夜はニガサナイ
暑さに項垂れていた思考がゆっくりと冴え渡っていく。だが、それは季節に相反した清涼さ……語弊がありそうだ。涼しいのは事実だが、清らかと言われると間違いなくそれはない。不思議な話に思われるかもしれないが、涼しい癖にじっとりと湿った感覚は直っていないのだから。
長い階段を、その段差を踏みしめる度に心臓が張り裂けそうだ。訳もなく只ならぬ緊張感が少なくとも俺にのしかかっている。境内にまで何とか侵入すると、提灯だけでなく、本殿内部にまで明かりがついている事が判明した。
―――これで人が居なかったら、それはそれで怖いな。
耳を澄ませて、様子を探る。距離があるので、ここからだと何も分からないか。少し道を外れればそこは砂利が敷き詰められている。音を出さないで歩くのは中々どうして難しいか。
「なあ澪雨。これどうや―――」
「しっ!」
不意に手を引かれ、危うく声を上げそうになる。手水舎は三人で身を潜めるには小さすぎた。俺を引っ張ったのは凛で、彼女は澪雨を地面にねじ伏せつつ、俺を裏側へ。自分だけが身体をはみ出しながら隠れていた。
ザッ。ザッ。ザッ。ザッ。
「――――――っ」
それが夜更かしの醍醐味だと言わんばかりに、俺達は何者かの足音に対して敏感になっていた。男も女も分からない。ただ足音だけは確かに聞こえる。歩幅からして四足動物がどうのこうのという線も無いだろう。澪雨は事情を知りたそうだったが、足音を聞くや両手を口に当てて息を殺していた。
やがて、足音が遠ざかっていく。俺達は互いに、己の行動を説明出来なかった。
これはゲームとは違う。最初から今の足音が敵だと判明しているならこの行動も納得出来るが、今日という日に外出している様な酔狂は、もしかしたら気が合う仲間かもしれない。澪雨も俺も、その視線は自ずと凛へと向けられたが、彼女は頭を振ってから距離を取った。
「も、申し訳ございません。ですが、私達のようにここへ来た訳ではなさそうでした」
「見えたの? この暗闇で」
「ランタン持ってましたからねー。それと変なお面も」
「変なお面?」
「ここの神社にあんなのありましたっけ。えっと……詳しくはありませんが、狼っぽいお面で、顔半分がふさふさしてる感じの」
俺は神社の存在こそ知っているが、初詣も実際の神社に詣でるというよりゲーム内の神社に詣でる事が多いので、その辺りの事情は詳しくない。形から入るというより形だけ入るタイプだ。頼みの綱はお嬢様にかかっているが、その反応は芳しくない。
「知らない。そんなんあるんだ」
「まず神社の物じゃないって可能性はないのか?」
「それだったら、余計危ない人ですよね。それこそ不審者みたいな」
確かにその通りだ。私物の仮面をつけて夜にふらふら出歩いている奴が危なくない訳がない。足音は遠ざかっていったが、警戒する様子もなかったので俺達の侵入を察知したとは考えづらい。巡回か……また何か別の目的があって、たまたま通りがかっただけと思われる。
「な、なあ……俺がこんな事言うのもなんだけど。足音が向かってった方向は分かるだろ。それ、追ってみないか?」
恐怖と緊張で頭がどうにかなってしまったのか。怖いモノ見たさに心が興奮している。まだ物理的な危険に遭っていないせいもあるだろう。自分だけは安全だなんて思っちゃいないが、見るからに危険だと分からなければ何処までも行ってしまいたい気持ちはある。
だって、正体不明は恐ろしいだろう。これに限った話ではないが、災害で逃げ遅れる人間には、まず自分でその正体を確かめたいという人が確実に存在する。俺もその類だ。ゲームではこの傾向が悪さをして、頻繁にやられている。
「ほら、相手が一人だったら今は中探し放題だけど、代わりに逃げ道がないだろ。他にも居たら八方塞がりだし……まず何をしようとしてるかが分かれば、その方がリスクもないと思うんだ」
「うん。いい案じゃん。じゃあそれで行こ」
「澪雨様、少しは悩まれた方が」
「ここまで来たら引き返せないじゃんっ。だったら調べないと。私達は興味本位だけど、あっちは違いそうだから」
「楽しそうですね」
「楽しいっていうか、使命? だって本当に何か見つかるなんて思ってなかったし。せっかくならやろうよ」
「…………はあ。仕方のない人、ですね」
ああ、どちらの気持ちも良く分かる。澪雨は俺と同様にアドレナリンでおかしくなっているし、凛は凛で早く帰りたいのを先延ばされて怠いと思っているのだ。しかし付き人として離れる訳にはいかないだろう。まして彼女は、公園までの道のりで迷った前科がある。一人で帰らせるにはあまりに危険だ。
「じゃあ、行くよ」
「澪雨様。懐中電灯をつけたまま行くのは……」
「あ。そっか。気づかれたら……ね」
用済みになった懐中電灯を消して、足音が向かっていった方を進む。砂利を避けるのはどうやっても出来なかったので、あんまりにも近づいてしまうとそれだけで存在を察知されかねない。距離の保ち方が大切だが、光源を持てばそれだけ自分はここに居ると教える事になる。如何ともしがたい問題は、最後までついて回るだろう。
とにかく少しでも警戒されたらお終いだ。相手は音に向かって確認すればいい。身動きを止めれば一時しのぎにはなるが、何も事態は解決しない。逃げだせばその時点で誰かが居る事には気づかれるので追い回される。
だからとにかく、慎重に。自分でも動いているのかいないのか分からないくらいゆっくりと。互いの息遣いさえ騒音のように聞こえる空間で、俺達は視線だけで文句を言い合いながらゆっくりと本殿の裏側へ回っていく。建物を囲む手すり伝いに進めば視界の悪さも気にならない。曲がり角に達したところで俺達は再度耳を澄ませた。
――――――――――――――――がた、がた。
誰かが、何かを漁っているような物音が聞こえる。至近距離とは言い難いが、この神社の敷地内ではありそうだ。懐中電灯をつけて正体を確かめたいと思う反面、それはあまりにリスクだと理解している。ランタンを持っているそうだが、だとしても第二の光源が現れればそこに視線が行くのは当然だ。
何事もゲームのようにはいかない。砂利とて座り込んでいても僅かな重心の変化がまた音を立ててしまう。それはこの静寂の中で、どのように聞こえるだろう。音の成り行きを見守っていると、また足音が砂利を踏みしめて、俺達とは反対周りに本殿の表側へと戻っていく。
少し警戒をしすぎか、と思った次の瞬間、ガタンと扉を閉める音が鳴り響き露骨な物音は聞こえなくなった。
「……今のうちでしょ、これ」
「他に物音、ないか?」
「あっても行かなきゃっ」
俺から奪った懐中電灯をつけて闇雲に前方を照らすと、昔の厠にも見える倉庫がぽつんと一つ立っていた。誘蛾灯も斯くやとばかりに引き寄せられた俺達は周囲に展開して全体像を観察したが、鍵が掛けられており、中身は確認出来ない。作りは木製なので強引に破壊しようと思えば可能だが―――まあ、今は無理だ。それに適した物も持ってきていないし。
屋根と壁の間には三角形の隙間があるものの、身長の問題で覗くのは難しそうだ。
「日方君。暗証番号」
「は? いや、知らねえよ」
「適当でいいから」
「…………四八九二」
四桁かどうかも確認していないが、外れたようだ。彼女は次いで凛にも番号を求めたが、結局それも当たらなかった。
「……なんか、当たりそうなきがするんだけどな」
「勘はオススメしません。ヒントを探すべきです」
「何処に?」
「…………」
中、とは言い辛いだろう。
本殿へ入るには、正面の入り口から入るしかない。しかし何者かが入ったのを俺達は確認したし、正面につるされた提灯を除けば本殿の中さえも薄暗いのだ。懐中電灯片手に飛び込もう物なら目の前で遭遇するリスクを考えないといけない。
「……しょうがない。ちょっと待ってろ。中を調べてくるから」
「ちょっと。日方君? どうやって調べるつもり? ここに来て単独行動は怠いかんね?」
「別にこの神社防音とかやってないだろ。壁に耳を当てれば少しくらい様子が分かるかもしれない。お嬢様はそこで馬鹿みたいに鍵でも開けてろよ」
「ちょっと、聞き捨てならないんだけど。私も行くから」
「…………これ、ついていく雰囲気?」
結局三人で手すりを上り、本殿の壁に顔を押し当てる事になった。古臭い木造の建物の感触たるや、真っ当にひんやりしている。湿っぽい冷たさとは無縁の、求めていた涼しさだ。これならば多少気分も紛れる。
「…………何か、聞こえるか?」
「いいえ、何も」
「中に人、入ったと思うんですけどね」
無声音で時々やり取りを挟みつつ、注意深く音を拾っているつもりだが、成果がない。不思議な事に先程以降、誰かが外に出て動く様子もなかった。
「…………なあ。もしかして単純に寝泊まりしてるって可能性はないか?」
「うーん…………もしそうだとしたら説明がつかなくない? 仮面とかつける意味ないっしょ」
「そりゃそうだな。仮面は顔を隠す目的があって付けてる訳だから……」
「―――澪雨様。何か聞こえませんか?」
「へ?」
「あ?」
凛の声に促されて、俺達は再度壁に耳を当てる。
「…………………けて」
「……おい。今の」
「何か聞こえた? 何も聞こえないけど」
「物音みたいな……」
「物音? いや、今のはどう考えても……」
確信を持っているような疑問を捻り、俺は再度音をたぐる。やはり聞こえるのは声だ。そよ風のように小さいが、うわごとのように何かを呟いている。
「……………けて。た…………………けて」
「……助けて?」
女性の声だ。
それも、心が安らぐような落ち着いた声。何度集中してもそんな声など聞こえない二人をよそに、俺は段々とその声に没頭していた。
「す…………けて。た…………て」
「やっぱり助けてって言ってる。聞き間違いじゃないッ」
「……ねえ、マジでそんなん聞こえないんだけど。本当に?」
「私にも何も」
「嘘なんて言ってねえよ。ちょっと待て。分かった。そうだ。あっちから声が聞こえるならこっちからも声が聞こえる筈だ。もしもし。もしもし?」
軽く壁をタップして声の主に呼び掛けてみる。二人は俺を止めようとするが、助けを求められているのに見捨てるのはどんな人でなしだ。俺にはそんな真似、出来ない!
「助けて」
声が近づいてくる。
「助けて」
「たすけて」
声が。
「タスケテ」
近づいて。
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン!
内側から夥しい量の壁打ち音が聞こえて、俺の意識は壁から引きはがされた。この静かな空間でそれはあまりに響きすぎる。
「な、何!? 何なの!」
「逃げましょう、澪雨様!」
本殿の中から大量の足音が降りてくる。下りて、離れて、近づいて。今にも裏へ回ってその正体を確認せんと迫ってくる。俺は呆気に取られて動けなくなっていた。己の行動を顧みる暇もなく、ただ大きな物音に尻餅をついてどうしていいか分からない。
―――。
「何してんの、とっとと逃げなきゃ!」
「…………」
ゴッ!
強烈な頭突きに意識が震える。それでようやく手放された意識の手綱が戻ってきた。目の前には澪雨が居て、その手には全開の懐中電灯が握られている。
「早く!」
「あ、ああ……!」
手すりを抜け、俺達は階段とは反対の石垣を滑り降りる。隠密などという概念はない。下に降りてから振り向くと―――幾つもの人影が俺達を見下ろしていた。