14 仇討ち、してみる? 5
「やっぱここだ……」
俺はスマホの地図アプリに記された住所と、目の前の建物を交互に眺めながら、坂根から送られてきた住所に到着したことを確認していた。確認しながらも俺はその建物に入ることを激しく躊躇していた。
恐怖からではない。いや、相手が何をしでかすか分からない人物であるため、恐怖が無いわけではないのだが、自分の恐怖心が微々たるものに感じてしまうほど、眼の前の建物が自分の置かれている状況と全く結びつかなかったのだ。
「これ、本当に住所合ってる?」
俺はもう一度、自分のスマホと眼の前の建物を見比べた。
やはりそこにあるのは、何度見ても相撲部屋である。ビルの一階玄関にデカデカと「広砂部屋」と書かれた看板があり、中からは激しく肉同士がぶつかる音が聞こえてくる。
普通、こういう時呼び出される場所って海辺の倉庫とか工場じゃないの? 何だよ相撲部屋って。
いや、考えても仕方ない。というか時間が無い。こうしている間にも秋月さんがちゃんこ鍋をたらふく食わされてる可能性がある。それだけは避けなければならない。違ったら謝ってさっさと出れば良いのだ。
ええい、ままよ!
俺は勢いよくドアを開け、中に続く廊下を走り抜け、正面のドアを左右にスパァンと開いた。
俺が立っている場所は座敷になっていて、そこから一段低くなった場所に土俵があり、周囲は板張りの壁になっていた。
「秋月さん!」
そこに居た者達全員の目がこちらを向く。
その土俵の脇には所狭しとぽっちゃり系男子(力士)が所狭しと跋扈しており、中央に、坂根と、ロープで縛られた秋月さんが立っていた。
「秋月さん!」
俺は直ぐにでも土俵を飛び出して駆け寄ろうとしたのだが、坂根が手で制した。
「ふふっ、遅いじゃない。怖気づいたのかと思ったわ」
「坂根ぇ! お前俺の恥ずかしい動画を拡散するだけじゃ飽き足らず、こんな所に呼び出してどういうつもりだ!」
「いや、あんたの動画は既に拡散されてたでしょ」
「今そんなことはどうでもいいだろ! バカか!!」
「あんたぶっ殺すわよ! ……それより、このことは警察に言ってないでしょうね? ま、言っても無駄ですけれど」
坂根は口に手を当ててほくそ笑む。
「武岡くん……」
その声にハッとした。坂根の隣で俯く秋月さんの顔から、赤い液体がぽたりぽたり垂れている。
「どうしたんだ秋月さん、怪我したのか!?」
ゆっくり顔を上げた秋月さんの鼻からは血が滴っていて、目元は涙を拭いたような跡があった。
「坂根ぇ! お前秋月さんに何をした!!」
「ふふっ、秋月さん、あなたの口から教えて上げたらどうかしら?」
坂根が秋月さんのロープをぐいっと引っ張り、
「武岡くん、私……さっきからたくましいお相撲さんの取り組みを見ていたら、興奮で涙と鼻血が止まらなくなって……」
「くそおっ! このBL末期脳め!」
「あーっはっはっはっ! どうするの変態? このままだと愛しの秋月さんが鼻血出しすぎの出血多量で死ぬことになるわよ?」
「そんなに?!」
俺は坂根を睨み付けた。坂根は「その顔が見たかった」とでも言わんばかりに眉を下げげ俺の顔を見つめている。
「でも私だって鬼じゃないわ」
坂根は秋月さんを引っ張りながら後ろに下がっていく。するとそれを合図にするかのように、両脇に溜まっていた力士たちが土俵の中に入ってきた。
「ここに30人の力士がいる。この方たちを全て相撲で打ち負かすことが出来たら、秋月さんを返してあげるわ」
へ?
「い、今なんて言った?」
「あら、下人は耳も遠いのかしら。仕方ないからもう一度だけ言ってあげる。この部屋にいる力士を全員倒すことが出来たら秋月さんを返してあげると言っているの」
いや無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!!!
「俺の体重が60kg弱で相手は全員100kgを超えてそうな巨漢ばかり。格闘技では体重が10kg違えばほとんど攻撃も効かないと言われているのに、この体格差で勝負を挑むのはほとんど自殺行為だ。加えて勝負の内容が彼らの生業である相撲なのだから俺に勝ち目などあるわけない。30人どころか一人も倒せるわけないのだ」
「何で急に説明し始めたの?」
「くっ! こんなのアンフェアだろ! 他の勝負じゃだめなのか! ミミズごっことか! 昆布おにぎりギリギリチキンーレスとか!」
「ふん、ここは相撲部屋なのよ。相撲以外やることは出来ないわ」
そうなの?
「さあ、早く決めなさい。やるの? やらないの? ふふっ、もしやらないのなら」
「やらないのなら……?」
「秋月さんの身体を、お相撲さんがどうしちゃうか分からないわよ?」
「……本当に下衆だな、お前ら」
「さあ! どうするの!?」
俺は俯いて、目を閉じた。考えろ、どうすれば秋月さんを助けられる? どうすればこの状況を切り抜けられる? ここで挑発に乗るのか? いや、これはどう考えても俺をいたぶるためのショー。坂根はどうしても自分に従おうとしない俺が許せないのだろう。あいつの性格上、ここで勝負を挑んだところで秋月さんを返してくれるとは限らない。
こんな時、親父なら……。
親父なら?
「絶対に引くな」
ハッとした。まるで直接したかのように親父の声が脳内に響いた。
「男なら戦え」
再び、父親の声が聞こえた気がした。そうだ、親父なら戦う。俺をかばってくれた時みたいに、例え社会的地位を奪われても、職を失うことになっても、親父は逃げなかった。
俺はふと苦笑いした。あんなに苦手だった親父のことを、こんな土壇場で思い出すなんてちょっと恥ずかしいな。だがそれだけあの人が俺の人間としての軸に影響を与えているのだろう。
「ーーーー戦え!」
例え相手の思うつぼでも、ここで時間を稼げるんなら、俺の戦いには意味がある。
俺は歯を食いしばり、ギュッと目の焦点を坂根に合わせた。俺は逃げない。
戦う。
戦う!
戦って秋月さんを助ける!
身体を熱い血が巡る。心臓の鼓動が俺を鼓舞する。吐く息は赤く空気に溶ける。
「やってやるよ」
俺が土俵に降りていくと、大半の力士は再び両脇に避けていき、一人だけが俺と向かい合う状態になっていた。これが最初の一人ということなのだろう。
大きい。まるで目前に巨大な熊が出現したかのような威圧感、圧迫感だ。だがそんな大きな力士と向かい合っていても、不思議と俺の心は水を打ったように静かだった。これが「腹が決まっている」状態なのだろう。
力士は四股立ちになり、ゆっくり腰を落とす。俺も見様見真似で腰を落とし、片手を地面に付ける。
相手の右拳が、ゆっくり、ゆっくり、地面に落ちていく。
俺は微かに息を吸いながら、ぼんやりと相手の全体を見る。身体が熱い。血が激流のように全身をめぐり、全ての気が、体内の一点に凝縮されていく。
ゆっくりと、相手の両拳が地面に付いた、次の一瞬。
気迫が俺の身体を竜巻のように巡った。
破裂。
地を蹴る足が稲妻のように疾走り、俺は腰を落としたまま相手の懐に潜り込ーーめなかった。
俺の素晴らしい動き出しより前に相手の張手が普通に俺の顔メリメリめり込んでいた。
パチィン! というASMR顔負けの香ばしい音とともに顔面のお肉は左半分に大挙して押し寄せたため、ブルドッグとおじいちゃんと梅干しを10世代に渡って交配し続けて誕生した生物のような表情のまま、我ながら見事に吹っ飛んだ。
うん、やっぱりこの体格差は無理だよ父さん。
「へぱぁ!!!」
俺はサッカーボールのように転がりながら板の壁に激突した。主に背中周りに激痛が走る。
ドッと周囲から笑いが起こる。
くそっ、俺が吹っ飛ばされたのがそんなにおかしいかよ。こんなに受けるんなら今年R1グランプリ出場しとくんだったぜ。
「無様ね」
笑い声に混じって坂根の声が聞こえる。
「で、もう終わりなの?」
「そんなわけあるかぁ!!」
俺は勢いよく立ち上がると、叫びながら相手の方へ向かっていった。