第一話 涙の合格発表
3月。桜が咲くにはまだ少し早い。
すれ違う人たちもまだコートを羽織ってマフラーを巻いている。吐く息がほんのり白い。
握りしめた右手の中には第一志望校の受験票がある。
そう、本日は高校入試の合格発表日。
私は合格者の受験番号が高校の玄関前に貼り出される時間に家を出た。
今頃家では姉たちが私の受験番号を高校のホームページで必死に探していることだろう。
寒い中、電車を乗り継いで、どうしてわざわざ高校まで合格発表を確認しに行くのかというと、今回ばかりは、どうしても1人で、静かに結果を確認したいと思ったからだ。
姉たちの存在が巻き起こした嵐のような中学校生活を必死に耐え抜き、ついに彼女らの呪縛から解放されるときが来たのだ。
私は1人でその幸せを涙を流して噛み締めたい。
受験票を握る右手にぐっと力を込めた。
✳︎
高校の玄関前は合格発表を見に来た人でいっぱいだった。
見知らぬ制服を着た受験生たちが不安そうな面持ちで自分の受験番号を探している。
ゆっくり歩いてきたはずなのに、心臓の鼓動がずいぶん早い。
早く受験番号を探さなければとなんとか顔を上げるが、今度は目が開けられない。少し離れたところから歓声と拍手が聞こえてくる。
やっとの思いで恐る恐る目を開けた。日は陰っているのに、外の光が眩しい。
だんだんと心臓の音が大きなって、周囲の喧騒を遠ざけていく。
1382、1385、1386、1389…
あれ、私の受験番号って、何番だっけ…?
右手に握りしめた紙をゆっくり開くと、しわくちゃの数字が現れた。
1388、手のひらの番号を確認して、もう一度顔を上げる。
ない。
私の番号はない。
頭が真っ白になって、それでもすぐさまじわじわと悔しさやら悲しさやらが胸いっぱいに迫り上がってきた。
泣くまいと歯を食いしばると、脳裏に受験期の壮絶な毎日がまざまざと蘇ってくる。
中学3年生の1年間は全てを勉強に捧げ、友達も好きな人も趣味も何もかも後回しにして、ただひたすら学び、よく食べ、よく睡眠をとり、姉たちの妨害や誘惑を掻い潜ってやっと今日という日を迎えることができたのに。
今日という日は決して良き日ではなかった。晴れの日でもなかった。努力は決して裏切らないなんて、いったい誰の言葉なんだ。
ポケットの中のスマホが震える。母からの着信だった。
「…もしもし」
「晴花?おつかれさま。落ち着いたら寄り道しないで帰っておいで」
母の声を聞いた途端、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
しゃがみ込む力もなく、その場に立ち尽くして俯いたまま、ぽつぽつと涙が落ちるのをぼんやり眺めるしかなかった。
そのまましばらく動けずにいると、涙で滲む視界の端に、大きな手のひらがひらひらと揺れた。
「晴花」
聞き慣れた声に顔を上げると、嫌に整った顔がいつも通り無表情でこちらをじっと見つめていた。
「おー落ちたか」
「いやいや…ちょっと…君ね」
誰もが振り返るほどの美男子、細くて長い手足に優しい声、おまけに頭脳明晰で人当たりも良いとなれば、これほどに恋愛対象として魅力的な人物はいないはずなのだけれど、全世界のあらゆる神々に誓ってこの男だけは好きにならない。
「なんでわざわざ合格発表見に来たの?輝は落ちてるわけないんだからスマホで見ればいいじゃん!!!」
輝に続いて人の波をかき分ける。握りしめてくしゃくしゃになった受験票が手から滑り落ちたけれど、もうそれすらもどうでもよかった。
「あー俺も面倒だったけど、学校から入学式の代表者挨拶について説明があるから来てくれって言われたんだよ」
開いた口が塞がらない。人の泣き顔をまじまじと見て遠慮なく「落ちたか」なんて言えちゃう人が主席の学校なんてこっちから願い下げだ。
「ほんっと信じられない!!!無神経すぎる!でも日常すぎてびっくりも一瞬で引っ込むよ。そういう人だもんね、君は」
「そうだなー俺は普通に生きてるだけだからな。おー走らないと電車間に合わないぞ」
「いやだよ!こんなテンションじゃ走れないから!先に帰ってて!」
しばらく気を紛らわせてからでなければ、家に帰りたくない。
なぜならばあの家には隣を歩く輝よりもはるかに私の不合格を面白がっている人たちが待っているからだ。
きっと今も合格祝いならぬ不合格祝いの準備が着々と行われているのだろう。
その横で姉たちの行動を制する我が家で唯一まともな母の姿が目に見えるようだった。
電話口の母の優しく気遣う声を思い出して、また目頭が熱くなった。
「泣くな泣くな。俺も鬼ではない。一緒に次の快速に乗るわ」
「はあ…どちらかというと今は1人になりたいから先に帰ってくれると嬉しいんだけどね…」
駅に着く頃には先ほどまでの青空が嘘のように雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうで、私の気持ちに追い打ちをかけるようにどんよりとしている。
「この駅で降りて高校までの道のりであれやこれやと青春イベントがあるんだろうなって何度も妄想したのにな…」
輝がホットココアを手にベンチに戻って来た。
ココアを私の目の前に差し出して、「これでも飲んで元気だせよ」と柄にもないことを言う。
「ありがとう。今ちょうどこの駅から始まるはずの薔薇色高校生ライフを思い返していたところだよ。もう現実になることはないなんて…あんなに身を粉にして勉強したのに」
「そのことなんだけどさ」
輝が遠くを見つめながら続ける。
「晴花が思っていたよりも双子が本気を出していたんだな」
輝の見つめる先に視線を重ねて、静かに目を閉じる。
そうだ。自分の勉強不足、実力不足で受験に失敗したのだと私は思いたかったのだ。そうすればこの不合格にも納得できる。
しかし現実はそう甘くない。いつも通り悪魔の双子が私の人生を狂わせる。
「薄々勘づいてはいたけどね。色々とありすぎて何が双子の仕業か分からないくらいだよ…」
温かいココアを一口飲んで、輝を一瞥する。
「奴らの手口を順番に種明かしでもするか。俺は毎回この時間が楽しみで双子から目が離せないんだよな」
輝の生き生きとした表情からは私への同情は微塵も感じられない。一体どうして私の周りの人間はこうも意地が悪いのだろうか。
「睨むな睨むな。俺は何もしてないからな」
反対側のホームに電車が停まる。ぞろぞろ降りてくる人を目で追いながら、少しでも気持ちを落ち着けようと努力した。
気を抜いたらまた涙が出てしまいそうだ。内容を聞かなくとも双子の所業には大方見当がついている。
「まず一つ目、あれは晴花が進路に悩んでいる時…双子はまず晴花の担任を懐柔するところから始めた」
「えっ」
**
中学3年の夏。
進路希望用紙の提出期限が明日に迫っても、私のそれは白紙のままだった。
まだまだ将来自分のやりたいことなんて考えられないし、いかに楽しめる高校に進学するかを最優先事項に挙げるくらいしかできない。
私の悩みに解決策を提示してくれたのは、担任の皆川和美先生だった。元気いっぱい年中ジャージの47歳、独身だ。
たしかあの時、先生は私に3つのプランを提案した。
まず一つ、学力に見合う学校を第一希望とする案。
次に、難関校だが施設や行事が充実しており、青春を謳歌できること間違いなしの学校を第一希望とする案。
最後に、今から一切勉強をしなくても合格できそうな偏差値の学校を第一希望にして、残りの学校生活の充実を図り、第二希望に程よい学力の学校を持ってくる案だ。
よくよく考えると最後の案なんて随分雑だし、私が選ばないことを前提に考えられている。
今思い返しても、2番目の選択肢は良いところばかり並べられていた上に、プレゼンする先生が妙に張り切っていた。
どう考えても露骨だった。怪しいことこの上ない。
しかしそこは悩める15歳、悶々とする日々を脱却したい一心で先生のプレゼンに聞き入っていた。
そして晴れ晴れした気持ちで双子の罠である案を選択したのだった。
***
「今思えば絶対罠だったなって思うよ。先生のテンションがなんかおかしかったもん…気が付かなかった自分が憎い!でもそれ以上に人の悩みに漬け込んだ双子がもっと憎いよ!!!」
勢いに任せてココアを飲み干したところで、ホームに快速列車が入ってきた。
輝はへっと憎たらしい笑顔を浮かべて、空き缶を捨てに近くのゴミ箱へ向かった。
私も遅れてベンチから立ち上がり、近くの乗車位置に並ぶ。
「この時間になるとだいぶ空いてきたな。向こうの席、空いてるぞ」
輝に続いて空いている席に座ると、向かいの席に座る女子高生の視線が私に刺さる。よくあることだ。もうなんとも思わない。
「で?何?そわそわしてるってことはまだ何かあるんでしょ」
「勿論。双子がこの程度で終わるわけがないだろ。二つ目は晴花にいかに勉強をさせないかだな。俺も正直追いきれないほどの妨害工作をしていたみたいだ」
ため息が止まらない。心当たりだらけだが、いちいち反応していたらキリがないので大半は無視を決め込んでいた。
「まず新作のゲームを頻繁に買ってくるようになったよね…。漫画も大量にレンタルしてくるし、私が好きな作家の小説について突然語り出して…読みたくなっちゃうじゃん…」
「参考書とかノートが無くなったこともあっただろ。次の日学校の机の中で見つかるから不審に思わなかっただろうけど、まあ、あれだ、俺も少し双子を手伝ったわ」
今日1番殺意が湧いた瞬間だった。無言で勢いよく輝の足を踏みつける。
「いっ!!!すまんすまん…こればっかりは悪かった」
「君、さっき俺は何もしていないって言ってたよね?はぁ…」
輝の謝罪はもう聞き飽きた。事あるごとに双子に加勢して彼女らの悪事が加速する様を楽しんでいるこの男の謝罪は羽のように軽い。軽すぎる。
「輝、君の知らない私の受験頓挫計画、おそらく最後の作戦を教えてあげるよ」
少しだけきまりが悪そうにしていた輝の顔がみるみる明るくなる。
「やつらシャーペンの芯も鉛筆の芯も全部折りやがった」
これには驚いたというか度が過ぎていて正直引いた。
「さすがに本気を感じたよ。もう諦めないといけないなって思った。双子に邪魔されない薔薇色の高校生活なんて私は夢見ることも許されないんだ」
電車が少しずつ速度を落として停車した。
双子の悪事を振り返っていたらあっという間に家の最寄駅に着いてしまった。見慣れた駅のホームに憂鬱な気持ちになる。
「双子、すごいな。どんな手を使ってでも晴花を同じ高校に進学させたいんだな…壮大な姉妹愛ってやつか…」
「嬉しそうにしないでよ…こっちは人生めちゃくちゃにされるのにも慣れてきたわ」
改札を通り、駅を出ると冷たい風が吹き抜けた。
雪は止んでいるものの、たまに吹く風がまだ冬のそれだ。
「お母さんはまっすぐ家に帰ってきてって言ってたけど、正直帰りたくない。双子がお祝いの準備してる気がするから」
家までの道中、公園もコンビニもない。重い足取りで静かな住宅街を真っ直ぐに歩く。
「きっと不合格祝いされるんだろうな…双子の愛は重過ぎて歪んでるんだよ」
「果たしてこれは愛と呼べるのか…ああ、着いてしまった」
自分の家の前で、足がすくむ。玄関のドアを開ければ、私の帰りを今か今かと待ち構えていた双子にどっぷり慰められるのだろう。
目を閉じて、一度大きく深呼吸をして、そっとドアノブに手をかけた。
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これは、重くて歪んだ愛情を全ての力を注ぎ込んで私にぶつける悪魔のような双子の姉と、高校で青春を謳歌したい妹の、壮絶な戦いの記録である。