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日陰皇子とあんまり似てない影武者

作者: 冬至 春化

 向こうの梢で何かがきらりと光ったと、そう思ったときには遅かった。


 都へ戻るためにはどうしたってこの太鼓橋を通らねばならぬ。だから、皇子暗殺を目論むのなら、ここで待ち伏せをするのが定石だった。


 枝の根元に腰掛け、つがえていた矢から手を離した男の顔が、よく見えた。見たことのある顔だった。あの男は……。

(ああ、)

 真ん丸に見開いたひとみに、黒い鉄の矢尻が、はっきりとした輪郭をもって映り込む。

 物心ついたときから、目の良い子どもだと言われ続けて来た。――目だけは良い皇子。


(もう、全部おわりなんだね)


 諦念が胸を占め、思わず口元に笑みが浮かぶ。

 矢羽根が空気を巻き込み、錐揉みしているのまでが鮮明に見えた。簾を巻き上げた窓から、放たれた矢は空を切って飛び込んだ。

 そうして、鋭い先端はサウの利き腕を牛車の壁に縫い付けたのだった。



 *


 サウの命を救ったのは近隣の農村に住む少年だった。

 名前も聞いたことがないような村だった。なにせ、谷間の奥まったところにある村で、採れるのはほんの僅かばかりの穀物だけ、外貨を稼ぐ術はほとんどないという。誰だって自分らの食い扶持をまかなうので精一杯で、凶作の年があれば二人三人は平気で死ぬような、そんな村なのだと。


 すべては後からタノイに聞いた話である。




 急所は外したものの、サウは腕に矢を受けた。太い血管を掠めたのか、血は滝のように流れ続け、数分とまともな意識を保っていられなかった。


 気がつけば、彼は見慣れぬ藁葺きの家屋の中にいた。筵の上に寝かされ、腕はきつく布を巻いて止血されていた。


「ああ、目が覚めたんですね!」

 戸が開いて、訛りの強い口調で声をかけられる。目だけを動かしてそちらを見ると、鼻先に土だか炭だか分からない黒い汚れをつけた少年がいた。


 彼は丸い盆を手に小さな歩幅で歩いてきて、サウの枕元で膝をついた。こわごわと、けれど好奇心が隠しきれないような素振りでサウの顔を覗き込む。


「橋ンとこで人が倒れていたから、おれ、大慌てでおじさんを呼んできて、みんなで担ぎ込んできたんですよ。でもおばさんが、『勝手なことしやがって』とか『あたしは余計なことに巻き込まれたくない』とかっていうから、世話はおれが全部やんなきゃいけないんです。ヨウレンたちは一日中遊んでるんだから、あいつらにもやらせりゃ良いのにって思ったりも……」


 と、そこまで言って彼は「あ」と片手で口を塞ぐ。余計なことを言ったと思ったらしい。真ん丸の目が、くるりと部屋の四方を順に見回した。


 聞けば、御者はサウが負傷した事態を受け、救援を呼びに街まで行っているという。明日には護衛の兵が自分を迎えに来る見込みだそうだ。



 そうした事情を、少年はたどたどしい口調で語ってくれた。短い髪を後ろ頭でひっつめて、入りきらなかった黒髪がぱらぱらと額に落ちている。よく日に焼けた肌はつやつやとしていて、少し汗ばんでいた。

 改めてその顔を見たとき、サウは、息が止まるような心地がした。


「……あのぅ、おれの顔になにかついてますか?」

 あんまりまじまじと見たからか、彼は怪訝そうな顔になった。サウは少し考えてから口を開く。喉がからからで、咄嗟に声が出なかった。

(この子は……)

 くらりと、視界が揺れる。世界が一回転して、また戻ってくる。


 咳払いをして、サウは口元に小さく笑みを浮かべた。

「鼻のところに黒いものがついているよ」

 言うと、彼は手の甲で勢いよく鼻を擦った。汚れが横に延びただけだった。

「お前、名前は?」

「おれは、タノイっていいます」

 部屋の向こうで、タノイを呼ぶ金切り声が聞こえる。荷物を運べと言ったのに何をしているのだと、少女の声が苛立たしげに叫んでいた。


 家主に対するおじさん、おばさんという呼称や、話の節々から、彼がこの家の子どもではないことは窺えた。申し分の無い生活をしている訳ではないということも。


 仰向けのまま、サウは「タノイ」と呼びかけた。改まった気配を感じたのか、タノイは不思議そうに姿勢を正す。

「もし、お前さえ良ければ、僕と一緒に来てくれないかい」

 え、と声を漏らして、タノイは目を見開いて固まっている。まったく理解できない、と、その表情が如実に語る。


「ど、どういうこと?」とタノイの口から素直な問いが転げ落ちた。サウは小さく微笑む。

「お前のおばさんの言葉を借りるなら、僕は今、お前を『余計なことに巻き込』もうとしているんだよ」

 タノイは、サウが怪我を負った右手側に膝を折って座っていた。肩を丸めるみたいにして、サウは左手をタノイの方へと差し伸べる。


「顔を綺麗に洗っておいで。それで、髪を丁寧に結ってみなさい。そしたら分かる。――お前は僕に、そっくりだ」


 そうして、タノイはサウの影武者となった。



 *


 ほら、僕の服を貸してやろう。も少し髪を伸ばそうか。髪に良い油を塗ってやるから来なさい。お前、もう少し太った方が良いね。


 背筋を伸ばして歩くんだよ。筆の持ち方はこうだ、見て覚えなさい。反対の手で紙を押さえると良い。ああ、お前、左手が利くんだね。好都合だよ。僕もこれからは左ですべてをやらなきゃいけないんだ。もう右は使えなくなってしまったからね。


 詩歌や文学は心を豊かにするのさ。直接腹を満たしてくれる訳でもないけれどね。覚えておきなさい、お前がこれから向かうのは、そんな教養を食べ物より大事にするような場所なんだよ。



 紙の端から水がみるみる吸い上げられるみたいに、タノイは一を言えば十まで学ぶような子どもだった。夜遅くまで灯りをつけて、机に向かっている背中を、サウは毎晩眺めていた。

 ――器用に動くタノイの左手が滑らかに文字を綴るのを見るたび、サウは不思議な心地がした。


 彼を見出したのは奇跡である。瓜二つの、ほとんど歳の変わらぬ少年が、この世に三人といるだろうか。タノイが、密かに捨てられた双子の兄弟ではなかろうかと疑ったことも、一度や二度ではない。けれど、そのような事実はなかった。真実、彼は奇跡のように目の前に立ち現れた生き写しなのだった。


 タノイのことを知っているのは、サウの身辺の世話をする限られた者だけである。影武者が知れ渡っては意味が無い。だから都では、サウはタノイを外に出してやれなかった。

 サウは一年のうち数ヶ月を、涼しい高原にある離宮で過ごしている。都では息をひそめねばならないタノイが哀れで、彼が来てから、サウは離宮に滞在する時間が増えた。離宮ではタノイは元気であった。

 ――もう随分な高齢の庭師を相手に、広い庭を走り回っているタノイを見るたび、サウは奇妙な感慨が胸に浮かぶ。


 同じ顔をして、けれど違う。闊達で、溌剌としていて、ときどき無礼だけれど愛嬌のあるこの影武者のことが、サウは好きだった。


 もはや自由に動かぬこの右手が、言うことを聞かぬ左手が。

 小さな頃からまともに走ることもできないような、虚弱なこの体が。

 ……夢を見るのだ。

 タノイを通して、豊かに文字を紡ぎ、力強く空を切る。そんな夢を見る。



「本当に良いのかい」と、サウは何度もタノイに訊いた。

「僕は体が弱くて、物心ついたときからずっと命を狙われているような皇子だよ。ろくな生涯にはなりやしない。そんな僕の人生の影になどなって、お前、きっといつか嫌になるよ」


 サウには、年子で生まれた腹違いの弟がいる。その母は、サウの母よりよほど強い家柄の出である。弟は体が丈夫で、利発で、人を惹きつけるような明るい子どもだという。

 いつ死ぬとも分からぬ、小柄で弱々しく陰気な自分とは雲泥の差だった。どちらが帝に相応しいかと、問うまでもない二択だ。けれど、父の長男はサウで、弟は二番目である。

 それに、サウは弟に自らの道を譲る気はなかった。だから、何度だって暗殺者が差し向けられる。


「分かっているの? 僕はいざってとき、お前を自分の肉盾にするためにお前を連れてきたんだよ。僕は、お前を身代わりにしようって魂胆で、お前の面倒を見ているんだからね」

 飲み物一つさえ気楽に口へ運べない。天気が良いからって野放図に外を出歩けない。どこから矢が飛んでくるか分からない。そんな境遇に、サウは己の我儘でタノイを引きずり込んだのだ。


「サウさまは、面倒なひとですね」

 病床で呻くサウの手を緩く握って、タノイは何度でも笑っていた。


「お言葉だけ聞いていると、まるでおれのことを追い出したいみたいですよ」

 すっかり訛りのなくなった口調で、タノイは飽きることなく枕元で取り留めもない話をしてくれた。

「早く治してください」とタノイは言ってくれた。「元気になったら、一緒に森の向こうの原っぱに行きましょう。もうじき桔梗が一面に咲くんですって」



 けっきょく、桔梗の時期までにサウの快復は間に合わなかったけれど、向こうの草地には行った。少し薄暗い林を抜けた先で、燦々と陽射しの降り注ぐ草原が、見渡すばかりに広がっていた。青臭くて、ひんやりとして、心地よい風が吹き抜ける場所だ。竜の背のように隆起する稜線の上を、大きな鷹が悠然と旋回していた。白い雲がくっきりと青空に浮かんでいた。

 タノイに手を引かれて、ずっとどこまでも歩いたのだ。歩き疲れたら、まるで離れ小島のように一つだけ転がっている岩に腰掛けて、日が落ちて冷えてくるまでいつまででも話をした。


「お前がいれば、僕はどんなところだって行ける気がするよ」

 ――自分はいつか病を治して、立派な帝になるから。それまでどうか、僕を支えて欲しい。

 どこまでも突き抜けるように高い秋の空を見上げて、サウは小さな声で呟いた。平然とした口調を装いながら、あまりに大それた願いに腹の底が怯えていた。


 タノイは、しばらくサウの言葉に返事をしなかった。

「……ほんとうに、サウさまってとことん面倒なひとですよね」

 寒さのせいか、咳をし始めたサウを背負って歩きながら、ようやくタノイは笑いながら答えた。その振動が胸越しに伝わって、肩に置いた手からはタノイの温かさが滲んでくる。

「即位するまでとか言わなくたって、おれたち、きっとずっと一緒ですよ」

 妙に確信めいた口調に、サウは思わず言葉を失った。お前、と声が零れ落ちる。そこまで僕のことを、と柄にもなく目頭が熱くなりかける。直後、タノイはあっけらかんと言い放った。


「だっておれ、サウさまくらいしか友達いないもん。サウさまだって、おれの他に誰も友達いないでしょ? うん、いなさそう」

 あんまりな言い草と、考えたこともなかった『友達』という単語に驚いてしまって、驚かされたことへの苛立ちと面映ゆさがない交ぜになる。なんて言ってやろうかと色々考えたけれど、結局、肩を軽くぶつだけに留めておいた。



 行く手に見慣れた離宮の影が見えて、代わり映えのしない、冴えない日常が目前に迫った小径で、サウは「ねえ、お前」と小声で呼びかけた。

「約束しよう。僕らずっと一緒さ、死ぬまでね」

 サウを背負って歩いてきたせいで、タノイの息は弾んでいた。だから呼吸の合間に返された返事は切れ切れで、要領を得なかった。けれど、タノイは頷いたように見えたから、それで良いことにしておいた。



 *


 タノイを拾ってから丸一年が経つころ、彼は初めてサウ皇子として人前に立った。月に一度開かれる、大規模な朝儀の場である。サウ自身がどうしても体が動かなくて、けれど既に二度続けて席を空けてしまっていた。三度に渡って欠席すれば、弟を擁する者どもはそれを槍玉に挙げてまた騒ぎ立てるだろう。


 タノイに立派な服を着させ、朝儀の場に送り出してからも、サウはずっと不安であった。必要なことはすべて教えてきたつもりだった。会の段取りや、顔を覚えておくべき相手、自分の癖まで、サウ皇子になりきるのに必要なありとあらゆることを。

 しかし、こんな大胆不敵な企みが容易く通用するものだろうか? もしタノイが曲者として捕らえられたら、自分はいったい父に何と申し開きしたら良いのだろう?



 果たして、タノイはごくごくけろっとした様子でサウの前に戻ってきた。

「え? 心配で全く休めなかったんですか? おれが行った意味ないじゃないですか」

 全然余裕でしたよ、とタノイは平気の平左といった様子である。


「あ、そうだ。見たらすぐに分かりましたよ。『この人がサウ様の仰っていた意地悪な大臣か』って」

 くすくすと笑いながら、タノイは両手の指で目尻を持ち上げて言った。こんな吊り目だったと言いたいらしい。それがまた妙に似ているので、サウも思わず噴き出してしまう。


「なにか意地悪を言われたかい」

 その問いかけを皮切りに、タノイは拳を振り上げて語り出した。随分な侮辱を受けたらしい。身振りを交えて、いかに嫌味な言葉を投げかけられたかと雄弁に語る。一切の容赦なく大臣をこき下ろすのが痛快で、サウは珍しく声を上げて笑っていた。

 よくもまあ人に対してそんなことが言えるものである。それを面白がっている自分も同罪だが。



 次の朝儀は体調が安定していたため、サウ自身が参列した。第二皇子びいきの大臣は、例に漏れず何くれとサウへ刺々しい言葉を投げかけてきた。しかしそのたびにタノイの馬鹿馬鹿しい物真似が頭をよぎって笑みが漏れてしまい、サウは三秒と神妙な顔を保てなかった。普段なら俯いてひたすら黙殺するだけのサウが微笑んでいるのを見て、大臣は毒気が抜かれたように離れていく。


 大臣を追い払えるなんて初めてのことだった。

「お前、凄いね」

 戻ってからタノイに一部始終を伝えると、彼はよく分からないような顔をして首を傾げた。「おれ、何かしましたっけ?」と怪訝そうなタノイに、サウは言葉を重ねて説明しようとして、やっぱりやめた。


 頬杖をついてタノイを眺める。

「僕はね、お前に憧れているんだよ」

「ええ、おれにですか?」

 なおさら訳が分からない表情になったタノイの顔は、今日もサウに瓜二つである。



 *


 そういった段取りで、タノイによる入れ替わりはおおよそ一月に一度ほどの頻度で行われた。サウの体調がどうしても優れないときや、あまりにも危険な状況が予想されるような場面ではタノイがサウの制止を振り切って矢面に立った。いざというときに動けるのは自分のほうだから、と。


「今日の晩餐会で出た異国の料理がとても美味しくて、肉の上に薄く切った果実が乗っているんですよ。絶対合わないと思ったんですけど、食べてみるとこれがまた意外に」

 タノイは、自分が出ていたときのことを事細かに語って聞かせてくれた。熱に浮かされて体がだるいときなどは、それが随分と気分転換になったものである。


「もっとお前の話を聞かせておくれ。お前が、僕の見ていないものを語っているのを聞くのが好きなんだ」

 ねだれば、タノイはいつも面倒そうな顔ひとつ見せず、むしろ嬉しそうに説明をしてくれた。


 入れ替わりのため、サウも自身の知識や見解を彼に教えることを惜しまなかった。

 三年が過ぎる頃には、タノイはすっかり落ち着き払って大人びた少年に成長していた。鏡を見ているようで、ときおり気味が悪くなる。田舎の素朴な少年らしさはなりを潜め、ふとした仕草や表情までもが、まるで自分と同じなのだ。

 自分たちの入れ替わりが誰にも気取られないのは、顔が似ているからだけではない。タノイ自身の観察眼や努力の賜物である。


「僕が帝になるためには、健康に不安があると思われては良くない。分かるね」

「はい。サウ様の名を汚さぬように、私も振る舞いに重々気をつけます」


 穏やかな話し口のタノイが、たまに別人のように思えることがある。お前、随分と大人になったねと一度だけ弱音を漏らしてしまったことがあった。大事な場面で勘の悪いところは変わらず、タノイは大真面目な顔で答えてくれた。


「私自身が、皇子たるに相応しい人間とならねばならぬと、いつも自分を律しております」と。



 一度だけ、部屋の中から、タノイがサウとして来客の相手をしているのを見たことがあった。背筋を伸ばし、思慮深い口調で、サウがそこにいたら答えていたであろう言葉を述べていた。

 立派になったタノイの姿を見て、誇らしさが胸に込み上げる。と同時に、奇妙な予感めいた不吉さが、足元から忍び寄ってくるのを感じないではなかった。



 *


 やけに生暖かい冬の日であった。前の晩から重苦しい灰色の雲が空に立ちこめており、じきに雨が降り出すことを予感させるような空模様だった。襟巻きを何重にも巻いて、緩い風の吹く庭園を横切っていたときのことである。


「殿下、今日は随分と顔色が優れないようですね」


 大臣に声をかけられて、サウは思わず「え」と声を漏らしていた。

 大臣の言葉とは裏腹に、その日のサウは珍しいほどの好調だった。

 すぐに分かる。大臣が言っているのはタノイのことである。

 健康的なタノイは、毎日の朝夕に外へ出て体を動かすことを習慣としていた。それに比べて、日がな一日寝台か椅子の上にいるサウが、青白く見えるのは自明のことだった。


「はは」と咄嗟に頭を掻いて、サウは苦笑する。

「確かに、少し疲れが残っているようです」

 心にもない言葉が、つるりと口から零れ出る。乾いた笑いがちくちくと胸を刺していた。朝起きたときから、普段よりうんと軽く思えた体が、何十倍にも重くなったように感ぜられた。――台無しだ、と胸の奥で何かが囁く。


 僕の良い日が、こんな一言のせいで色あせてしまった。

 でもそれはタノイのせいなんかじゃないのだ。サウ自身に原因があることだ。タノイは何も悪くない。


 何を必死に自分へ言い聞かせているのか分からなかった。けれど、正体の分からない何かを懸命に押し殺そうとするように、サウは笑顔の裏で何度も反芻していた。

 タノイは自分の我儘で連れて来られたのに、本当によくやってくれている。だからタノイは何も悪くない。こんな自分を一心に慕ってくれる、善き友だ。タノイを厭うなんてこと、するはずがない。



 気遣わしげな表情で去って行った大臣を見送りながら、サウはふと笑顔のまま動けなくなった。……かつては弟の方が帝に相応しいと、自分をあれだけ白眼視していた大臣は、いつからこんなに好意的になったのだっけ?


『今日は、例の大臣とつい言い争いになってしまいました。ああ、そのような顔をなさらずとも……。意外と大臣も怒った様子ではありませんでしたよ、むしろ満足そうに見えました』

 少し前のタノイの言葉が思い起こされて、サウは思わず息を止めていた。

 親しげな口調で自分を気にかけてくれた大臣は、『サウ皇子』を見直したのだろう。評価を覆させるに足る理由が、大臣の中に生じたのだ。


 ――では、大臣が認めた皇子とは、一体誰のことだ?



 *


 あるとき、滅多にないような高熱が出て、サウは幾日にも渡って枕から頭を上げることすら叶わなかった。毎年、季節の変わり目のたびに熱を出すのだ。あまりの不甲斐なさに涙が出そうだった。


「サウ様、本日の会合は私が出ますから、どうぞゆっくりお体を休ませてください」

 押しとどめようとするタノイを振り切って、サウは壁に縋りながら寝台を出た。タノイの心配そうな顔を尻目に、サウは、絶対に自分が参列するのだと強い口調を崩さなかった。

 何をこれほど怯えているのか自分でも分からなかった。けれど、これ以上、タノイに自分の名を着せて外へ出すことが、恐ろしくて仕方なかったのだ。


 強い懸念を示していたタノイの不安は的中して、サウは宮廷の道半ばで倒れてしまった。大勢の人間が見ている前で無様にも人事不省に陥り、辺りは一時騒然としたという。



 ここ三年ほどは容態が安定しているように見えたのに、やはり体に問題を抱えているのか。この様子では帝としての役目を十全に果たせるかも危うい。今後のことを考えれば第二皇子の方が後ろ盾もあり、帝に相応しいのではないか。

 たった一度の出来事で、口さがない評価は瞬く間に昔に逆戻りしてしまった。


「サウ様、どうぞお気を落とさず」とタノイは優しい口調で言った。

「大丈夫です、私がついておりますから」

 再び人前で倒れることが恐ろしくて外へ出られなくなったサウに代わって、タノイはなお一層精力的に公務へ励むようになった。その様子が、サウには自分が落とした評判を彼が穴埋めしているように思えた。



 *


 あの高熱が響いたのか、それともサウの心の弱さゆえか、サウの体調はずっと底辺を横這いに推移するばかりで、いっかな快復の兆しを見せなかった。だから、サウはそれから長いこと人の前に立つことはなかった。


 季節が一巡して、タノイの努力の甲斐あってか、サウ皇子の評価は再び持ち直したと聞いた。多少は体に問題を抱えるものの、思慮深くてやさしく、時には果断な好青年であると言われているらしい。


 ――完璧な皇子。帝の器をもつ類稀なる皇子。


 自分が幼い頃からずっと欲しくてたまらなかった言葉を、自分は今まさに手にしているのだ。ずっと願っていたものが。


(僕が何年かかっても叶えられなかったような夢も、タノイはあっという間に果たしてしまうんだね)

 人々の口に上る自分自身の噂を聞きながら、親友への憧れが惨めさに変わるのには、ほんの一年もかからなかった。



 *


「サウ様、少しでも食事を摂りましょう」

 丸い盆を手に部屋に入ってきたタノイを見上げて、サウは懐かしいような思いで目を細めた。自分たちが初めて会ったときも、そういえばこんなふうにタノイが来たのだっけ。あのときは本当に驚いたのだ。だって本当に瓜二つだったから。


 枕元の椅子に腰かけたタノイの顔を改めて正視したとき、サウは心臓が止まるような心地がした。

 ――全然、顔が違う。


 成長にともなって人の顔が変わるのは当然で、幼い頃はよく似ていた兄弟がいつしか己の相貌に分かれていくのはよくあることである。だから不可解なことはひとつもない。不都合だって、通常なら生じることは何もないはずだ。


 けれど、自分たちにとっては、それは致命的なのだ。サウとタノイの顔が違うのは、万に一つもあってはならないことだった。

「……お前、身の丈はいくつほどになった?」

 震える声で訊く。タノイが答えた数字を聞いて、サウはますます血の気が引いた。だって拳ひとつ分ほども違う。

 これから、自分たちはもっとかけ離れて行くはずだ。何せ、血も繋がらない他人である。

 けれど、既に皆にとってのサウ皇子は、このタノイだ。――それでは、今ここにいる自分は一体誰なのだろう?



 タノイは相変わらず微妙に察しが悪くて無神経だから、先日訪問した異国の宮殿について、その奇妙な風習とともに事細かに語ってくれた。面白いでしょう、と言われても、何が面白いのかちっとも分からなかった。行ったこともない場所の、顔も知らない人間の話をされたって、何も面白くない。


「もういい」と遮ると、タノイはようやくサウが不機嫌であることに気づいたらしい。体調が優れないのか、と顔を覗き込んでくるタノイを振り払う。手と手とが強い音を立てて弾かれた瞬間、何かの箍が外れた気がした。


「出て行け」

 叫んだつもりだったのに、声は情けなく掠れて裏返る。

「僕が本物なんだ。お前はただの偽物だ。お前はそれを弁えなきゃいけないんだ」

 いい歳をして、まるで幼児のような癇癪であった。肘をついて体を起こし、サウは顔を歪めてタノイを睨む。


「お前、思っているんだろう。自分なら僕よりうんと上手くやれる、自分の方が皇子たるに相応しいと、そう思っているだろう。さぞかし得意だろうな、僕の名前を借りて僕に成り代わって、完璧な皇子だとか、もてはやされて」


 はっ、とタノイが息を飲んだ。真ん丸に見開かれた両目が、まるで往時のような幼さを垣間見せる。純粋な驚きばかりがその顔に浮かんでいた。

「でも残念だったね、お前が築き上げた評価も名声も、ぜんぶ僕のものなんだ。お前のものなんてひとつもありはしない。お前の人生なんてものはどこにもない、どこにも……!」


 これほどの加害欲が自分の内に潜んでいたのかと思うと、ぞっとした。一体自分はどれほど醜い顔をしているだろう。きっと悪鬼のような形相をしているに違いない。――こんな人間が帝になれるはずがない。


 タノイはしばらく、ものも言えないように凍り付いていた。その顔を見つめているうちに、燃え盛っていたように思えた怒りが、情けなく萎れて小さくなる。後に残るのは胸を苛む自己嫌悪と茫漠とした心細さばかりだった。


「……僕の居場所を奪わないで、」

 目頭が熱くなったと思うと、音もなく雫が頬に伝った。


 声を荒げたせいか、激しく咳き込んでしまう。タノイはすぐさま慣れた様子でサウを助け起こし、ゆっくりと背をさすり吸い飲みを口元に差し出す。その間彼は無言であった。

 タノイに介抱されながら、サウはあまりの惨めさに顔を上げられなかった。



 *


「お前、嫌にならないかい」

 前にも聞いたことがあるような問いかけに、タノイは一度まばたきをした。

「こんな病人の看病をさせられて、面倒だろう。たまには街にでも降りて遊ばせてやりたいけど、それもできないし、お前には本当に無理を強いているね」

「何を仰っているんですか。さては、また何か面倒なことを考えておられますね」

 いつもの弱音と思ったか、まともに取り合おうとしないタノイは、三歩先で立ち止まって待っていた。


 良く晴れた春の日、都から遠く離れた離宮の周りでは、菜の花畑が満開だった。

「少し外を歩こう」と、森の向こうを指させば、タノイはサウがどこへ行きたいかをすぐに了承したようだった。


 あたり一面がまばゆいほどの黄色である。息の詰まるような甘い香りが辺りに立ちこめ、遠くでは桜が真っ白に山腹を染め上げている。童の笑い声が、どこかから風に乗って聞こえた。近くに村があるのだ。炭焼きの煙が細く長く水色の空にたなびいている。



 森に足を踏み入れば、一気に静けさが襲う。

「最近、いろいろなものが見えてくるようになってきたんだ。僕に限らず、この世に生きる全てのものは、自分の意志だけで己の生涯を決められる訳じゃないのさ」

 食われたくて食われる野鼠などいない。枝の先の林檎にどうしても手が届かないこともある。

 自分の願いが叶わないことは、何も珍しい悲劇じゃない。


「僕は、これまでお前の人生を一部始終思うままにしてきたね」

 暗い木立の中を歩きながら、サウは先を歩くタノイの背を眺めていた。大きな背だった。俯きがちに歩いているタノイが森を抜けた。その肩に眩しい光が降り注ぐ。



「タノイ」とサウは明瞭な発音で呼んだ。彼をその名で呼ぶのは、彼と出会ったときから二度目のことだった。サウはずっと、彼を名前で呼ばぬようにしていたから。

 タノイは息を飲んだらしい。何か言おうとするように振り返る、その顔があんまり眩しくて見えないのだ。


「そろそろ、お前にお前の人生を返してやらなきゃいけないね」

 暗くてひんやりとした林床で立ち止まったまま、サウは微笑んで告げた。

「見てごらんよ。だって僕らもう、ちっとも似ていない別人だよ」

 一際強い風が梢を揺さぶる。唸るような音を立てて樹冠がたわむ。


「お前が、僕の名を捨てて市井に下ろうというなら止めやしない。流石に中央では顔が割れているから行かせてやれないけれど、地方の官吏になれるよう口添えをしても良い」

 サウ様、と遮るようにタノイが言いかけるが、サウは強い口調で「それに」と続けた。


「僕は、お前に僕の人生を丸きりやっても良いと思っている」



 サウは、小さな頃から目のいい子どもだった。タノイは賢いし体も利くけれど、サウほどに目端が利く訳ではなかったから、気づけなかったのだろう。

 見晴らしの良い丘の上には、ぽつんと露出した岩がひとつだけあるのだ。この草原で身を隠すことができる場所は、その岩の陰ただひとつしかないのである。


 岩陰に煌めくものがあった。一段と濃い影があった。

「タノイ、おいで」

 呼ぶと、タノイは怪訝そうにこちらへ寄ってくる。互いの立ち位置を入れ替わるように、サウは明るい光の下へ歩み出る。


 目を眇めて見やれば、五年ほど前のことがほんの昨日のことのように思えた。暗がりからこちらへ弓を引くのは、あのときと寸分変わらぬ顔である。

(やはり、父上は僕を認めてはくださらなかったのだ)


 父の随身であり、帝そのひとの命でのみ動く武人だった。


 あのとき梢から弓を引く男の顔を見たときから、父の意思は分かっていた。自分は父に見捨てられた。父は弟を選んだのだ。

 あのとき自分は死ぬはずだった。死ぬべきだった。それなのに、利き腕を失ってまで生き延びた。そしてタノイを見たとき、愚かにも夢を見てしまったのである。


 ――この子どもを利用すれば、父は自分を顧みてくれるのではないか。自分をずっと見下し続けて来た連中を見返せるのではないか。


「お前にはずっと、楽しい夢を見せてもらったね」

 今なら分かる。結局、サウに誰より早く見切りをつけ、一番見下していたのは、サウ自身だ。


 まるで止まっているかのように、矢尻の形が鮮明に見えた。口元に笑みが浮かぶ。

「上手にやるんだよ、タノイ」


 ほんとうは、自分は、あの橋の上で矢を受けて死んでいたのである。今までの五年間は、牛車の中で事切れるまでの夢なのだ。そうと悟る。自分はずっと前に死んでいたのだ。その間違いが、今ここで、正されるだけ。


 タノイが何か叫ぶ声が遠く聞こえた。

 風が強く吹き下ろし、肌を撫でる。緩く結っていた髪が激しくはためく。春のにおいが鼻に抜けて、真っ青な空と白く縁取られた稜線と、くさはらの波打つ陰影が目に焼き付く。


 鋭い切っ先が迫る。



 *


「ふざけんなよ」

 生まれて初めて頬をぶたれて、サウは目の前に立ちはだかる姿を呆然と見上げた。これでも随分手加減をしたのだろうが、頬は痺れるように痛んだ。


「あんた、俺をいざってときの身代わりにするために俺を連れてきたんだろ。それが、どうしてあんたが俺を庇ってんだよ。馬鹿じゃねぇの」

 低い声で呻くタノイは俯きがちで、その顔には影が落ちて表情は窺い知れない。

「あんたは馬鹿だよ」

 寝台の上で頬を押さえたまま、サウはぱちくりと瞬きをする。


「……お前、ついに矢を横からはたき落とすなんて、いよいよ化け物じみてきたね」

「今はそんな話してねぇだろ」

 粗野な口調で吐き捨てて、タノイは鼻に皺を寄せてサウを睨みつけた。その目に薄らと涙が浮かんでいるのが見えて、サウは思わず「おや」と呟いてしまう。


「お前、泣いているの」

 はぁ? と返事は実に腹立たしげだった。


「あんた、まじで馬鹿だよ。最悪だ。何回も『嫌にならないかい』とか聞く前に、自分の行動を省みろよ」

 手の甲で乱暴に目元を拭って、何か言おうとして、喉が詰まったように黙り込む。そうしたタノイの様子を、サウはしばらく静かに眺めていた。たぶん、こちらが彼の素なのだろう。


「お前には、今まで散々我慢させていたみたいだね」

「だからそんな話してないって、さっきも」

 鼻をぐずぐずと鳴らしながら、タノイは勢いよく椅子に腰かけた。


「あんたは、俺に我慢させてきただとか、無理をさせてるだとか、そういう自覚があるみたいで結構だけど」とタノイは前置きをする。


「本当に我慢ならなかったら、俺は、とっくの昔に逃げてるよ。だって読み書きも計算も、礼儀作法だってあんたにちゃんと仕込まれたんだから、……どこに行ったって食うのに困るはずないでしょう。事情が事情だ、大っぴらに追っ手をかけられる心配だってないし」


 真っ赤な目で、鼻の先を赤くしながら、タノイは小さな子どもみたいに顎に皺を寄せた。呆気に取られて、その顔を眺めていることしかできない。



「あんたは俺の人生に勝手に責任を感じてるみたいだけど、俺のことを完全に分かっていると思ったら思い上がりですよ」


 俺は、あんたの知らないところでいくらでも下町で遊んでいるし、賭博に嵌まってとんでもない金額を溶かしたこともあるし、ちょっと前まで娼館通いが趣味だった。



 そんなことをいきなり白状したタノイを、サウは絶句して凝視する。全く予想外の方向から殴られた思いだった。


 ややあって、サウはわなわなと震える手でタノイの顔を指さした。

「お前っ……僕の顔で何てことを」

 思わず食ってかかると、タノイは唇をひん曲げて目を逸らした。

「別人だって言ったのはあんたでしょう」

「でも似ていることは似ているだろう。お前、僕が渡していた小遣いでそんな……」

 ふざけるな、と口走ってから、タノイと全く同じことを言っていることに気づく。タノイも気づいたのか、口をきゅっと引き結んで何かを堪えるような表情になった。



 一拍おいて、サウとタノイは同時に噴き出す。それで堰が切れたように、腹を抱えて笑い転げるタノイを、サウは微笑んだまま見ていた。

「……僕は、お前に何度でも救われるね」

 聞こえなくても良いと思った、ほんの小さな呟きだったけれど、タノイは耳聡くそれを聞き留めた。顔を上げて、ひょいと眉を上げてみせる。


「俺は、あなたのことを良い金づるくらいにしか思ってませんけどね」

「お前、意外と素直じゃないね。どれ、膝でもついて『サウ様を心から敬愛しています』くらい言ってみたらどうだい」


 満足に動かない右手を差しのべて、サウはタノイの左手を上げさせた。矢が掠めたのだろう、手のひらを真一文字に横切る傷があるはずだ。包帯でぐるぐる巻きの手を見下ろして、サウは声もなく目を伏せた。 

「別に、サウ様のせいだとは思っていませんよ」

 まだ何も言っていないのに、タノイは先手を打って呟いた。

「でも、少しでもこの傷を見て思うところがあるなら……もう、変なこと考えないでください」


 目線だけを据えて真意を問うと、彼は背中を丸め、深く項垂れたまま呻く。

「俺に夢を見せてくださいよ。父親に見捨てられても、顔も似てないし素行も悪い劣悪な影武者を抱えていても、体が弱かろうが性格が悪かろうが、立派な君主になれるんだって。世の中、どんな願いだって叶うんだって、証明してください」


 ああ、と口からため息が漏れた。もはや筆も持てないサウの右手を捧げ持つようにして、タノイは頭を垂れていた。

「あんたが連れて行ってくれる未来を見たいんです。約束したじゃないですか、ずっと一緒だって」

 俺よりうんと長生きしてくれなきゃ嫌ですよ、とタノイが無茶を言う。



 サウはしばらく黙っていた。はたはたと、俯いたタノイの膝に音もなく雫が落ちてゆく。その濡れていく膝に気づかないふりをしてやりたかったけれど、つい目が行ってしまった。


(僕が、すべて終わったと思ったあのとき、)

 父から見捨てられ、孤立無援で、何も見えない暗闇の中で立ち竦んでいるような気がしていた。けれど、それも全部、サウが目を閉じていただけの話である。


(あのときに、本当は、何も終わっていなかったんだね)

 自分はタノイに二度にわたって命を救われてきた。ならば、それが宿命やもしれぬ。開き直りに近い諦念が胸を満たす。どこかせいせいした気分だった。



「タノイ」と呼ぶと、彼はおずおずと顔を上げた。今度こそ見るに堪えない汚い泣き顔であった。それを見ているうちに、勝手に目尻から溢れるものがあった。何か言おうとして、思い浮かぶ言葉のどれもが喉を詰まらせる。

 ようやっと絞り出せたのは一言だけだった。


「……ちなみに、お前が賭けで負けた金額ってのはいくらぐらいなの?」


 この雰囲気でそういう金銭のことに言及するのはあまりに無神経すぎる、誰しも触れられたくないことはあるし、互いの理解のために重要な場面でそういう肩すかしをするのは本当に良くない、帝になりたいなら必ず改善すべき問題点だ。

 というのが、後からタノイに賜った文句である。下手な誤魔化しだ。


 なお、不承不承タノイが自白したのは、熱い涙が一瞬で引っ込むくらいの額だった。



 *


 どうやらサウはタノイとは違って賭けの才には恵まれていたらしい。

「この人たらし」

 じろりと傍らからもの言いたげな目を向けられて、サウは鼻先をつんと上げてそっぽを向いた。

「おや、僕はただ対話を大切にしているだけだよ」

「何が対話ですか。大見得切ってハッタリ上等で、大した度胸じゃないですか」


 奇跡のような出会いというものは、人生そう何度も起こるものではない。少なくともサウの幸運はタノイを見出したことで粗方使い果たしてしまったのだろう。

 虚弱ゆえ即位できるかも危ぶまれるサウに寄ってくるのは、揃いも揃ってろくでもないことを企む輩ばかりである。


「この間来た南の商人のことも、すっかり手なずけてしまったでしょう。どんな手管を使ったんですか」

 二年ほど前の一件以来、丁寧な口調というものを放り捨ててしまったタノイが腕を組む。サウは黙秘で肩を竦めた。――あの商人、どうもお前に似たような態度の悪さだったから、随分扱いやすかったよ。



 サウは窓際で頬杖をついて微笑んだ。離宮は空気が澄んでいるし、眺望も並外れて優れている。こんな良い場所があるのに、わざわざ人の怨念渦巻く都で過ごすことはないだろう。


 重要な用事でも無いかぎり離宮に引きこもり、すっかり都に出てこなくなったサウを、宮廷は半ば見放したようである。きっと、細かな容貌もそろそろ忘れた頃だろう。


 それで良い。

「――僕には、僕の戦い方があるのさ」

 父はサウの暗殺が失敗した後も、まるで何事もなかったかのように相変わらずこちらを見向きもしない。弟は弟で、信望者に囲まれて気炎を上げているようである。



 小さな頃から代わり映えのしない、敵ばかりの人生だ。開けた明るい未来も想像できないし、物語みたいに爽快な勝利を収めることだってないだろう。


 それでも、隣に全幅の信頼の置ける友がいるというだけで、こんな自分の人生でも少しは楽しくなるじゃないか。


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― 新着の感想 ―
[良い点] サウが死んでタノイが身代わりになるエンドを想像していたから良い意味で裏切られた どんどん離れていく姿と共に心も離れていき、でも最終的に違う形になっても共に歩める良い二人でした
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