9 林間学校、行ってみる? 6
俺と秋月さんは無言で山道を進んで行った。勾配は結構キツかったが、登山客が多いのか、かなり整備されているので登りやすい。加えて秋月さんの歩くペースが思ったより遅かったため、俺はそこまで息切れすることもなかった。ただ、別の意味で息苦しさを感じていた。
俺を誘ってきた筈の秋月さんが、一言も喋らないのだ。
いや、確かに彼女が喋らないのなんて日常茶飯事のことで、俺の家に飯をたかりに、いや食べに来る時だって、食べ終わるまで一言も喋らないことの方が多い。
ただ今回のこの沈黙はそれとは全く別物のように感じられた。この林間学校に来てからろくに秋月さんと会話できていない俺が勝手にそう感じているだけかもしれないが。
「どうして喋らないの?」
不意に、俺のすぐ後ろを歩く秋月さんが呟いた。
彼女は下を向いて歩いている。俺の方を向いていなくて良かった。秋月さんのその言葉を聞いた一瞬、俺の体は打ち上げられた魚のごとくビクンと跳ねたからである。
「え、どうして喋らないのって、それは、その……」
頭をギュッと絞ってみたが適切な言葉が絞り出されない。魚らしく口をパクパクさせるだけである。
俺は何とか間を持たせるため、水筒のお茶を一気にあおった。その時、不意に秋月さんがこう言った。
「もしかして、嫉妬してる?」
俺は口の中から食道を通過しようとしたお茶を一気に吹き出した。吹き出されたお茶は森の中に虹を渡し、逆に俺はめちゃくちゃにむせて、咳き込んだ。
「え、し、ししししししっしししいしい、しっっととおっとおとっshit」
shit 〈卑俗〉うんち[くそ]
「その動揺の仕方、やっぱり嫉妬してたんだ」
秋月さんは全く表情を変えず、額の汗をハンカチで拭っている。
秋月さんには、俺の気持ちがバレていた、のか。いやバレていたって何だよ! だって俺は別に秋月さんのことなんか全然好きじゃないんだからね! 好きじゃない、はず、だよな……。いや、好きじゃないはずだ! 俺はただ、男して住吉に負けるのが嫌なだけで、秋月さんに特別な感情があるわけじゃない……ない!!
しかし秋月さんはそんな俺の気持ちなど見透かすかのように、眼鏡の中の大きな目で俺の姿をじっと観察している。
「ふふっ」
秋月さんが、小さく笑った。この林間学校が終わって気付いたのだが、俺が彼女の笑ったところを見たのはこれが初めてだった。秋月さんは嬉しそうに目を細め、俺の方に寄ってきた。
「やっぱりそうだ。武岡くんは怖かったんだよね。住吉くんを、私に取られそうになることを」
やはりそうか、秋月さんに言語化されて、俺は自分の気持に気付いたよ。そうだ、住吉と秋月さんが接近することで、俺は住吉が秋月さんに寝取られることを……。
「んん?」
あれ、ベクトルがおかしくないか?
秋月さん→住吉に寝取られる
俺→秋月さんを好きだから嫉妬する
なら分かる。だが秋月さんの言い方だと、
住吉→秋月さんに寝取られる
俺→住吉を好きだから嫉妬する
にならないか?
「だからほら、武岡くんって以前から住吉くんのこと好きだったじゃない?」
「既に認知が歪んでいるようだが」
「でも武岡くんは奥手だから、なかなか住吉くんに近づけないでいた。このままだと他の男子に取られてしまうと私は危惧していた」
「何で男限定なんだよ」
「このままだと武岡くんを住吉くんに寝取られるという私の目的を達成できない。だから、武岡くんのお尻に灯油を塗って火を付けるために、私が住吉くんに近づけば『俺の男に手を出すな!』とばかりに嫉妬すると思ったの」
「まず俺のケツに灯油塗ろうとしてたのかい秋月さん。っていうか、俺はてっきり、秋月さんが住吉に好かれたくて近づいたのかと」
すると秋月さんは首を傾げた。
「どうして? 何度も言うけれど、私の目標は住吉くんと付き合うことじゃない。どんな手段を使ってでも武岡くんを住吉くんに寝取らせて寝取られの快楽を味わうこと」
「お前ほんとブレねえな」
俺は膝に両手をついて深く息を漏らした。それは勿論、がっかりしたからではない。深い安堵から出たものだった。
この林間学校に来てからの不安、焦燥、やるせなさ、動揺、安堵。
認めざるを得なかった。俺は秋月さんが、住吉に好意を持たれようとして近づいたのではないことに深く胸を撫で下ろしている。
認めざるを得なかった。わずかばかりでも、ほんのわずかばかりでも、俺はこの頭おかしい秋月さんを好意的に見ているということを。
一番の懸案事項が取っ払われると、急に快晴になったが如く頭の中がスッキリした。スッキリすると秋月さんとの会話を楽しもうという脳天気な発想もポコンポコン芽を出すものである。
「そういえば秋月さん、山登りのペア、どうして俺を選んだの? それこそ俺に嫉妬させたいんなら住吉と行っても……」
顔を上げた俺は異変に気付いた。
秋月さんの顔に大粒の汗が滴っているのである。心なしか顔も青い。
確かに秋月さんは運動不足気味だし体力は無いのかも知れないが、さっきからずっと止まって話しているだけだった。それに彼女は先程ハンカチで自分の額を拭ったばかりだ。
熱があるかもしれない。いや、脱水症状か? いずれにせよこのまま登り続けるのは止めるべきだ。
「秋月さん、ちょっと座って休憩しよう。さ、リュック下ろして」
俺が自分のリュックを置き、秋月さんに向き直った瞬間、彼女の体が、やけに傾いて見えた。
よろめいた彼女が歩いてきた山道を外れて、崖下に落ちそうになっていることに気づくのに時間は要さなかった。
「あ、秋月さん!」
俺は必死に彼女の体を掴み、力いっぱい引っ張り上げた、次の瞬間、強い衝撃を感じて俺の視界が暗転する。




