留まるのを感じた。どこか評価するような、探るような視線。
「いやいや、とんでもない。高崎さんにはこちらの新しいプロジェクトで、大きくご協力いただいている。むしろ、こちらこそ感謝しているよ」
そう言いながら、彼の視線は由衣から離れなかった。
「それにしても、奥様、お美しいですね。高崎さん、羨ましい限りだ」
何気ない賛辞だったが、由衣には違和感として突き刺さった。それは、単なる社交辞令というより、ある種の…興味に近いもののように感じられた。
パーティーが進むにつれ、由衣はあるパターンに気づいた。稔はビジネス上の会話に巧みで、誰からも好かれているように見えた。しかし、杉野専務をはじめとする高原商事の幹部たちとの会話には、どこか微妙な緊張感、あるいは遠慮のようなものが感じられるのだ。稔の笑顔の裏に、かすかな焦りや警戒心が見えるような気がした。
(この取引、何か問題を抱えているのか?)
由衣は、さりげなく女性客のグループに加わり、おしゃべりに興じるふりをした。そして、タイミングを見計らって、高原商事の社長令嬢という立場らしい、若い女性に話しかけた。
「素敵なパーティーをありがとうございます。私は高崎の妻の由衣と申します」
「あら、初めまして。高原晴子です」
晴子は人なつっこい笑顔を見せた。「高崎さん、お若くて有能で、父もとても気に入っているんですよ。ただね…」
晴子は声をひそめた。
「社内では、高崎さんとの契約内容に、少し疑問の声もあるみたいなの。あまりに好条件すぎる、とかって」
由衣の耳が研ぎ澄まされた。
「そうなんですか?」
「ええ。でも、父は高崎さんを全面的に信頼しているみたい。『あの男には将来性がある』って」
信頼。しかし、その信頼が、わずかなほころびから大きく崩れ去ることも、世間ではよくある話だ。由衣の胸に、冷たい閃きが走った。
帰り道、タクシーの中で、稔は静かに呟いた。
「由衣、今日はありがとう。君がいてくれたおかげで、場が和んだよ」
「いいえ。私、何もしてませんよ」
由衣は窓の外の流れる光を見つめながら答えた。
「いや、君の存在そのものが大きいんだ。…杉野専務も、君のことを気に入っていたようだ」
稔の声には、ごくわずかだが、曖昧なニュアンスが含まれているように由衣には聞こえた。それは、喜びなのか、それとも…
家に着き、由衣がコートを脱ごうとした時、稔が突然言った。
「由衣、その髪飾り、とても似合っているよ。でも、たまには…もっと Japanese な感じの、例えば、簪なんかどうかな」
由衣の動きが一瞬止まった。簪。それは、前世の美咲が、ごく稀な晴れの日にだけ使った、大切なものだった。
(偶然? それとも…)
由衣は振り返り、できるだけ自然な笑顔を作った。
「簪? なんだか難しそうですけど…。でも、機会があったら、挑戦してみます」
その夜、由衣は一人きりになると、すぐにパソコンを開いた。高原商事と稔のベンチャー企業に関するニュースを検索し始めた。晴子の言葉は、単なる噂以上の何かかもしれない。
そして、ようやくたどり着いたのが、ある経済ブログの記事だった。それは、高原商事の一部の株主が、稔の会社との契約の「透明性」に疑問を呈している、という内容だった。記事は具体的な証拠には触れず、憶測の域を出ないものだったが、由衣には十分だった。
(もし、この疑惑に、ほんの少しの…たとえば、内部関係者らしき人物からの匿名の情報が付け加わったら?)
それは、稔の完璧に見える現在の人生を、根本から揺るがすかもしれない。物理的な暴力などなくとも、社会的に、経済的に追い詰めること——それは、現代における、より残酷な復讐の形ではないか?
しかし、その一方で、稔の日記の言葉が蘇る。
『由衣と結婚した…ただ、彼女のそばにいたいだけなのだ』
憎しみと、どこから来るかわからない未練と。甘い蜜と毒が混ざり合った罠に、由衣自身がはまりかけているような気がした。
彼女はパソコンを閉じ、暗い画面に映る自分自身の顔を見つめた。
(あなただよ、由衣。罠を仕掛けるのはあなたなのだ。惑わされてはいけない。)
次の行動は、決まっていた。匿名の情報を流すことなど、容易い。しかし、それによって稔がどれほど傷つくか、それを見届けるために、彼のそばにいなければならない。
それは、復讐者の務めだ——と、彼女は自分に言い聞かけた。
窓の外では、冷たい月が、雲の合間から、静かに彼女を見下ろしていた。
第五章 鏡の檻
匿名の情報を流すという計画は、由衣の胸の中で、冷たく輝く刃となっていた。しかし、それを実行に移す前に、彼女はもう一度、あの書斎の引き出しを確かめずにはいられなかった。稔の日記の言葉——「彼女が誰であっても」——が、あまりにも大きな謎として立ちはだかっている。
機会は週末に訪れた。稔が「急な打ち合わせ」で外出すると告げた。由衣は平静を装って見送り、ドアが閉まるやいなや、書斎へと急いだ。
引き出しの南京錠は、前回より慎重に、しかし素早く開けた。あのノートを取り出す。ページをめくり、最後の記述を確認する。そこには、パーティーの翌日と思しき日付で、新たな言葉が綴られていた。
『彼女はますます美咲に似てくる。あの仕草、あの瞳の奥に潜む強い意志。時折、彼女が見せる鋭い目は、あの日の美咲そのものだ。彼女が由衣であることを願いながら、同時に、美咲の面影を追い求めてしまう自分がいる。これは狂気なのか?』
『高原商事の件、杉野の様子がどこか落ち着かない。何かを懸念しているように見える。もしや…彼女が、何かを嗅ぎつけているのか? いや、ありえない。』
由衣の背筋が凍りついた。まるで、彼女の心の内を見透かされているようだ。彼は、彼女の調査に気づいているのだろうか? それとも、単なる彼の妄想か?
彼女はさらにページを繰った。そして、最も新しい記述を見つけた。それは、ほんの数日前の日付だった。
『由衣が、あの写真を探している。あの、公園のベンチの写真を。なぜ今、彼女がそれを? もしかしたら…彼女は何かを“思い出し”つつあるのか? もしそうなら、これもまた、私への罰の一部なのか? それとも、奇跡なのか?』
(思い出す? 罰? 奇跡?)
由衣の頭は混乱に包まれた。稔の文章は、明らかに由衣=美咲である可能性を匂わせている。しかも、彼はそれを「罰」や「奇跡」という言葉で表現している。単なる罪悪感とは次元の違う、ある種の信仰めいた、歪んだ諦観さえ感じられた。
彼女はノートを戻し、引き出しを閉めた。心臓が激しく鼓動している。彼女の行動は、少なくとも一部は、稔に感づかれている。これは、単なる復讐劇ではない。互いの正体を探り合い、欺き合う、危険な双曲線上のダンスなのだ。
その夜、稔は予定より早く帰宅した。彼の顔には、少し疲れた色が浮かんでいた。
「由衣、夕飯の前にお茶をいれないか? 今日は静かに話がしたい」
由衣は頷き、急須で緑茶をいれた。居間で向かい合って座ると、稔はしばらく湯気の立つ茶碗を見つめていた。
「由衣…俺は、君と結婚して、本当に良かったと思っている」
突然の言葉に、由衣ははっとした。
「そう言ってもらえて、嬉しいです」彼女はうつむいた。
「でもな…」稔の声が沈んだ。「時々、君がとても遠くに感じられることがある。まるで、ガラス越しに君を見ているような気がするんだ」
由衣は息を殺した。これが、稔からの探りなのか、それとも本心なのか。
「そんなこと、ありませんよ。私は、みのるさんのそばにいます」由衣はそう言いながら、自分の言葉の虚しさを感じた。
「そうか」稔はほっとしたように笑ったが、その目は笑っていなかった。「由衣、君は…何か隠し事をしていないか?」
一瞬、空気が張り詰めた。由衣は全身の感覚を研ぎ澄ませた。咄嗟に、最も無難な、しかし真実を包含する答えを選んだ。
「隠し事なんて…でも、誰にだって、言えないことの一つや二つはありますよね」
稔は由衣をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。
「ああ、そうだな。誰にでも、言えないことはある」
彼は茶碗を手に取り、一口お茶をすすった。
「由衣、この前、簪の話をしただろう? 実は、一つ、君に似合いそうなものを見つけたんだ」
そう言って、稔は胸の内ポケットから、細長い桐の小箱を取り出した。蓋を開けると、中には、銀細工の繊細な桜の花があしらわれた、美しい簪が収められていた。それは、前世の美咲が憧れながらも、手に入れることのできなかったものと、そっくりだった。
由衣は言葉を失った。恐怖と懐かしさと、そして怒りが入り混じった感情が、胸の奥から渦巻き上がる。
「どうしたんだい? 気に入らないか?」稔の声には、心配そうな色が浮かんでいる。
「いいえ…とても、綺麗です」由衣は必死に感情を押し殺した。「でも、こんな高価なもの、私には勿体ないです」
「とんでもない。君には、これがよく似合う」稔は立ち上がり、由衣の後ろに回った。「さあ、つけてみよう」
彼の指が、由衣の髪を優しく掬い上げる。その感触は、愛撫のようで、かつての殺意の記憶と重なり、由衣は吐き気を催しそうになった。鏡を見れば、彼が真剣な表情で簪を挿しているのが映っている。それは、完璧な夫の姿だった。
しかし、由衣には見えていた。鏡に映った彼の瞳の奥に、一瞬よぎる、熱くて危険な光芒が。それは、所有欲とも執着ともつかない、濃密な感情の色だった。
「どうだい?」稔が満足げに言った。
鏡の中の由衣は、美しく、そしてどこか悲しげな女だった。彼女は無理やり笑顔を作った。
「とても…似合っています。ありがとうございます」
この贈り物は、愛情の証などでは決してない。これは、檻への飾りつけだ。彼女を「美咲」として、彼の望むイメージの中に閉じ込めようとする、甘く危険な罠なのだ。
彼女は受け取った。この簪を、そして彼の歪んだ愛情を。なぜなら、それこそが、彼を追い詰める最良の武器になりうると、直感したからだ。
彼女は鏡の中の自分を見つめた。そこには、二つの魂を宿した女がいた。一つは復讐を誓う美咲。もう一つは、愛されたいと願う由衣。その二つの顔は、いつしか一つになり、冷たく決意に満ちた表情を作り上げていた。
「みのるさん」由衣は静かに言った。「この簪、次のパーティーでつけて行こうと思います。杉野さんたちにも、見ていただきたいから」
稔の顔に、ほんの一瞬、驚きの色が走った。そして、それはすぐに、深く満足したような微笑みに変わった。
「ああ、ぜひそうしてくれ」
由衣は悟った。この戦いは、もはや逃げ場のない鏡の檻の中で行われるのだと。お互いの嘘と偽りの表情が、鏡のように無限に反射し、絡み合う。そして、どちらが先にその鏡を打ち破るか――あるいは、鏡の中に永遠に閉じ込められるか。
彼女は、静かに茶杯を置いた。次の一手は、もう決まっている。彼女は、この檻を、彼を閉じ込めるためのものに変えてみせる。
第六章 影の舞踏
稔の日記の言葉——「もしや彼も…」——は、由衣の心の中で毒の花を咲かせ、思考を麻痺させた。彼が同じ「経験」をしているのなら、これまでの彼のすべての言動、優しさ、そしてあの「許してください」という言葉さえ、計算尽くされた悪意の可能性があった。
吐き気を催すような戦慄が走る。自分は、最初から舞台に上げられた人形だったのか? 彼は、再生した彼女を、新たな人生で弄ぶために引き寄せたのか?
混乱と恐怖はあったが、それ以上に、沸き上がるのは激しい怒りだった。二度も、同じ男に人生を狂わされるのか? いいえ、違う。今回は、彼女が主導権を握る。
彼女は静かにベッドから起き上がり、鏡の前に行った。鏡に映るのは、平野由衣の顔。しかし、その瞳の奥には、小林美咲の冷たい決意が燃えている。
(あなたも知っているのなら、それもいい。このゲームは、より対等になったということだ。)
翌朝、由衣は驚くほど平静だった。むしろ、これまで以上に「完璧な妻」を演じることができた。稔のコーヒーカップに、彼の好み通りの砂糖とミルクを入れながら、由衣はさりげなく口を開いた。
「みのるさん、今夜のパーティー、楽しみにしています。せっかくいただいた簪、お目にかけますね」
稔は新聞から顔を上げ、柔らかい笑みを浮かべた。しかし、その目は、由衣の一挙手一投足を、微細に観察しているようだった。
「ああ、きっと君が主役だよ」
その言葉が、挑発なのか、本心なのか、由衣にはもう判断できなかった。いや、判断する必要もない。どちらにせよ、彼女は今夜、舞台の上で舞うつもりだ。
夜、由衣は稔から贈られた桜の簪を、結い上げた髪にしっかりと挿した。鏡に映る自分は、どこか冷たく美しい、知らない女のように見えた。それは、彼女が纏う鎧だった。
パーティー会場は、前回とは違う、より格式高いホテルのスイートルームだった。由衣が稔の腕に手を添えて入場するやいなや、場内の視線が集まった。彼女の美しさと、どこか謎めいた雰囲気が、人々を引き寄せたのだ。
そして、すぐに杉野専務が近づいてきた。彼の目は、由衣の簪に一瞬留まり、そして彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「やはり、高崎さん。奥様は毎回お美しいが、今夜の簪はまた格別ですな。何か、由々しい…いや、由縁がありそうな品ですね」
「お褒めいただき、ありがとうございます」由衣は上品に微笑んだ。「夫からの贈り物です。私の…ある思い出に似ていると言って」
そばにいた稔の身体が、ごくわずかに硬直するのを、由衣は感じた。彼女はさらに追い打ちをかける。
「杉野さんは、こういった日本の工芸品に、お詳しいのですか?」
杉野は深い笑みを浮かべた。「多少のことはね。実は、私の亡き母も、よく簪を愛用しておりまして。懐かしい思い出です」
会話は、日本の伝統工芸へと広がった。由衣は、前世で茶道や華道を通じて自然と身についた教養を駆使し、杉野と知的で軽妙な会話を繰り広げた。稔はしばらくは微笑んで聞いていたが、次第に蚊帳の外に置かれたような気まずい空気が漂い始めた。
「すみません、杉野さん。少しばかり、旧交を温めてくる同僚がおりまして」稔はついに口を挟んだ。「由衣、しばらく杉野さんをお願いできるか?」
「ええ、お気遣いなく」由衣は涼やかに笑った。
稔が去り、少し離れた場所で誰かと話し始めると、杉野は声を潜めて言った。
「奥様、お聞きしたいことがあるのですが…」
「何でしょう?」由衣は覚悟を決めた。
「高崎さんとのお取引について、ご存知のことはありませんか? 例えば、書類の…細かい点について」
由衣の心臓が高鳴った。まさに、彼女が仕掛けようとしていた罠の核心だ。彼は、こちらの思惑とは別に、既に稔を疑っている。
(チャンス…!)
しかし、その瞬間、由衣はあることに気づいた。杉野の目は、単なる疑念を超えて、どこか…貪欲な好奇心的な色を帯びている。彼は単に取引の不安を感じているのではなく、何かもっと大きな「弱点」を探っているのではないか?
由衣は一瞬躊躇った。ここで情報を流せば、稔は確かに追い詰められるだろう。しかし、それは同時に、杉野という、より危険な捕食者に彼を引き渡すことになりはしないか? 彼女の復讐は、彼を社会的に破滅させることではあっても、他の誰かの手先になることではなかった。
「申し訳ありません」由衣は悲しげな微笑みを浮かべた。「夫の仕事の詳細は、私は何も存じ上げませんの。ただ、彼がこの取引に、並々ならぬ情熱を注いでいることだけは、よく知っています」
それは、真実だった。稔の日記には、このプロジェクトへの執着が何度も綴られていた。
杉野の目に、一瞬、失望の色が走ったが、すぐに紳士的な笑顔に戻った。
「そうでしたか。失礼いたしました。では、そろそろ…」
杉野が去った後、由衣はほっと息をついた。しかし、安堵はすぐに疑問に変わった。なぜ、彼女はあのチャンスを活かせなかったのか? それは、稔への未練からか? それとも…
パーティーが終わり、帰路のタクシーの中は、重苦しい沈黙に包まれた。稔は窓の外を見つめたまま、一言も発しない。
家に着き、ドアを閉めた瞬間、稔が突然口を開いた。
「由衣」
その声は、これまでにないほど低く、そして冷たく響いた。
由衣はゆっくりと振り向いた。稔の表情は、これまで見せたどんな表情とも違っていた。優しさも疲れもなく、ただ、深く、静かな怒りに満ちている。
「お前は、今夜、杉野に何を話した?」
「先ほどお話した通りです。簪と、工芸品の話だけを」
「嘘をつくな」稔の声は鋭く切り裂くようだった。「お前は、彼に…俺のことを探るようなことは、一言も言わなかったのか?」
由衣は咄嗟に判断した。ここで怯んではいけない。
「なぜ、そんなことを疑われるのですか?」由衣は涙声を装いながらも、鋭く反論した。「私はあなたの妻です。あなたを貶めるような真似が、なぜできると思いますか?」
二人の間で、緊張した空気が火花を散らした。
稔は由衣をじっと見つめ、やがて、嘲笑ともため息ともつかない声を漏らした。
「…妻、か。そうだな、お前は俺の妻だ」
彼は突然、由衣に一歩近づいた。その距離は、あまりにも近すぎた。
「ならば、妻としての務めを果たせ」
稔の手が、由衣の頬に触れた。その感触は、優しさというより、所有を確認するような、冷たい感触だった。
「今夜は、俺の部屋で寝ろ」
由衣の全身の血液が逆流する思いがした。これまで別室で寝るという約束は、もはや通用しないということか? これは、明らかな支配の宣言だ。
彼女は一瞬、拒絶しようとした。しかし、彼の瞳の奥に潜む、危険で狂気じみた光を見て、彼女は悟った。今、逆らえば、今までの彼の仮面は完全に剥がれ、何が起こるかわからない。
(…よかろう。)
由衣はうつむき、かすかに頷いた。
「…わかりました」
その夜、由衣は稔の隣で、一睡もできなかった。彼の寝息が耳元で聞こえ、その体温が伝わってくる。それは、死以上の苦痛だった。
彼女は暗闇を見つめ、心に誓った。
(これが、最後の屈辱だ。私はもう、あなたの罠にはまったりはしない。次の手は、私が打つ。この憎しみを、絶対に晴らして見せる。)
明け方、稔が眠りについた頃、由衣はこっそりとベッドから抜け出した。そして、書斎へ向かい、パソコンの電源を入れた。
彼女は、匿名での情報流出など、子供じみた真似はもう終わりにした。より直接的に、そして確実に、彼を追い詰める方法を選ぶ。
彼女は、稔のパソコン内の、高原商事との取引に関わる重要なファイルを探し始めた。彼がこのプロジェクトにどれだけの執着を見せているか、彼女は知っている。ならば、その核を破壊すればいい。
ファイルを見つけ、それをUSBメモリにコピーする。その手つきは、冷静そのものだった。
月の光が、由衣の横顔を冷たく照らす。彼女の目には、もはや迷いも哀れみもなかった。あるのは、凍りついたような決意だけだ。
舞踏は終わった。これからは、血みどろの戦いの始まりである。
第七章 蜘蛛の糸
USBメモリは、由衣のポケットの中で、冷たい炭の塊のように重たく感じられた。稔の隣で夜を明かした苦悩と屈辱は、この小さな物体を「単なる証拠」から「復讐の起爆剤」へと変えていた。
翌日、稔は早朝に出て行った。いつもより鋭い目つきで、由衣には一言もなく。それでいい。もはや、偽りの安らぎなど必要ない。
彼がいなくなると、由衣はすぐにパソコンを起動した。USBを差し込む指先が、わずかに震えている。中身は、一つにまとめられた「プロジェクト・フェニックス」という名のフォルダだった。稔の会社の命運をかけた、まさに核心とも言うべきプロジェクトの詳細文書の数々。
彼女はファイルを開いた。難解な専門用語の羅列。しかし、じっくり読み解いていくうちに、由衣の顔から血の気が引いていった。
これは、単なるビジネスプロジェクトではなかった。
計画書の随所に、「動機」として、ある人物の言葉が引用されていた。それは、小林美咲が生前、稔に宛てた手紙の断片——「あなたには、もっと大きな世界に羽ばたいてほしい」——だった。稔は、彼女の死を、「自分を奮い立たせるための犠牲」として歪曲し、このプロジェクトの精神的支柱に仕立て上げていた。
さらに、資金調達の項目で、由衣は凍りつくような記述を発見した。プロジェクトの初期投資の一部が、美咲の死亡保険金から賄われていたという、ごく簡素なメモがあったのだ。
(この…悪魔…!)
由衣は吐き気を催した。彼は彼女の命を奪い、その金を元手に、新たな人生を築き、さらには彼女の思い出までもビジネスの道具にしていた。愛でも罪悪感でもない。これは、完全な冒涜だった。
憎しみが、かつてないほどに鮮明に、そして冷たく燃え上がった。これで、彼を社会的に葬り去ることへのためらいは、完全に消え去った。
しかし、どうする? これをすぐに暴露すれば、稔は確実に破滅する。だが、それだけでは足りない。彼に、なぜ自分が罰せられるのか、その意味を骨の髓まで理解させねばならない。
由衣は、ファイルの中にあった杉野専務の個人メールアドレスを記したページを見つめ、考えた。直接会うのは危険すぎる。電話も痕跡が残る。
(そうだ…あの場所で。)
彼女は、図書館のコピーサービスを利用し、ファイルの核心部分——保険金のメモと、美咲の手紙が引用されたページ——を印刷した。そして、前世の美咲と稔が初めてデートした、あの公園のベンチを指定し、杉野に匿名で手紙を送りつけることにした。データではなく、あえて物理的な媒体を。それは、より個人的な、そして脅迫めいたインパクトを与える。
「高崎稔氏の『プロジェクト・フェニックス』の真実について。ご興味があれば、明日午後三時、世田谷区立○○公園の東屋ベンチをご覧ください。関係者」
彼女は、すべてを仕込み、公園の指定されたベンチの下に、封筒を密かに設置した。心臓は高鳴り、背中には冷や汗がにじむ。これが、復讐の蝶となる最初の羽ばたきだ。
翌日、由衣はというと、何事もなかったように家事をこなし、稔への愛らしい妻を演じ続けた。内心は張り裂けそうな緊張だったが、長い偽装生活が彼女に鋼の意志を与えていた。
午後三時過ぎ、彼女の携帯が震えた。差出人不明の短信だった。
『資料、確かに受け取りました。興味深い内容です。お手を煩わせず、こちらから直接、高崎氏に確認を取らせていただきます』
由衣の手が震えた。杉野は、彼女の思惑を超えて、早速に動いた。しかも、「直接確認」とは? これは、由衣の予想した「密かな調査」よりも、はるかに直接的な戦法だ。杉野は、単なる疑念を晴らしたいのではなく、稔を直接追い詰め、屈服させたいのだ。
(そうか…彼は、稔を完全に手中に収めたいのだろう。この情報をネタに…)
由衣の胸に、複雑な感情が渦巻いた。計画は順調だ。いや、順調すぎる。稔は今、杉野という強敵から、直接の詰問を受けているに違いない。
その夜、稔が帰宅した時の様子は、由衣の想像をはるかに超えるものだった。彼の顔は土気色で、スーツはくしゃくしゃ、ネクタイはゆるんでいた。しかし、その目は、落ち込んでいるというより、むしろ…危険なまでに静かに燃えていた。
「…おかえりなさい」由衣は慎ましく声をかけた。
稔は由衣を一瞥もせず、居間のソファに崩れるように座り込んだ。長い沈黙が続いた。
「由衣」やがて、稔が口を開いた。声は嗄れ、しかし、氷のように冷たい。「今日、杉野から、面白い話を聞いた」
由衣は息を殺した。
「どうやら、俺のプロジェクトの…核心部分を記した書類のコピーが、匿名で彼の手に渡ったらしい。しかも、お前と俺が初めて会ったという、あの公園のベンチでな」
由衣は何も言えなかった。稔はゆっくりと立ち上がり、由衣の前に歩み寄った。その影が、由衣を覆う。
「誰が、そんなことをしたと思う?」
由衣はうつむいた。「…わかりません」
「嘘をつけ!」稔の拳が、傍らの小さなテーブルを強打した。由衣は身体を縮こませた。
「お前以外にいるか! お前は…ずっと俺を疑い、探ってきた。書斎の引き出しも、パーティーでの杉野への接近も、全部お前の仕業だ!」
稔の怒声は、しかし、すぐに途切れた。彼は深く息を吸い込み、不気味なほどに平静さを取り戻した。
「…だが、由衣。お前は一つ、大きな間違いを犯している」
稔は由衣の非常に近くに顔を寄せ、囁くように言った。
「あのファイルは、本当の核心など何も書いていない。奴が手にしたのは、俺がわざと流した『おとり』の偽情報だ」
由衣の頭が真っ白になった。
「おとり…?」
「そうだ。内部の裏切り者を炙り出すためのな。そして…」稔の口元が歪んだ。「案の定、一匹の小賢しい蜘蛛が、罠にかかったわけだ」
由衣は全身の力が抜けるのを感じた。彼女の行動は、最初から稔の計算のうちだった? 彼は、彼女がファイルを盗み、杉野に接触することを、最初から予想し、仕向けていたのか?
「お前がそんなことをするとは…やはり、お前の中には、美咲の怨念が巣食っているのだな」
稔の目が、狂気と諦観と、ある種の歪んだ愛情の入り混じった、恐ろしい光を放っている。
「だが、それもいい。お前が美咲の生まれ変わりであろうと、単なる似た者同士であろうと、もうどうでもいい」
彼の手が、由衣の頬を撫でる。その感触は、慈しむようにも、締め上げるようにも感じられた。
「お前は、俺から逃げられない。この糸は、俺が操っている。お前がどれだけ暴れても、それはただ、お前自身を縛り付けるだけだ」
由衣は、眼前の男が、単なる殺人者ですらなく、はるかに深く、病的な存在であることを悟った。彼の復讐は、彼女のそれよりも、はるかに周到で、残酷なものだった。
蜘蛛の糸は、由衣の首元に、冷たく絡みついている。もはや、逃げ場はない。彼女は、自分が仕掛けたはずの罠の、ど真ん中に立たされていた。
第八章 月下の告白
蜘蛛の糸は締め付け、もはや喘ぐことすらままならない。稔の狂気は、監視という名の慈愛に変わり、由衣の生活は完全に彼の管理下に置かれた。スマートフォンは取り上げられ、外出は買い物の際も彼の同行が必須となった。事務所への出社すら、疑いをかけられることを恐れ、由衣自らが控えるようになった。彼女は、華やかな現代の家の中に設けられた、目に見えない檻の囚人となった。
稔は、以前にも増して「優しい」夫を演じ続けた。しかし、その一つ一つの行為——口元まで運ばれる料理、何気ない会話に潜む探り、深夜に見つめられる寝顔——は、全てが支配の確認作業でしかない。由衣は、彼の偽の優しさを、氷のように冷たい心で受け流した。もはや憎しみさえもが、疲労と虚無感に覆われ始めていた。
ただ一つ、由衣の内側でかすかに灯り続けているのは、疑問だった。なぜ、彼はここまでするのか? 単に彼女を閉じ込めておくためだけに、このような芝居が必要なのか?
その答えは、月の満ちたある夜、突然、もっともらしい形で示された。
稔が珍しくワインを開け、ベランダに小さなテーブルを出した。「今夜の月は綺麗だ」と彼は言い、由衣を外に誘った。空気は冷たく、満月の光が庭を青白く照らしている。
しばらく無言でワインを口にしていた稔が、突然、静かに口を開いた。
「由衣…いや、美咲」
由衣の全身の筋肉が一瞬で硬直した。彼は、ついに、あからさまにその名を口にした。
「もう、隠すのはやめにしよう」稔の目は、ワイングラス越しに、虚ろに月明かりを反射させている。「お前が美咲だということは、最初からわかっていた。いや、お前がこの家に来た瞬間から、感じていた」
由衣は何も言えなかった。ただ、冷たいガラスの枡を握りしめる。
「あの日…お前を階段から突き落としたのは、確かに俺だ」
稔の告白は、あまりにもあっけらかんとしていた。由衣の鼓動が早くなる。
「あの時、俺は…本当に、ただのイライラ、どうしようもない怒りに駆られていた。お前のあの慎ましい態度が、かえって俺の惨めさを嘲笑っているように思えた」
彼の言葉は、記憶の中のあの暴力の光景を、生々しく呼び起こした。
「だが、お前が落下するのを見た瞬間、後悔が襲いかかった。それは、怖くなったからじゃない。…お前が消えてしまうことが、耐えられないと思ったからだ」
由衣は理解できなかった。それは矛盾している。
「俺は、お前を愛していたんだ、美咲」稔の声には、熱を帯びた嗚咽が混じる。「だからこそ、お前の全てが俺のものであることを確認したくて、傷つけたくて、壊したくてたまらなかった。あの夜、俺はお前を殺すつもりだった。そして、自分も後を追うつもりだった」
由衣は息を呑んだ。それは、彼の日記の「罰」や「奇跡」という言葉につながる。
「だが…お前は死んだ。そして、俺は生き残った。生き地獄のような日々だった。毎晩、お前の亡霊が俺を責め立てる。そんな時、平野由衣という女性に出会った。お前と瓜二つではないが、魂の芯が同じだと直感した女性に」
稔は由衣を、熱く、そして痛々しい眼差しで見つめる。
「お前が由衣の身体に宿り、俺の元に戻ってきた。これは間違いなく、神…いや、お前自身が与えた罰だ。そして、奇跡だ。俺は、二度目のチャンスをくれたお前に、今度こそ『正しく』愛することを誓った」
「これが…あなたの言う『正しい愛』ですか?」由衣は、震える声でようやく口を開いた。「監視し、縛り、すべてを支配することですか?」
「そうだ!」稔の目が強く輝いた。「前の俺は間違っていた。愛とは、所有することだ。お前の全てを知り、全てを掌握し、二度と俺を裏切らせず、俺から逃げさせないこと。これが、俺なりの、完璧な愛の形だ!」
彼の論理は、完全に歪んでいた。しかし、そこには狂おしいほどの確信が込められていた。
「お前がファイルを盗み、杉野に接触した時、俺は傷ついた。しかし、同時に嬉しかった。お前の中の美咲の強い意志、あの復讐心すらも、俺は愛している。だから、お前をさらに強固に縛る。今回は、絶対に離さない。お前は、美咲であり、由衣だ。お前は、俺の罪と罰であり、そして永遠の妻なのだ」
由衣は、全身の力が抜けるのを感じた。彼女の復讐は、彼の歪んだ愛の物語の中に、やすやすと組み込まれてしまった。彼女の怒りや悲しみさえも、彼にとっては愛でるべき対象でしかない。
これが、彼なりの「月下の告白」なのか。それは、愛の言葉ではなく、永遠の囚人宣告だった。
ふと、由衣の脳裏に、ある記憶がよみがえった。前世、彼女が稔に宛てて書いた手紙の一節。「あなたの愛は、時にもっと優しい嘘をつく。本当の強さは、弱さを見せられることだと、いつか気づいてほしい」
彼女は静かに顔を上げ、満月を仰いだ。月明かりが、彼女の頬を伝う一筋の涙を照らした。それは、悲しみでも悔しさでもない。全てを悟った、静かな決意の涙だった。
「…わかった」由衣は、驚くほど穏やかな声で言った。「あなたの愛が、そういう形なら、それでもいい」
稔の目が、驚きと喜びに輝いた。
「だが、私にも一つだけ、願いを聞いてほしい」由衣は稔をまっすぐ見つめた。「もう、監視はやめてくれないか? あなたの妻として、最後の誇りにかけて。私は、もう逃げたりはしない。あなたが言うように、これは運命なのだから」
稔は深く沈黙した。月明かりが、二人の間に横たわる。
「…約束するか?」やがて、彼が呟いた。
「ええ」由衣は微かに笑った。「あなたを、もう一度愛し直すと。ゆっくりと、時間をかけて」
それは、最大の嘘だった。しかし、それはまた、ある真実を含んでいた。彼を、もう一度、徹底的に見つめ直すと。彼の歪んだ愛の根底にある、本当の「弱さ」を暴くために。
稔はゆっくりと頷いた。「わかった。信じよう。お前を」
その夜、由衣は久しぶりに一人きりで寝室に戻ることを許された。彼女は窓辺に立ち、冷たい月の光を浴びた。
復讐は、もはや彼を破滅させることではない。彼の歪んだ愛の城を、一石ずつ崩し、その中心に潜む、泣く子供のような本来の姿を暴き出すことだ。
月明かりは、彼女に冷たくも優しい光を注ぐ。彼女は、もはや美咲でも由衣でもない。月下で蘇った、ただの復讐者ですらない。彼女は、もっと危険なもの——彼の狂気を癒やすことを装った、最も純粋な破壊者となった。
彼女の戦いは、ようやく、本当の意味で始まったのだ。
第九章 繭裂くとき
「愛し直す」という嘘の契約から一ヶ月。屋敷の空気は、以前とは異なる、より危険で繊細な均衡の上に成り立っていた。稔は約束を守り、露骨な監視を解いた。スマートフォンも返却され、由衣は表面的な自由を取り戻した。しかし、彼の視線は、以前にも増して鋭く、由衣の一挙手一投足を、愛情という名の顕微鏡で分析しているようだった。
由衣は、完璧な妻を演じ続けた。しかし、その演技に、新たな要素を加えた。わずかな「脆さ」を見せることだった。
夕食の準備中、わざとおぼりを落とし、慌てふためくそぶりを見せる。夜、ふと悪夢にうなされたように息を弾ませ、稔が駆け寄ると、彼の胸に顔を埋め、わずかな間だけ涙をにじませる。それは、全て計算の上での「弱さ」の披露だった。彼が最も求め、そして最も恐れるもの——彼だけに許された、依存と信頼のしるし。
稔は最初、疑いの目で見ていた。しかし、由衣の演技は巧みだった。彼女の「脆さ」は、決して大袈裟ではなく、むしろ無意識に零れ落ちるもののように見えた。次第に、稔の硬質な態度に、ほんのりとした安心と、ある種の優越感さえもが滲み始めた。
「もう大丈夫か、由衣?」悪夢から覚めた由衣を抱きながら、稔が囁く。その声には、以前にはなかった、ほんものらしき温かみが含まれている。
「うん…ごめんなさい、みのるさん。また、あの夢を見て…」由衣はわざと曖昧に言う。「あの…高いところから落ちる夢で…」
稔の腕が、一瞬強く固くなるのを感じた。彼の心の奥の、もっとも敏感な傷跡を、そっと撫でるように触れたのだ。
「もう、落ちることはない。俺がしっかりと捕まえているからな」稔の言葉は、保証のように響いた。
(そう…あなたは、私を捕まえているつもりだ。だからこそ、もっと深く、私という闇に足を踏み入れなさい。)
由衣の次の一手は、より直接的に彼の過去を揺さぶるものだった。彼女は、図書館で調べ上げた、稔の少年時代のトラウマ——彼の愛犬が交通事故に遭った日付——を記した、ささやかなメモをこっそりと書斎の机に置いた。彼がそれを見つめ、長時間動かないでいるのを、彼女はドアの隙間から確認した。
彼女は、蜘蛛のように静かに、彼の心の糸を辿り、一つひとつの結び目——弱さの源——を見つけ出していた。
転機は、稔の会社の命運をかけた、高原商事との最終契約締結の前夜に訪れた。稔は、これまでにないほど神経質になり、家の中を落ち着きなく歩き回っていた。
「明日が、全ての決着の日だ」彼は由衣に言い、まるで自分自身に言い聞かせるように。「この契約がまとまれば、俺は…いや、俺たちは、本当の意味で安泰だ」
由衣は穏やかに微笑んだ。「あなたなら、大丈夫です。ずっと頑張ってきたんですから」
その夜、由衣は稔の寝室を訪れた。彼は、書類の最終チェックに疲れ果て、デスクでうつらうつらしていた。
「お休みなさい、みのるさん」由衣は、そっと毛布を彼の肩にかけた。
その時、ふと、稔が握りしめた手帳が、デスクの上に落ちた。パラリと開いたページには、小林美咲の名前と、彼女の命日が、幾重にも丸で囲まれていた。そして、その脇に、無理やりに押し殺したような字で、一つの言葉が書き殴られていた。
『許されるはずがない』
由衣の胸が痛んだ。それは、憎しみでも憐れみでもない、もっと複雑な感情だった。彼は、本当に、この罪の重さに苦しんでいる。しかし、彼の選んだ償い方——彼女という「生贄」を据え、歪んだ愛の城を築くこと——が、さらなる罪を生んでいる。
彼女は静かに手帳を拾い、元の位置に置いた。そして、眠る稔の横顔を見下ろした。月明かりが、彼の額に刻まれた苦悩の皺を浮かび上がらせる。
(みのるさん…あなたの罪は、私を殺したことではない。自分自身から逃げ続け、私という亡霊にすがり、真の償いをしようとしなかったことだ。)
次の朝、由衣は、稔が大切にしているスーツの内ポケットに、一枚の紙切れを忍ばせた。そこには、こう書いてあった。
『どんな結果になっても、あなたはもう、一人じゃない。』
それは、最大の皮肉だった。彼を破滅へと導く可能性のある契約の日に、彼に「安らぎ」を提供するとんちんかんなメッセージ。彼女の優しさは、彼の罪悪感を最大化する、最も鋭い刃となる。
稔は、その紙切れに気づいただろうか。彼は何も言わず、スーツに身を包み、家を出て行った。その背中は、かつてないほどに孤独に見えた。
由衣は、静かに屋敷の窓辺に立った。外は、厚い雲に覆われ、雨の気配がした。彼女の胸の中では、長い間、孵るのを待っていた蛹が、ついに、最後の一突きを加えようとしている。
彼女は、携帯電話を取り出した。画面には、杉野専務の個人番号が表示されている。彼女は、前回とは違う、ある情報——稔が隠蔽していた、プロジェクトのごく小さなリスクデータ——を、匿名で送信する準備を整えていた。それは、契約を致命的に損なうものではないが、稔の「完璧」な計画に、ほころびを生み出すには十分なものだ。
彼女の指が、送信ボタンの上に浮く。
これが、繭を破る最後の一押し。蝶は、美しく舞い上がるか、それとも、嵐の中に消えるか。
彼女は、深く息を吸い込んだ。
(さようなら、みのるさん。そして、さようなら、美咲。)
指先が、静かに、決然と、ボタンを押し下げた。
第十章 月の繭
稔が契約のため高原商事に向かってから、時間は蝋のようにゆっくりと溶けていった。由衣は、これまで以上に冷静だった。やるべきことはすべて終えていた。彼女が杉野に送った小さな火種が、いつ爆発するのか。それを待つだけだった。
午後、空はますます曇り、ついに冷たい雨が降り出した。由衣は、雨滴が窓を伝うのをぼんやりと見つめていた。この雨は、何かを洗い流すのだろうか、それとも、痕跡をより深く沈めていくのだろうか。
突然、携帯電話が鋭く鳴った。画面には、稔の名前ではなかった。佐藤文乃からだ。
「由衣ちゃん! 大変なことになったわ!」文乃の声はパニックに震えている。「契約の席で、高原商事の杉野専務が、高崎さんに突然、契約保留を告げたの! 何やら、我々が把握していないリスクデータが存在する、とかなんとか…高崎さん、顔面蒼白で…その場が大混乱に陥って…」
由衣の唇が、ほのかに結ばれた。火は確かに燃え広がった。
「由衣ちゃん? 聞いている? 大丈夫?」
「…ええ。聞いています」由衣の声は驚くほど平穏だった。「文乃さん、知らせてくれてありがとう。でも、もう、大丈夫です」
電話を切り、由衣は静かに立ち上がった。彼女は、最も好きだったワンピースに着替え、稔から贈られた桜の簪を髪に挿した。鏡に映る自分は、どこか穏やかで、どこか悲しげだった。もはや、美咲の怨念も、由衣の仮面もない。あるのは、全てを見透かしたような、静かな諦観だけだ。
彼女は書斎に行き、硯と墨を用意した。そして、一枚の便箋を取り出すと、筆ペンでゆっくりと書き始めた。
『みのるさんへ』
家の外で、車の激しいブレーキ音がした。ドアが乱暴に開け放たれる音。慌ただしく近づく足音。
由衣は筆を止めず、静かに書き続けた。
書斎のドアが勢いよく開かれた。稔が立っていた。スーツは雨に濡れ、髪は乱れ、息は荒く、その目は完全に狂乱していた。
「お前…お前が…!」彼の声は嗄れ、怒りと絶望で震えている。「杉野に…あのデータを…全て台無しにした!」
由衣はゆっくりと顔を上げ、稔を見た。彼女の目は、雨の湖のように静かだった。
「あなたの『完璧な計画』に、ほんの少しのひびを入れただけよ」由衣は淡々と言った。「それは、私を階段から突き落としたその手で築き上げた、幻想の城だった。あなたは、ずっとその城に、私という亡霊と一緒に閉じこもっていた」
「黙れ!」稔は叫び、由衣の書いている手紙を引き裂こうとした。しかし、由衣の次の言葉で、彼の動きが止まった。
「あなたが本当に恐れているのは、私の復讐じゃない。たぶん…私に見捨てられることでもない。あなたが一番恐れているのは、『許される』ということよ」
稔は、まるで雷に打たれたように立ちすくんだ。
「許されるなんて…ありえない…お前を殺したんだ…!」
「そう。あなたは、私に『許されない』ことを前提に、この歪んだ愛の物語を紡いできた。だから、私が復讐すればするほど、あなたの罪はより確かなものになり、あなたは安心できた。でも…」由衣は、書きかけの手紙をゆっくりと稔に向けた。「もし私が、あなたを許したら?」
手紙には、こう書かれていた。
『あなたを許します。』
たった一言。その言葉が、稔の内側に築き上げてきた全てを、粉々に打ち砕いた。
「うそ…だ…」稔は崩れ落ちるように膝をついた。「そんな…ありえない…お前は…美咲は…恨んでいるはずだ…! 怨み続けるはずだ…! それが…俺の罰だ…!」
「もういいの、みのるさん」由衣の声は、驚くほど優しかった。「あなたの苦しみは、もう十分よ。私の怒りも、悲しみも、全部なくなったわけじゃない。でも、もう、あなたを縛りつけ続けることはしたくない。私自身も、自由になりたいから」
由衣は窓辺に歩み寄り、雨上がりに差し始めた薄日を見上げた。
「あなたの愛は、繭だった。あなた自身を、そして私を、ぎゅっと縛り付ける、月のように冷たい繭。でも、もう、裂く時が来たの」
稔は俯いたまま、嗚咽を漏らした。彼の肩は小刻みに震え、もはやあの狂気の支配者ではなく、打ちのめされた一人の男にすぎなかった。
由衣は振り返り、稔を見下ろした。彼女の目には、一筋の涙が光っていた。
「さようなら、みのるさん。もう二度と、会わないでね」
由衣は、静かに書斎をあとにした。彼女の背中には、もはや未練も怒りもなかった。ただ、長い長い旅路が終わったような、深い疲労と、かすかな安らぎだけが残っている。
彼女は、何も持たずに、あの屋敷をあとにした。雨上がりの街は、洗われたように澄み渡り、どこまでも続く空が広がっていた。
稔は、ぽつりと取り残され、ただ涙を流し続けた。彼を縛り、彼を支えてきた「罰」という名の繭が消え、そこには、自分自身の罪と、これからの孤独とを直視しなければならない、果てしなく虚ろな空間が広がっているだけだった。
月の繭は裂け、蝶は飛び立った。しかし、残された蛹の殻は、ただ、空しく月光に照らされていた。




