山に捨てたのは
珍しく現代&ホラー
「なあ、何で最近顔出さねぇんだよ」
高校の時から付き合っていた鈴木拓郎が、絵未の席の前に陣取って言う。
彼とは同じ学部ではないし、被る授業もないからきっとわざわざ探し当てたのだ。
ご苦労な事です、と絵未は心の中で独り言ちた。
「おい、無視すんなって」
「別に、私正式なメンバーじゃないし。貴方に付き合って何度か行っただけでしょ」
絵未の言葉に拓郎は鼻白む。
そして大袈裟に絵未に向き直りながら言った。
「だからさぁ、いつまで拗ねてんだよ。亜里沙とは別に何でもないって!」
何でもない相手とキスとかするんだ、へーえ。
声に出す代わりに絵未はため息を深く深く吐いた。
「もうそういうのいいから。亜里沙さんに言ってたよね、別に私達付き合ってる訳じゃないって」
「だから、それは言葉の綾ってやつで…」
「あー、タクロー!何してんのーそんなとこでーランチ一緒にするって言ったじゃあん」
講義室の入り口に姿を現したのは、今まさに話題に上がっていた、佐々木亜里沙だ。
手入れの行き届いた茶色の髪は緩く巻かれていて、化粧も服装も可愛らしい。
地味な黒髪の絵未と違い、目立つ女性だ。
甘えるような言葉に、視界の端で拓郎が脂下がるのが見えた。
「やー、ちょっと話があって」
「あ、白崎さんかー。最近来ないけどどうしたのー?」
「そうそう、その話してたんだよ」
などと大きな声でやり取りをして注目を集める。
どうでもいい茶番に巻き込まないでほしい、と絵未は筆記用具を用意しながら拓郎にだけ聞こえるように言った。
「ほら、約束あるんでしょ?行きなよ。もうすぐ授業始まるし」
「じゃあまた後で」
「ないから」
後でなんていらない、と絵未は顔すら上げなかった。
白々しくどうしたの?と言ってくる亜里沙は、他にも数人の男を侍らせている。
登山部とは別の、なんちゃって登山サークルのメンバーだ。
重装備で高山に挑むような登山ではなく、日帰りできる軽装備のハイキングコースを時々行くだけの。
けれど、別に絵未はそれを軽視しているわけではない。
亜里沙と言う女性に群がる蟻の様な彼らの仲間になりたくないだけだ。
最初の数回は別に問題無かった。
ちょっとした飲み会と、前年度行った山の話とか趣味の範囲内の話に笑って相槌を打っていただけだから。
けれど亜里沙と何度か顔を合わせるうちに、妙な対抗心を持たれるようになっていた。
他にも女性メンバーはいたし、拓郎だって特にモテる男ではない。
平凡な絵未に似合いの平凡で凡庸な男性だ。
けれど、多分。
自分より誰かが思われている状況、というのを壊したくなったのだろう。
子供が他の子が遊んでいる玩具を欲しがるように。
それが宝物でなくてもいいのだ。
ただ、取り上げて弄びたいという愉悦。
だから、絵未はあっさりと手を離した。
それでも何が気に入らないのか、こうして見せつけるように周りをうろちょろする。
邪魔で仕方がなかった。
自分に関係のないところで、三股でも四股でもそれ以上でもしてくれればいい。
何故、自尊心を傷つけられた上に、彼女の背徳感を高める手伝いをしなくてはならないのか。
「めんどくさ……」
「めんどくさそうだったね」
思わず零れた独り言に、聞き慣れない女性の声で相槌を打たれて、絵未は驚いてハッと顔を上げた。
隣に座っていたのは、話した事のないクラスメイトだ。
学部とコースは一緒だが、選択授業はほとんど一緒にはならない。
けれど、何となく絵未は頷いた。
「うん。ほんと面倒だよ」
「じゃあさ、捨てちゃわない?」
あっけらかんととんでもない事を言われて、絵未は固まった。
白い肌に少しの雀斑、オレンジ色に染めた髪は派手な明るい色だ。
「新見有香、よろしく」
「白崎絵未……」
名乗り合ったその日が運命の始まりだった。
「忙しいからさ、調べてくれると助かるんだけど」
性懲りもなく、拓郎が持ちかけて来たのは彼らが遊びに行ける範囲の、楽な登山コースについてだ。
亜里沙を中心としたメンバー達は、飲み会やら遊びやらでまともに活動していないのは知っていた。
正式なメンバーでもない絵未に頼むのがお門違いなのだが、絵未は控えめに微笑んだ。
「この前は私も態度悪かったし、お詫びに引き受けるけどさ、一緒に行ってもいい?」
「お、おお!来いよ」
「でも調べたのは拓郎ってことにしておいて欲しい。あんまり参加してない私が決めたってなると、佐々木さん嫌がるかもしれないし」
控えめに上目遣いに困ったように言えば、何かを考えて拓郎はそうだな、と頷く。
でも、もう一つ上書きをしておかないと駄目だろう。
実はあいつにやらせたんだよ、なんて言われても面倒だ。
「拓郎が調べて私を誘ったから行く、って感じの方がいいと思うんだ。佐々木さんの事嫉妬させたいんでしょ?」
「や、別にそういう訳じゃ……」
しどろもどろになるが、知っている。
私と言う存在がなくなれば、拓郎への興味が減るのは分かり切っていた。
どうせ彼らと一緒に居ても、亜里沙のお願いと言う名の命令で、雑事や使い走りをさせられた事もあるのだ。
便利な道具になるつもりはなかったから、さっさと距離を置いた。
けれど、一度吸った蜜の味は中々忘れられないのだろう。
拓郎もそうだ。
亜里沙は嫉妬すれば、また取り戻そうと拓郎に時間を割くようになる。
言う事を聞かせたという優越感よりも、嫉妬させる方がいいと彼は選ぶだろう。
「別にもう私達関係ないんだし気を使わなくていいよ。ていうか、ちょうど思い当たる場所あるから、後で連絡する」
「おう、頼んだ」
何の疑いも持たずに、これから起きる未来を夢見て、拓郎は上機嫌で歩き去っていく。
絵未はその後姿を見送りながらうっそり微笑んだ。
その日は快晴だった。
吹き抜ける初夏の風はまだ冷たさを残していて、平凡にしか見えないただの山々が連なっている。
軽装備とはいえ、山に登る為の準備もして、絵未はサークルメンバーの後ろを付いて行く。
入り口には注意を促す看板と、車止めなのか足下を塞ぐように錆びた鉄のバリケードが幾つか山道が続く入り口に置いてある。
サークルメンバーの一人が旅の記録と称して録音を開始する前に、絵未は愛想笑いを浮かべながら言った。
「私正式なメンバーじゃないし、慣れてないから後ろから付いてくね?遅れても気にしなくていいから」
「そう?本人がそう言うならいいか」
「そうだな」
亜里沙が満足げに言えば、追従するようにへらへらと拓郎も頷く。
他のメンバーも取り繕うように笑う。
「大した山じゃないし、大丈夫だよ」
「無理だと思ったら引き返していいから」
口々に言うのは、気遣いではなく置き去りにする事を認める言葉。
今まで参加しなかった絵未に腹を立てていた亜里沙の気を引くためだろう。
大した事のない山だとしても、普通は一人で山道を引き返すのは怖い。
そんな事すら考えも及ばないのか、分かってて言っているのか。
絵未は不機嫌そうな顔は見せずに控えめに笑って頷いた。
山道は大して険しくは無かった。
この日の為に、絵未は体力づくりをしていたのだ。
近所の石階段を上り下りしたり、エレベーターやエスカレーターは極力避けた。
少し遅れているように見せながら、それでも見失わせないように適度に間を開けて付いて行く。
1,2時間経ったころだろうか、不意に暗く感じる場所に来た。
メンバーも何だか暗い、と口々に言っているのが遠巻きに聞こえる。
山の奥にきたから、日光が遮られているのもあるが、それでも何かおかしいと感じる程には。
熊除けの鈴が時々鳴る。
彼らはそんなものいらないと笑っていた鈴は、下見に来た時にタクシーの運転手から聞いたものだ。
この辺りに住む人々は山に入る時に必ず持って行くと言っていた。
快晴だったのに、少し雨が降り始めて。
漸く目指していた建物が木々の向こうに見え始めて、絵未は安堵する。
ああ、辿り着けた。
メンバー達は何あれ、とそれぞれ疑問を口にする。
「地図に無い、建物だ」
誰かが言った。
その地図は絵未が用意した物ではない。
いや、どの地図だとしても書かれていないだろう。
存在する筈のない建物なのだから。
「雨宿りにちょうどいいから、行こう」
拓郎が僅かに振り返ったが、絵未は見えない振りをして建物を凝視した。
辿り着けないはずの廃墟は古びている。
暗闇の中に、施設の様な病院の様な四角い部屋が連なった白い壁が浮かび上がっていた。
「お邪魔しまーす」
「誰かいますかー?」
少しはしゃいだように彼らが中に吸い込まれるのを見届けて、絵未は建物を背に山を下り始めた。
暫く歩けば、まるで暗かったことが嘘のように日差しが戻ってきて、ちらちらと木漏れ日が山道を彩る。
「姥捨て山ってあるでしょ?」
新見有香が楽しそうにそう言っていたのを思い出す。
「あれと一緒で捨てられるの」
「何を……?」
「何でもだよ、何でも。普通なら捨てられないものや、捨ててはいけないもの。全部」
「そんなこと、何で知ってるの?」
何を聞いたらいいのか分からずに絵未は少しずれた質問をしたけれど、有香はただ笑って答えた。
「高校の時さ、オカ研にいたんだよね。あの山って、殺人事件や失踪事件が定期的に起きてるんだ。んで、地元の人に話を聞きに行ったってワケ。まー最初は話してくれなかったけど、自由研究の題材にするだけだって言って、何度か行ってたら教えてくれたんだよね」
にこにこと邪気のない笑顔で、有香は笑う。
きっと、懐こい笑みに心を許した人もいただろうことは想像がつく。
「昔から、その山には夜大人だけで、『捨ててはいけないもの』を捨てに行ってたらしいの。多分、そういう依頼とか受けてやってたんだろうねー。村とか町の人だけじゃ捨てるものなんて限られてるし。それにほら、よくあるじゃん。漫画とかでもさ、手に余る呪物とか神具とか。そういうのも、手軽に始末できるんだよ。すごない?」
「……まあ、うん。凄いけど。でもそれって呪われたり普通はするよね?漫画の話だけど」
信じていない訳ではないけれど、胡散臭い話ではある。
漫画に準えるなら、祟りとか呪いが降りかかる筈だと絵未は思った。
けれど、あはは、と明るく有香は笑い飛ばす。
「それがすごいとこなんだよ。普通はそういうのがあるから手順を踏むところを、すっ飛ばせるの。だからね、多分呪いもその場所から動けない。それが多分誘蛾灯の役割もしてて、暗い何かを引き寄せるんだろね」
「暗い、何か?」
「例えば殺人事件を起こすような人。だって何でそんな場所まで行くの?自棄になってるならその辺でいいし、完全犯罪するなら埋めればバレないかもしれないのに。……でも殆ど知られてないのもすごいんだよね。だって、オカ研メンバーの従姉妹だか何かが雑誌記者やってて、私達も知ったくらいだし」
だからって、何で。
ふとした疑問が浮かび上がって、絵未は口にした。
「何で私に教えてくれたの?」
「面倒臭そうだなって思って。それに、貴女も行けるのか気になったの」
「も?」
貴女も、という言葉に引っかかって絵未は問いかける。
今までとは違う、薄ら寒い笑顔を有香は浮かべた。
「私も捨てに行った事があるから」
「何を?」
「妹」
絵未は言葉を失って、有香をまじまじと見つめた。
本当か嘘か……妄想か、と逡巡していると、有香がぷっと噴き出す。
「なんてね!捨てられたら気分いいだろうなーとは思ったよ。思っただけ」
あはは、と笑う有香はさっきと同じく無邪気だ。
あの一瞬の、何だか悍ましい雰囲気はもう、無い。
「じゃあ、確実じゃないんだね」
「そうだね。でも試してみる価値はあるでしょ?それに何となくだけどさ、関係を断ち切ったって思える出来事になれば、それでもすっきりしない?少し」
「……言われてみれば、そうかも」
山に捨てたという罪悪感があれば、彼らのくだらない喧騒も少しは許せるかもしれない。
何だかそれは、とても良い事のように絵未には思えた。
「オカ研の時の資料、明日持ってくるから好きに使って」
「うん、ありがと」
有香が貸してくれた資料は、雑誌記者だった従姉妹が集めた新聞記事の切り抜きをコピーしたものや、当時のメンバーが近くの住民に取材した内容のコピーだ。
幼く丸い文字が、何だか身近に感じるような。
いくつかの取材で明らかになったのは、山には存在しない廃墟がある、という不思議な話だ。
歴史的にも事件的にも不動産としても存在しないのに、目撃証言だけがある。
行けるかどうか分からない場所、というのはオカルトやファンタジーにはありがちだ。
出来ればあまり近づきたくないし、多分中に入ってはいけないのだろう。
それに有香の口ぶりからして、条件が整わないと多分辿り着けない。
そう言えば。
最初に有香が放った言葉は、あまりにも風変りだった。
「捨てちゃわない?」
そして丸い文字に目を落とせば、捨てに行くという言葉に丸がしてある。
姥捨て山、何でも捨てられる、と有香の言葉が浮かんでは消えて行く。
条件はきっと、「捨てたい物がある人間」が「捨てたい物を運んでいく」ことだ。
それは故意でも無意識でもいい。
だから、直接的な殺人事件ではなく、失踪事件の方が多いのだ。
その度に近くの住民や警察、消防の人々が山狩りをしているけれど、彼らは行方不明になったりしていない。
「え?お客さん、あの山行くの?あそこは止めた方がいいよ」
人の良い笑顔の運転手が、困ったように眉をハの字にした。
バスは1時間に1本しかないような田舎だ。
大学からはそう遠くは無いので、近場ではあるのだが交通の便が悪い。
「一人で行くわけじゃないんです。ちょっと友達に聞いて、入り口だけでも見たくて」
「ああ、そう。ならいいけど、あの山普通の山に見えるんだけどね、失踪事件が多いんだよ。記事にもニュースにもなってるよ。まあすぐ世間から忘れられるけどね」
確かに、巷ではよくあるニュースかもしれない。
誘拐されていたり、殺されていたという悲惨な結末を迎えることがあるが、そういった事件に比べれば失踪は失踪事件止まりで長期間騒がれることは無い。
残された家族次第といったところだろう。
「この辺にお住まいなんですか?」
「そうだねぇ。だから山狩りにも参加したことあってね。ああそうそう、熊除けの鈴、あれは必ず身に付けて行かないと駄目だよ。まあ、私の婆ちゃんの受け売りみたいなもんだけど」
「熊、なんて出るんですか?」
知らなかったし、有香からもそんな話は聞いていない。
だが、運転手は何とも言えない表情で、少しだけ笑ってみせた。
「熊は知らないけど、熊だけじゃないからね。山に居る悪いものは」
決してオカルトやホラーといった類だけではない。
熊や蛇などの動物もだが、人間だって怖い生き物だ。
そして、目に見えない何か。
有香にして言わせた『暗い何か』だって、良いものではないだろう。
そういったものが引き寄せられる山なのだ。
先人の言葉には従っておいた方がいい。
「教えてくださってありがとうございます」
「一番良いのは、近寄らない事だけどね」
大抵の人はここで、諦めるかもしれない。
面倒だし、怖いから。
だが、と絵未は山へと目を向けた。
許せるのなら、きっと許して忘れてしまえる方がいいけれど、ふとした時に思い出すのだ。
馬鹿にして軽んじて笑う声。
踏み躙られる自尊心。
そして、裏切りを何とも思わず、代償も払わない者達。
離れた時に、そっとしておいてくれたら、此処まで来なかった。
窓の外を流れる景色は、何処にでもありそうな田舎の風景だ。
緑の田んぼに、古い町並み。
近くに遠くにある山並みと、木立。
「此処だよ」
タクシーがゆっくりと停まったのは、見落としてしまいそうになる山の入り口だった。
人が三人も並べばいっぱいの広くもない道が、山の奥へと続いている。
不穏さの欠片もない普通の道だ。
とても事件が何度も起こる場所には見えない。
「何だか……普通、ですね」
「そうだよねぇ。だから油断しちゃう人が多いのかもねぇ」
絵未はじいっと山を見たけれど、何か特別なものが視える訳でもない。
ふっと笑って、肩の力を抜いた。
「もう、いいです。駅までお願いします」
さく、さく、と靴の下で落ち葉が音を立てる。
行きにはなるべく音を立てないように、鞄の内側にしまっていた鈴は、今は外に出してある。
歩くたびに、リン、リン、と澄んだ音を立てながら。
絵未は今日までの出来事を思い出していた。
山道の入り口にある錆びたバリケードにスカートを挟まないよう気を付けながら通り抜け、近くのバス停で通りかかるバスを待つ。
スカートの下にはデニムを履いていたし、スニーカーも履いてきた。
でも、外から見たら凡そ登山には似つかわしくない格好だ。
持っているのはエコバッグで、中にはきちんと山での必需品は入っていたが、外からは分からない。
勿論、彼らには笑い者にされたが、それで良かった。
山に捨てて来た彼らが、たとえ戻って来たとしても、それも別にどうでもいい。
これで忘れることが出来そうだな、と絵未は時間より少し遅れて到着したバスに乗り込んだ。
「絵未、警察から電話……拓郎君たちがまだ帰ってないんだって。一緒に山に行ったんでしょう?」
「うん。行ったけど途中で帰ってきちゃったし……でも、話はしないとね」
最初は電話で、次の日は警察署で事情を訊かれる事になった。
ハイキングだと言われて、楽な服装で行ったけれど登山だったこと。
足が痛くて付いて行けずに、途中で引き返した事を伝える。
当日の駅の監視カメラを見ても一目瞭然だろう。
山に登る格好をした一団から浮いている、普段の服装に近い絵未が映っているのだ。
亜里沙を囲んで楽しそうにする一団と、少し離れた場所に立つ絵未は所在なさげに見える筈だ。
「山の中で変わった事は?」
「いいえ、特には……それよりも足が痛くて、帰るのが大変でした。まだ帰ってないって……あの、山小屋とかにいるんじゃないんですか?」
「いや、あの山にはそういう建物はないんでね……今日はご足労頂きご協力感謝します」
山の話になると、警察官は目配せし合っていた。
まるで何かを隠すような、そんな暗黙の了解めいた雰囲気だ。
話しても信じて貰えない話、不思議な現象が今までも起きて来たのだろう。
絵未が「実は…」と廃墟の話をしたところで、そんな物は存在しないと否定されるだけである。
彼らは何処へ行ってしまったんだろう?
まだ山の中を彷徨っているのか、それとも。
捨てて来た事でさっぱりした気持ちになってしまっていたが、絵未は心配そうな顔は崩さないでおいた。
たとえ不審がられても、向こうは十人以上の団体で、一人でどうこうできる人数でもない。
そして彼らは誰一人戻らなかった。
遭難から一転、集団失踪事件となったけれど、一時的に騒がれてそして埋もれて行ったのである。
有香にはその後一度だけ絵未は聞かれた。
「行けたんだ?」
「そうかもね」
絵未が言葉を濁したのは、その時の有香の表情に何だか嫌な予感を感じていたからかもしれない。
「建物は、見た?」
「暗くてよく分からなかったけど、多分。皆そっちに行ったから帰ったの」
そう言うと有香は、そう、と少し落胆したように相槌を打った。
そして、言うか言うまいか迷うように何度か口を開いた後、漸く声にする。
「誰かに見られてるような感じ、しなかった?」
「しないよ。私霊感とかないし」
少し怯えた様子を見せる有香が不思議だった。
以前、妹を捨てたと冗談で言っていたけれど、本当だったのだろうか?
だとしても、捨てた方が何故脅える必要があるのだろう。
疑問を口にする前に、有香はひらりと手を振った。
「だよね。ちょっと怖がらせてみた」
「そういうとこあるよね」
ふざけた様に笑う有香に合わせて、絵未も笑顔を向ける。
有香は何も親切心だけで、あの山とそこに纏わる事柄を教えたのではない、と絵未は確信していた。
事象とはいくつもの条件が折り重なっているのだ。
その中のパーツが一つ欠けても完成しない。
有香は、絵未で何かを試していた。
けれど、多分、有香の求める答えを絵未は持っていない。
「じゃあ、また明日」
「またね」
それが、有香と交わした最後の言葉になった。
こんなにも簡単に人が姿を消す事に、絵未は言い知れない恐怖を感じている。
昨日まで笑って喋っていた人間が、今日はいない。
そして、返せなかったあの山の資料だけが手元に残された。
捨てても、焼いてもいいけれど、と絵未はその紙束を手に取る。
何だか酷く悍ましい物に思えて、クリアファイルに入れた後で茶封筒へと放り込む。
学生課に問い合わせれば、きっと返却先も見つかるだろうと絵未は眠りに就いたのだった。
「有香の……お友達ですか」
泣き腫らした眼の母親がドアを少しだけ開けた向こうから、そう声をかけて来て絵未は曖昧に頷いた。
友達、と呼んでいいのかすら分からない。
少しだけ親しくしていただけだし、どちらかといえば共犯者の方が近いと絵未は思っていた。
「はい。オカルト研究会に所属していた時の資料とかを借りていて、返そうかと」
「あの子まだそんな事……」
言いながらドアの隙間から差し入れた茶封筒を受け取り、母親が中身を確かめるようにクリアファイルを引き出し、ばさばさと音を立てて落とした。
え?と顔を上げれば、その手はぶるぶると震え、母親の顔が恐怖で引きつっている。
「何で、何で、何で……」
何が、何でなんだろう?
絵未はどうしたら良いのか分からずに、ぶつぶつと繰り返す有香の母親を見つめた。
散らばった紙をそのままにしておくわけにもいかず、一枚一枚拾い始める。
「あの子、あの子も……有香もこの山に行ったの?また、いなくなったの??」
力尽きた様にぺたりと玄関に尻を吐いた有香の母親が呆然としたように宙に視線を彷徨わす。
あの子も?
じゃあその前に誰かが失踪した?
あの山で?
「妹」
そう言った有香の声と顔が甦る。
嘘だと言っていたけれど、あれは。
目の前で正気を失ったようにぶつぶつと何かを言っている有香の母に聞くわけにもいかない。
かと言って、このままはいさようならと置き去りにも出来なかった。
話しかけてみても返事らしい返事がないのを確認して、救急車を手配する。
資料はそのまま、封筒に戻して玄関脇の棚の上に置いた。
やはり、不吉な物が宿っているように思えて、絵未はそれから目を逸らす。
連絡先を教えることもなかった新見家の人々がその後どうなったか絵未は知らない。
ただ、娘二人が失踪した母親が、元に戻ることは不可能に思えた。
大学を卒業して、就職をして。
平凡な人生を平凡に歩みながら、時折思い出す。
近づかない方が良い場所もある。
危険を冒してまで捨てに行ったあの頃の自分はどうかしていたのかもしれない。
けれど、あの時は確かにそれが必要だと思っていた。
薄暗い復讐心と、仄暗い好奇心。
有香が言っていた「暗い何か」はそれだったのかもしれない。
資料から作為的に抜かれていた有香の妹である新見梨花の失踪事件も、その後の有香の失踪事件も未解決のまま。
拓郎と亜里沙達も、未だあの山から戻らない。
いつか有香のように呼ばれるのか。
それとも亜里沙や拓郎のように別の誰かに捨てられるのか。
絵未は今でも、鈴を手放せないでいる。
後書き追加ーーー
山の怖い話、良いですよね。
ミッシングチャイルドビデオテープも面白いですが、台湾ホラーの紅い服の少女は一章、二章ともおすすめです。泣けます。
イノセンツはホラージャンルというより超能力だろ!と思うけど最高に面白かった。
胸糞展開嫌いでなければ、女神の継承や呪餐も中々。
実はひよこはとっても怖がりで、なのに洒落怖とか読むの好きで、職場でこっそり読んでいたりした事もあります。
感想で頂いた入ってはいけない山の話とかめちゃくちゃ興味が!
ぼぎわん(映画だと「来る」ですね)のように、山から来る系も中々良い…。
おすすめのホラーや、身近なお話、教えてもらえると嬉しいです。