何気ない日常へ
酷く腐った臭いも、また、いつものように嗅ぐのなら日常に変わる。
草木の生い茂る山奥にぽつんと僕の家はあった。
父も母もなんの仕事をしているんだかよく分からないが、よく生活ができているものだ。こんな山奥で生活ができるのは、ひとより生命力があるからだろう。
今日もまた山へ山菜採りに。夏というのに全然熱くないこの森、顔まわりを飛ぶ蚊がうるさいので手も首もぶんぶんと振る。上半身や下半身は大して気にならないのだが顔に跡が残ると親が嫌な顔をするので顔にだけは虫除けをしている。周囲に山菜がなくなったので僕はよっこいしょと立ち上がると山の奥の方へと足を進めた。山が奥まってくると、まるでそこが隠されているかのように木は高く太くなり、葉が生い茂る。
歩きづらさを感じながらも足元を見ながら一歩一歩歩いていると、案外山菜が生えている。いちいちしゃがむのも面倒臭いが、しゃがみながら移動するといちいち背の高い雑草が顔に当たるのでしょうがなく、歩きやすくなるように踏み倒しながら進んだ。
そうやって何時間経っただろうか、足元ばかり見て歩いていたのでいつの間にか山はさらに奥まっていた。
「なんだあれ。」
そうして、つい独り言を呟くぐらい奇妙な光景を見た。
そこにはお寺があった。
いや、お寺ではない、小屋だろうか。
まるでそこだけが手入りされているかのように不思議と草が生えていない、そんな神聖な光景なのだが一つ違和感があった。嗅いだことのない異臭がその小屋の奥からつんと臭ってくるのだ。ここは何か近寄っちゃだめだ。本能はそう言うのだが完全に脳はその魅力に囚われていた。後ろへと下がろうとする体に逆らって一歩一歩と前へと進む。
その木造の小屋は人が住んでいるような様子はなかった。扉は壊れ、その開かれた部屋の内側から異臭が漏れているようだ。
耳元に飛んでいる蚊を気に留めずそっと首だけを出して中を覗く。暗い室内の壁は、恐ろしいほどにカビで黒くなっていて、部屋の中の恐ろしい異臭の正体は床に転々と転がる鴉の死体だった。
あまりに嫌な光景に僕は顔をしかめながらも他に何かないかと周りを見た。壁と天井、床の6面は黒いだけ。そして床には鴉の死体が転がっているだけで他には何もない。この異様な小屋に僕はやっと恐怖を感じて飛び上がるように家へと走った。
さっきまで神聖に見えた傘のない地面も明らか気持ち悪いものになったし、外から見ると綺麗な茶色の小屋も変色したかのようにどす黒く見えた。
まるで呪われたかのように思えて、早く早くと草の踏まれた道をたたたっと走った。何から逃げているんだかよくは分からないがただ必死に走ると、驚くべきことにちゃんと家へと着いた。
すっかり陽の落ちた暗い森の中は深い闇のように僕をまた誘い僕はそれから逃げるように家へと入った。
その夜、僕は眠れなかった。
今日の光景はあまりに刺激的すぎた。僕は15歳にもなっていないちびっ子だったし、教育を受けているわけでもなかったので、果たしてその光景がどんなものから来ているのかは分からなかったし、その謎めいた空気を僕ははぁっと吐いた。今日見た光景を気にすることはないと言い聞かせ僕はゆっくりと目を瞑った。
今日もまたやることなどなく、暇を潰すように山菜採りへと向かった。まあそんなのは建前で、おそらくその光景にまた興味があったのだろう。
虫除けをまた顔だけして踏み潰された草の上をまた踏み潰すように歩いた。もう少しで小屋に着く、珍しく地を歩く鴉2匹を観察しながら歩いているとまた小屋に着いた。昨日から特に変わりばえのない光景だが、そこで僕は、今日僕は何をしに来たのだろうと不思議に思った。
確かに家にいようが別にやる事はないのだがそれこそここに来てやることもない。僕は何しに来たのだろう。不思議に思いながらもそっと草のない地面に座る。ここには森の冷たさはあまりなくて開けた天井からは光が入ってくる。小屋の近くの、それも野外で寝転がると言うのは普段だったらかなり抵抗があるようなことなのだが不思議と何か重力に負けて空を見上げていた。温かくて、気持ちいいな。何か懐かしい温かさが僕を包んで、僕はそれに身を預けて、
いつの間にか。
眠りについていた。
あれからどれほど時間が経っただろう。
外はもうすっかり暗くなっていた。大きな欠伸をしながら立ち上がると、小屋が明るく光っていた。
何だろう、電気だろうか。いや、確かに天井には電気はなかった。いや天井には、か。
もしかしたらあの鴉の死体の下電気はあったのかもしれない。やってしまった。僕は目を閉じて逃げるようにして山を下った。あそこには確かに誰か、誰かがいる。そうなると僕は、近づく訳にいかない。
「この山、涼しいですね〜。」
普段探偵の僕は今日、任務を与えられ、除霊師とやらの婆さんと共にある山に来ていた。
この山は手がつけられていない山だが少し前まで山奥に一家が住んでいた。
ぽつんと家が立っている山の奥、それだけで気味の悪い話だが、それもそこで何らかの事件があって一家が死んだと言う話なのでより増して気味が悪い。
夏の避暑地と考えれば開発されてもいいような丁度の良い標高だし、今回の事件の解決を通して、政府側は土地開発を狙っているのだろう。
「とりあえず家を見てみましょうか。」
本当にこの婆さんは何も話さない。給料が高いとはいえあまり面白くない仕事なので少し嫌気がさしてきた。
家の中に入ると玄関はかなり広くて、中に入るとすぐに洗面所、その奥にユニットバスが見えた。奥へ入っていくとリビングがあってキッチンも広く、不思議と綺麗なままだった。ここの一家の死体は未だ見つかっていない。ここのどこかにあると考えると恐ろしいが今回の滞在は別にそれを目的としていない。
これまでの大規模捜索で見つからなかった死体を、僕たちがさらっと見つけられる訳はないのだ。ただ、事件に霊は関係するのか、警察以外の新たな視点から何か感じられるものはあるのかと言う、酷く抽象的なことを目的とした捜索なのである。別に期待なんてされてないだろうしな、給料が高くつくからやってるだけだしな。また僕ははあっとため息をつく。
この仕事を始めて十数年経ったが、かつて胸を躍らせていたような、夢見ていたような現実はなく、残ったのはもう随分と剃っていない髭と、三十過ぎの老い始めたからだと今だに燃え尽きない夢見る心だけだ。僕はまた大きく溜息をはいて、何となく大きく息を吸う。ここの空気はなかなかに嫌な匂いがする。確かに綺麗な家なのだが森の奥だからか妙に臭う。
3人の家にしては広い。
二階はないし、外から見るとそうは見えないが豪邸のような造りをしている。その奇妙な姿は美しいと言うより儚く、まるでそこにいれば消えてしまうような恐ろしさがあった。
中に居るうちその雰囲気を感じ始め、何故か鳥肌が立ってきた。
婆さんも表情を険しくしており、少しずつ空間に緊張が走っていた。
「少年、地下に部屋があるようだよ。」
婆さんが始めて口を開けしわがれ声を上げた。
家の奥の方、婆さんの目線の先に下に降りる階段を見つけた。
異臭の源はここか。階段につながる隠しドアを婆さんが開けたのだろう。そこに閉じ込められていた腐った空気が一気に外に出てきて家の中にすぐに充満したようで、息がしづらくなる。
「下はどうなってますか?」
婆さんは低い声で唸る。
「おそらく死体があるわけではないと思うがね、警察がここを見つけられなかったと言うのはおかしな話だから。」
確かに、軽い仕掛けだったようだし警察が見つけてないという事はないだろう、とすればこの下には少なくとも死体はないはずだ。
大した期待はできないが湧き上がる好奇心をそのままに、階段を降りる婆さんについていく。
腐った空気を吸い、吐くたびに心がどくどくと脈打つ。そっと胸に手を置いてまた息をする。
かなり長い階段を一段一段とゆっくりと歩いていった。
「こりゃ参ったな。」
前を歩く婆さんが独り言のようにしわがれ声を上げた。何かあったのか。
より脈打つ胸を抑えて地下室に首をのぞかせると、そこには黒い生物が3匹重なるように死んでいた。鴉。
あまりにその異様な光景に一つ息を呑む。
「これは。」
婆さんに話しかけるように、いや、つい声が漏れる。
「嫌な空気がするね。それでここは警察は見ていないと言う事なんだろうね。」
確かに警察がこの惨状を放置するとは思えない。腐った空気はこの鴉から発されていて、そしてあの隠し扉はかなりしっかりとしたものなのだろう。
まるでこの鴉がいることは必然のような隠し扉だ。明らかに何かを隠すために作られている部屋、いや何故この家にこの部屋が必要だったのか。鴉の死体のために作った部屋だろうか。
探偵の血はふつふつと騒ぎ出し胸はリズムを刻む。
僕はこの事件のためにここまで生きてきたのかもしれない。この不可解な現象を突き止める必要がある。
「何故一家は地下室を作ったのでしょう、それと。この鴉の死骸は。」
婆さんは瞼を閉じて額に皺を寄せながら口を開いた。
「常人の発想ではないね。多分、元々おかしな一家だったんだろうよ。鍵もなかったしね。」
確かに、捜索の際この家は鍵がなかったことが明らかになった。あまりにその不思議な家に、警察は当時から気味悪がり、あまり捜索をしてこなかったそうなのだ。
「狂った感覚を持っていたのでしょうか。でもいくらなんでも鴉はよく分からないですけど。」
僕が首を傾げると婆さんも頷くかのようにまた、ゆっくりと瞼を閉じた。
その後も捜索を続けたが大した成果が得られそうになかったので、まだ日の落ちないうちに周囲の森を捜索することにした。
「鴉がいますね。」
周りを見渡せば4、5匹はすぐに目に入る。あの鴉の死骸はこの森の鴉のものだろうか、かなり数が多いし、そうなのだろうな。
「殺したいって意欲の現れだろうな、なにもあれほど死体をバラバラにする理由はないだろうから。」
婆さんは遠い目をしていた。
よく分からないアンサーだったが、言っていることはすごく分かった。これはおそらく狙った犯行ではない。誰が加害者でもなく、彼らが被害者で、加害者なんだ。
あの地下室の血のシミは1日鴉を殺したごときでつくものではなかった。多分彼ら家族は何かを殺すことに快感を得て、それを目的に地下室を作ったのだ。臭いが漏れることもなく、入口がばれることなく。ただひっそりと発作を抑え続けたのではないか。例えば、その矛先が、自分に向けば。一家はどうなってしまうだろうか。
不思議なことに新しく草が踏み潰された痕跡があった。何かを知る人物がここを通ったのではないかと、僕等はそこを辿った。
辿った先、奇妙な雰囲気のある小屋に出会った。あまりに妙だ。神社でもない、人が住んでいることも物置であることも考え難い。
「これは、なんでしょうか。」
婆さんは珍しく少々怯えた顔をしていた。
「強い霊が、寝ておる。」
霊、か。僕は本当にそんなものがいるとは思わないがなんせここで3人が死んでいる。もしあの小屋の中、僕等はそっとドアを開ける。ドアを開けると、床は赤色に染まっていた。カビだらけの床の上、死体が3つ転がっている。
「うっ。おうぇっ。」
「小僧、落ち着け。」
初めてみる死体に吐き気がしたが、婆ちゃんは至って落ち着いているので、なんだか負けたくなくてなんとか吐き気を飲み込んだ。
空気は嗅いだことなのない酷い臭いをしていてそこにいるだけで体が毒されている気分がした。
「しかし、酷いものじゃのう。ここまで惨い死体は初めて見た。」
確かにその通りだ。3人のうち誰か1人は確かに自害したのだろうが、3人それぞれ体が復元しようのないほどに切り刻まれている。どれだけ痛かったか、苦しかったか、悲しかったか。初めてみる死体にはそんなことを感じると思っていた。でも、実際にはそんな事はなくて、ただこんな人がいるということへの恐怖が口に出ないほどに満ちて体を離れなかった。
婆さんは静かに手を合わせると鞄の中から電球を取り出し、ある死体を持ち上げてその死体の下に電球を差し込んだ。そして、リモコンを持つと電球の電気をそっとつけた。
「婆さん。あの、何を。」
婆さんは口元に人差し指を当てた。
「何かいる。それは正しいと思うんだがの。」
ほれ、行くぞ。
婆さんはそう言って家を出たいく。
小屋の戸は開いて、中からは光が漏れていた。
警察に言う事はなかった。彼らは狂っていた、そのことだけが強い事実だった。
これから始まる何気ない探偵の1日。その理性がいつの間にか、保たれなくなった時。
僕は何を思うのだろう。
電気を見てしまった。僕はただ、楽になるために。必死に山を駆け上がった。