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犬と猫が恋をして、来世も一緒にいることを望んでいます

作者: 海坂依里

 私の前世は、猫でした。


「ソラー、ウミー、ご飯よー」


 仲のいい新婚さんの元でお世話になり、とても幸せな毎日を送ることができました。


「今日も仲がいいな」

「ねえ」


 でも、1つだけ嫌なことがありました。


「にゃ! にゃ!」


 それは、猫の私以外にもペットがいたこと。


「わんっ! わんっ!」


 私よりも随分と体が大きくて、茶色い毛並みがとても綺麗な犬。

 彼と暮らしていたことだけは、どうしても忘れることができない傷となった。


「にゃっ……! にゃっ……!」

「わん! わんっ!」


 彼は、猫の私を殴るから。

 大きい体で私と張り合う必要なんてどこにもないのに、彼はいつも小さな私に喧嘩を仕掛けてくる。


「本当に可愛いなぁ」

「動画に残しておこっか」


 人間さんにとっては、猫と犬が戯れているようにしか見えなかったかもしれない。

 でも、私にとっては、いじめだった。

 犬が、猫の私をいじめてくる。


「にゃっ……」

「ソラ? もう食べないの?」


 いじめられるのが嫌になった私は、彼から逃げ出す準備を整える。


「わんっ!」


 でも、彼は私のことを追いかけてくる。

 触らないで。

 触れないで。

 私はウミくんと一緒に暮らすのが、怖くて怖くて仕方がない。




「今までありがとうね、ウミ」


 ある日、私をいじめていたウミくんが天国へと旅立った。

 私たちの生まれた時期は一緒でも、どちらかというと犬の方が先に逝ってしまうとご主人様たちが言っていた。


「にゃ……」


 もう、私をいじめる存在はいなくなった。

 これで美味しいご飯が食べられるはずなのに、私の元気は出てこない。


「ソラ? 食べないと元気出ないよ?」

「病院連れていこうか……」


 私を励まそうとしたご主人様たちは、私の元に新しい犬を連れて来てくれた。


「ソラー、頑張って食べよう?」


 これで、亡くなったウミくんの代わりが埋まる。


「にゃっ……」


 ご主人様たちは、もう泣かなくて済む。

 ご主人様たちを託すことができると安堵した私は、その日ご主人様たちの元から旅立った。




「ウミくん……」

「ん?」


 不思議な夢を見た。


「もうご主人様たちは……大丈夫……だよ……」

「……ありがとう、ソラ」

 

 ウミくんと人間の言葉でお話しするっていう、不思議な夢を。


「…………」


 髪を撫でられる。

 優しい手つきに、心地よい温もり。

 こんなことをされたら、私の涙腺が緩んでしまって大変なことに……。


「っ」


 猫は悲しくて泣くんじゃない。

 猫は、嬉しくて泣くんじゃない。

 猫が泣くときは、なんらかしらの病気を患っているとき。


「ここはどこ!?」


 自分は病気で亡くなったのではなく、食べられなくなったことが原因の衰弱死だったことを思い出す。


「ここは亡くなった動物たちが集まる学校」


 私の問いかけに応えてくれている《《人》》に目を向ける。


「しばらく人間としての生活を学んだあと」


 彼の綺麗な茶色の髪色には見覚えがある。


「人間に生まれ変わるか、また動物の人生を送るか決めるっていう設定の学校で……」


 寝心地の良かったベッドから体を起こし、自分の身に何が起きているのかを確かめる。


「って、そんなにすぐ体を起こすと……」


 生前ご主人様と一緒に、綺麗な女の人が綺麗な洋服を着ている雑誌を眺めたことがある。

 その雑誌に載っていた女の人たちのような、猫の私でも憧れてしまうくらいの艶やかな髪が視界に映る。


「まだ人間の体に馴染んでないだろうから、初日は無理するなって」


 名前も知らない彼は、私に再び横になるよう促してくる。

 横になる際、ベッドに手をつくと自分にはご主人様たちと同じ指が備わっていることに気づいた。


「あの……」


 彼は体を休めるように言ってくれるけど、私はそれを拒んだ。


「ソラ……?」


 言葉にしたいことがあるのに、それは声になってくれない。


「やっぱ、まだ体調が悪い……」


 でも、言いたい。

 でも、自分の声で、彼の名前を呼んでみたい。


「ウミ、くん……?」

 

 人の身体を得ると、自分の声はこんな感じなんだと初めて知る。

 すべてが初めて。

 すべてが初めての体験のはずなのに、私の傍にいる彼は初めて会う人ではないって思考が訴えかけてくる。


「ウミくん……ですか……?」


 そんな風に私が問いかけると、初めましてのようで初めましてではない彼は、とても爽やかで眩しいくらいの笑顔を私に向けてくれた。


「痛い……」

「は? ソラ!?」

「心臓の近くが、痛い……」


 心臓のあたりが痛くて困っているのに、私が零した言葉を受けた人間バージョンのウミくんは柔らかい笑みを浮かべて私の心臓を再び攻撃した。


「何それ、何それ、なんなの! その運命的な再会はっ!」


 元インコのムギちゃんと友達になった私は、学生食堂という場所でご飯を食べている。

 でも、私は、ご飯を喉に通すことができなくて困っていた。

 人間だって猫だって、生きていくためには食べなければいけないって分かっているのにお腹がいっぱいで箸が進まない。


「だって、動物って平均寿命が違うから! 同じ時代を生きた動物同士が巡り合う確率って、限りなく低いんだよ!?」


 猫と犬の寿命が重なってしまったのは、私がウミくんを追いかけるように亡くなってしまったからです。

 そんな馬鹿正直に前世のことを語ることもできなかった私は、久しぶりの食事を堪能しようと試みる。


「ソラのこと、借りてもいい?」


 体を休めていた保健室から、猛ダッシュでウミくんの元から逃げ去った私。

 彼は犬時代のときのように、新しい人生が始まっても私のことを追いかけてくるつもりらしい。


「私はムギちゃんとご飯を……」

「どうぞ、どうぞ」


 友達になってくれたはずのムギちゃんは別の輪に加わってしまい、私はウミくんにまるで供物のように差し出されてしまう。


「ウミくん! ひど……」

「文句なら、いくらでも聞くから」


 無理矢理、食堂から連れ出される。

 そのとき、多くの女生徒たちがウミくんに視線を注いでいたことに私は気づいてしまった。


(また、心臓が痛い……)


 ここに座って待っててと言われ、私は中庭のベンチに置き去りにされた。

 太陽の光を浴びることができる造りの校舎に感動すると、少し心臓の痛みが治まってきたような気がする。


「これなら食べやすいと思う」


 ご主人様と、ウミくんと。

 日向ぼっこをしたことがあるなーなんて昔を懐かしんでいると、私を置き去りにしたウミくんが戻ってきた。


「昔っから、食が細すぎ」

「違うよ!」

「食べるのが好きじゃないのかと思ってた」

「あれはウミくんが私をいじめ……美味しい」


 生前のウミくんへの文句をぶちまけるはずが、ウミくんが私のために用意してくれたお粥の美味しさに感動して言いたかったことすべてが飲み込まれてしまった。


「良かった」


 良かったっていう、たった4文字の言葉。

 その言葉を向けるときも、ウミくんは優しい笑みを浮かべて私を見守ってくれる。


「……ありがとう、ウミくん」


 食堂にいたときは、単に緊張していたのかもしれない。

 人間として、初めて食事をするって行為に戸惑っていたのかもしれない。

 だから、食べることができなかった。


「お粥、美味しい……ね」


 ウミくんがいなくなったあと、どうして食べられなくなったのか思い出そうとすると胸が苦しくなる。

 けれど、隣にウミくんがいてくれるだけで、食べることができなかった自分が嘘みたいに変わっていく。


「……ずっと心配してた」

「心配?」

「俺が亡くなったあと、ちゃんと食べれているかなって」

「ご主人様たちなら、少しずつ食べる量が増えた……」


 頭を撫でられる。


「ご主人たちのことも心配だったけど、俺が特に心配していたのはソラのこと」


 人の、手の温もりを思い出す。

 私が猫だったとき、ご主人様たちが私を撫でてくれたときの温もりを思い出す。


「ちゃんと食べてほしかったのに、食事中にいなくなることが多かったから……」


 そして、人として生きるウミくんの体温を感じる。

 ウミくんの手が、こんなにも温かいものだってことを初めて知る。


「あれは……」

「ん?」


 ウミくんが、私の頭を撫でてくれる。

 私の頭を撫でてくれているのがウミくんだと実感すると、なんとなく自分の体温が上がったような気がした。その、上がった熱に自分が侵されていくのが分かる。


「あれは、ウミくんがいじめるから……」

「…………ん? いじめ?」

「私のこと、殴ったでしょ?」

「……一切、記憶にないんだけど」


 大きな犬の体で、猫の私を叩いてきたこと。

 大きな犬の体で、猫の私を押し倒してきたこと。

 全部、全部が嫌だったってことを私は人間の言葉を自分の声を使って伝えた。


「あー……」

「ほら、思い出したでしょ?」


 ウミくんは右手で自分の顔を覆ってしまって、私はウミくんの表情が確認できなくなってしまった。


「あれは……」

「あれは?」


 やっと見えてきたウミくんの瞳だけど、ウミくんは瞳をさ迷わせて私の方を見てくれない。

 さっきまで私を見守ってくれていたウミくんが、いなくなってしまった。

 渦巻く寂しさをなんとかしようとした私は手を伸ばして、人として生きるウミくんに触れてみようと思った。けれど、私がウミくんに触れるよりも早く……。


「ソラを抱き締めたかったんだよ……」


 ウミくんが、言葉をくれた。


「……抱き締める?」

「ソラのことを、抱き締めたかった」


 でも、その言葉は私の心臓に止めを刺すには十分の攻撃力を秘めていた。


「殴ったんじゃなくて、撫でたかったんだよ……」


 零れていくウミくんの言葉。


「ご主人たちがやってた愛情表現……俺もソラに対してやりたいと思って……」


 その言葉の数々を拾わなきゃいけないって思うのに、心臓のあたりがずきずきする。


「ソラに触れたかった! ソラが好きだから! 犬が猫に恋をして何が悪い……」

「ウミくん……」

「ソラ?」


 ごめんね、ウミくん。

 人間の私は病弱って設定を授かったのかもしれない。


「痛い……」

「え? ソラ!?」

「心臓の近くが、痛い……」


 心臓の近くが痛いって言っているのに、ソラくんは嬉しそうに笑うだけ。

 でも、ソラくんが笑ってくれると、自分の涙腺がざわついてくる。

 泣きたいって気持ちに駆られているのに、そこに幸せを感じるのはどうしてですか。


「ソラ」

「ウミくん、助け……」

「好きだよ、ソラ」


 幸せなのに、心臓が痛い。

 そう、ウミくんに訴えた。

 そうしたら……。


「幸せだから、心臓が痛いんだよ」


 って、返された。


「結論から言って、人間に生まれ変わることはできる」


 ここは、前世で人間を幸せにした動物たちが集う場所。

 飼い主でなくても構わない。

 誰か1人でいいから、人間に幸せな気持ちを与えることができた動物たちが集う場所。


「でも、再び巡り合えるかどうかは2人次第」


 そして、次の人生は動物としていきたいか。人として生きたいか。

 人間の生活を体験しながら、次の人生を選択できる場所。


「でも、進学とか就職とか……」

「もちろんウミの言う通り、人間の可能性は無限だ」

「進学や就職をきっかけにソラと会うことができれば、十数年くらい……」

「《《その十数年》》が辛いと思う」


 私たちの担任の先生は困った表情を浮かべているけれど、親身になって話を聞いてくれた。


「もちろん、猫と犬だったときの記憶は引き継がれない」


 頼もしい担任の先生に巡り合えたことに心強さを感じるけれど、突きつけられる現実はとても厳しい。


「記憶がないなら、辛いって感情自体生まれないって思うかもしれないけど」


 稀に前世の記憶を持って産まれてくる人間もいるみたいだけど、それは担任の先生たちですら仕組みが分からないらしい。


「身体のどこかしらは訴えかけてくる」


 その、仕組みが分からないところが悔しい。


「あ、今の人生には何かが足りないんだって」


 でも、誰にでも前世の記憶を引き継ぐチャンスがあるのかなって希望を持つこともできた。


「…………先生」

「ソラ?」

「成仏は少し待って、今を……ウミくんと一緒にいられる時間を大切にしてもいいですか?」


 希望を持つと、不安が生まれるってことを知った。


「何十年も居座られたら問題だけど、ここの時間軸で数年くらいなら」


 でも、この不安が希望に繋がるんじゃないかって予感も止まらない。

 人間の心は、猫のときと少し違う。

 人間も猫も心を持っていたけど、猫のとき以上に私は自分の心が広がっていくのを感じる。


「ゆっくりしていきな」


 ただ、別れるときは辛くなるかもしれないけど。

 担任の先生の言葉を受け止めた私たちは、2人で一緒に教室を出た。

 教室を出ると、ウミくんはそっと手を繋いでくれた。


「ほかに人がいる……」

「ずっとソラに触れたかったから、これくらい許して」

「もう……」


 私も、ウミくんと手を繋ぎたかったよ。

 さっきまで担任の先生には素直な気持ちを伝えることができたのに、ウミくんには恥ずかしさのあまり大切な言葉をしまい込んでしまった。


「ソラは何か部活入らない?」

「人間に生まれ変わったときの楽しみにとっておこうかなって」


 できれば、ウミくんと同じ学校に通いたい。

 できれば、ウミくんと同じクラスがいい。

 できれば、ウミくんが部活をやっている姿を目に焼きつけたい。

 できれば、できれば、が多すぎる。

 でも、それは多分、ウミくんも同じだって信じたい。


「ウミくん」

「どうした?」

「……指、絡めてみたい」


 ウミくんは何も言わず、私が望む通りに手を繋ぎながら指を絡めてくれた。


「ウミくんの体温、こっちの方が感じられる気がする」

「俺も、ソラが近い感じがする」


 もっと、もっと早く、自分の中にあった感情に気づきたかった。

 それこそ、猫だった頃から気づきたかった。

 私は犬にいじめられていたんじゃなくて、ウミくんに愛されていたんだって気づきたかった。


「ウミくん、あのね」


 食欲を失って衰弱死してしまったのは、ウミくんがいなくなったからだよって。

 大切なひとがいなくなって、私は寂しかったんだよって。

 過去の私に会うことができたら、真っ先に私はそう伝えたい。

 

「大好き」


 伝えていない感情が、たくさんある。

 伝えきれていない気持ちが、たくさんある。

 だから、もう少しだけ時間をください。


「俺の方が、重苦しいほどソラのことが好きだから」

「私も好きだよ!」

「つい最近まで、好きって感情自覚してなかったのに?」


 言葉に詰まる。

 猫の頃にも、好きという感情はあったはずなのに。

 好きを嫌いと勘違いしていた自分が恥ずかしい。


「自覚したよ! ウミくんのことが好きだって気づいた……」


 唇に、柔らかな熱が降りてくる。


「……ふっ、瞬き多すぎ」


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、私の視界はウミくんで埋め尽くされた。


「ウミくん……」

「ごめん、無理矢理口づけて……」

「嬉しい……」


 なんで……?

 なんでウミくんといると、幸せなのに泣きたくなるの……?


「もっと、もっと、ウミくんと幸せを共有したい」


 人間さんは、こんなにも複雑な感情を持って生きていたんですね。


「私、もっとウミくんと一緒に……」


 でも、この複雑な感情すべて、愛しくて仕方がない。


「俺も、ソラと一緒にいたい」


 夕陽が鮮やかに差し込んでくる廊下で、ウミくんに初めて抱き締められた。

 人は抱き締め合うと、相手の熱を強く感じられるのだと初めて知る。


「ソラに触れたい」


 今日初めて聞いた、人として生きるソラくんの声。


「ソラに触りたい」


 初めて聞いたはずなのに、初めてのように思えない愛しさが込み上げてくるのは、私たちが前世で一緒に日々を歩んだからかもしれない。


「ソラのことを、深く愛したい」


 どうか、来世もソラくんと一緒にいさせてください。


「私もソラくんを愛したい」


 神様に届くかも分からない願いごとが生まれた瞬間、廊下を行き交う生徒たちから温かい拍手が送られた。


「あ……」

「ここ……廊下だったね……」


 2人で笑みを浮かべた瞬間が重なって、私の心臓は再び音を高鳴らせる。




◆【ウミ視点】

「ソラー、ウミー、ご飯だよ」


 犬と猫は、恋仲になることができない。

 恋心を抱くことはできるけれど、ご主人様たちのように愛を深めることはできない。


「あ、ソラっ!」


 逃げるソラを追いかけて、ちゃんとご飯を食べるように声をかけにいく。

 でも、鳴き声は、言葉ではない。

 ご飯を食べようと声をかけたつもりでも、ソラにとっては犬の怒声にしか思えなかったらしい。

 

「ほら、ソラ、一緒に食べよう」

「にゃぁ……」


 可愛いと思って、猫のソラに触れていた。

 でも、それはソラにとって暴力と大差ないものだと知った。


「ウミがいてくれると、ソラもちゃんと食べてくれるんだよ」

「わんっ!」

「ありがとう、ウミ」


 ご主人の言葉を信じて疑わなかった。

 自分は犬だけど、猫のソラのことが好き。

 自分は犬だけど、ソラのためになることができているって。

 そんな自惚れが、ソラのことを傷つけていた。

 人の身体を得て、人の言葉を話せるようになって、ソラと意思疎通ができるようになって、ソラの気持ちを初めて知った。


「1泊2日の合宿、お疲れ様」


 今度は、今度こそは、今だけは。

 ソラの幸せになることをしたい。


「この、人間の仮体験期間で得た知識とか経験とか」


 ソラを幸せにしたいって思うのに、身体はソラを求めてしまうとか。

 人間に備わっているはずの理性が自分には足りていないことに愕然としてしまう。


「そういったものは、次に生まれ変わるときにほんの少し。ほんの少しだけ役に立つから」


 仮体験期間で得た知識とか経験。

 ソラを傷つけた記憶だけは、ずっと持っていたい。


「だから、生まれ変わったあとも自信を持って」


 ソラを幸せにするのは、自分じゃなくなるかもしれない。

 多分、生まれ変わったあとに、ソラを幸せにするのは自分じゃない。


「動物に生まれ変わるひとも、人間に生まれ変わるひとも、頑張って」


 次の人生で、ソラを幸せにするのが自分だなんて。

 世界が、そんな都合よくできているわけがない。


「動物だったときに、誰かを幸せにすることができた君たちなら絶対に大丈夫」


 でも。

 いや、だからこそ、かな。

 次に生まれ変わったとき、ソラと再会することができたら、ソラがちゃんと笑っているかどうかを確かめにいきたい。


「ウミー、いる?」


 学校の校舎を使っての泊まり込みの合宿が終わったと同時くらいに、担任が研修室に顔を覗かせた。


「先生?」

「ソラがまだ学校に来てないみたいだけど、何か聞いてる?」


 教室に戻って、早くソラの顔が見たい。

 そう思っていたけれど、担任はソラの不在を知らせてくる。

 

「別に学校に来なくても支障はないんだけど、何かあったなら様子を見に……」

「早退します!」


 ここは、人間が生きる世界じゃない。

 だから、ソラに万が一のことが起きるわけないと分かっている。

 それでも一刻も早く、ソラの安否を確認したい。

 亡くなる直前も、今のソラと別れたときも、最後に見たソラの顔は笑っていなかったなんて後悔してもしきれない。


「ソラ!」


 マンションの管理人に事情を説明して鍵を借りなきゃいけないところとか、変なところが現実っぽくて嫌になる。


「ん……」

「ソラ!」


 ソラが住んでいるマンションの造りが、自分の住んでいる部屋とそっくりなことに驚いた。自分とソラは、間違いなく同じご主人の元で育てられたのだと自覚する。


「ウミ、くん……?」

「ソラ、しっかり!」


 寝ぼけまなこのソラだったけれど、ゆっくりと瞼が上がって、ぱっちりとした瞳で俺を視界に入れてくれる。

 俺はソラに無視されて当然のことをしてきたのに、ソラは俺のことを受け入れてくれて、その現実に目頭が熱くなる。


「……学校!」

「どこか具合が悪いなら、病院って場所があるから……」

「学校に行かないと」

「ソラ」


 慌てるソラをなだめるために、彼女を自分の腕の中に閉じ込める。

 抱き締めることでしか愛情表現ができない自分に笑いが零れそうにもなるけれど、これしかソラに自分を知ってもらう術を知らない。


「大丈夫?」

「え……」


 今度は、ソラを壊してしまわないように。

 今度こそは、ソラの心を守るように。

 ソラを優しく抱き締める。


「身体、苦しいとか、痛いとか、辛いとか」

「ないよ……?」

「本当?」

「本当」


 ソラの言葉と、ソラの声を信じて、ソラを自分の腕の中から解放する。

 ソラは元々白猫ってことが影響しているのか、ほかのひとよりも肌が白いような気がする。


「顔色が悪いような気もするけど……」

「あ……昨日のお昼から、何も食べていなくて……」


 猫のときから食が細いような気がしていたけれど、人の身体を得てからのソラはだいぶ食べるようになった。にこにこと笑顔を浮かべながら食事を摂る姿が可愛らしくて、あ、ソラが喜んでくれることができているんだなって嬉しくなった。


「今、何か作るから」


 それなのに、ソラはほぼ1日何も食べていない。

 ソラの体が弱まってしまわないように、俺はソラのためにできることをやろうと思った。


「あのね、ウミく……」

「もう泣かなくても大丈夫だから」


 泣き疲れてしまったのか、ソラの顔には涙の跡があった。

 猫の頃も、人の身体を得たあとも、結局自分はソラを泣かせることしかできない。

 自惚れやの自分から卒業しなければいけないって気づいたのに、やっぱり俺はダメな犬でしかないのかもしれない。


「ウミくん!」


 キッチンに向かおうとすると、ソラに腕を引かれてバランスを崩す。

 

「一緒に食べたい! 一緒にご飯、作りたい!」


 ソラに膝枕するような態勢が恥ずかしくて、せっかく向けてくれたソラの瞳から逃げてしまった。でも、ソラは……。


「ちゃんと、食べられるようになりたい」


 逃げる俺を、しっかりと追いかけてきてくれた。


「みんなみたいに、丈夫な体になりたい」


 俺の瞳にソラが映るように、ソラの瞳に俺が映るように。


「しっかり食べられるように、見守ってください」


 ソラが、俺の顔を覗き込んでくる。


「ウミくん」


 そんなに綺麗な声で、俺のことを呼ぶ必要ないのに。

 大嫌いだった、君を傷つけた俺なんて、無視してくれて構わないのに。

 

「ウミくん……?」

「嬉しくて……」

「ウミく……」

「ソラが、俺の名前を呼んでくれるのが嬉しくて……」


 涙が溢れる。

 止めようと思ってるのに、涙の止め方が分からない。


「ずっと、刷り込み……かなって思ってた」

「すりこみ……?」


 ソラの指が、溢れる涙を拭う。


「俺が《《好き》》って感情を押しつけて、ソラが俺に抱いている感情を恋愛感情だって覚え込ませて……」


 ソラの涙を拭ってあげたいと思っていたはずなのに、俺はソラの涙を拭う側になることはできなかった。


「本当はソラ……」


 ソラだって泣いていたはずなのに、ソラが泣いていたときに傍にいることができなかった。


「ソラは俺のことが嫌いなのに、俺がソラを好きって気持ちを刷り込んで刷り込んで……」


 そんな俺に、ソラは優しさをくれる。


「ソラが抱いている嫌悪感を《《好き》》だって勘違いさせているんじゃないかって……」

「……私ね」


 唇に、ソラの唇が落とされる。


「犬のソラくんが亡くなったあと、ご飯を食べられなくなったの」


 口づけられたのは一瞬。


「猫の私をいじめるひとがいなくなって、思う存分ご飯を食べられるはずなのに」


 でも、ソラがくれた初めては、言葉を塞ぐには十分な行為だった。


「まったく食べられなかったの」


 ソラは過去の自分が苦しかったときのことを、まるで物語を語るかのように優しい声で話してくれる。


「私の死因、衰弱死だったの」


 食べることができなかったソラと、ご主人たちに申し訳なさそうな顔を見せる猫のソラを想像することしかできない。

 自分は先に旅立ってしまったから、どう頑張ったってソラの苦しみを知ることができない。


「あのときは、どうしてご飯が食べられなかったのか分からなかったけど」


 犬と猫の寿命が違うとは言っても、どうしてソラより先に亡くなってしまったんだろうって悔しい。

 ソラがちゃんと食べられるように、最後の最期まで見守ってあげたかった。

 過去の後悔をなんて、人の身体を得ても、犬として生きても、どうすることもできないけれど。

 それでも、苦しんでいるソラの傍にいてあげたかった。


「今なら、その理由が分かったよ」


 止まったはずの涙が視界に映り込んできて、ソラの表情を曇らせていく。


「ウミくんが、いなくなったから」


 名前を呼ばれる。


「ウミくんがいなくなったことが寂しくて、寂しくて」


 名前を、呼んでくれる。


「ご飯を食べられないくらい寂しくて、衰弱して、死んでしまうほど」


 ご主人に名前を呼んでもらったときも、もちろん嬉しかった。

 でも、好きなひとに名前を呼んでもらえるのは、もっと特別だって気づいた。

 言葉が通じ合わなかったときには感じられなかった幸福が襲いかかる。


「私は猫のときから、ウミくんのことが好きだったんだよ」


 堪えていた涙を拭ってくれたのは、ずっと想いを寄せていたソラだった。

 柔らかい笑みを浮かべながら、俺のことを受け入れてくれる。

 そんな日が来ることを、ずっとずっと願ってきた。






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