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尊き姫の名前は

 名前はあった。

 澪雨が分かっていれば十分なので、井戸を脱出する。これも不思議だが、帰りの液体には浮力だけが存在していた。羽のように軽くなった身体で飛び上がり、息を整えるまでもなく校内の敷地に侵入する。

 口なしさんと出会った教室は三―E。

 そこでもう一度。今度は答え合わせだ。これが間違っていても構わない。ただ試す価値だけはある。どうせ特別信用していい当てはないのだから。





来た」「ようやく

遅い」「本当に





 そして、三度目の邂逅。

 今度は姫様の助けは期待出来ない。澪雨は「あれが……」と身構えて、腕を前に突き出した。

「モノカゲヒト……!」

 人を模したシルエットは、足先を溶かして校庭全体に及んでいる。まるで背後はがら空きだが、背中を見せれば殺される確信があった。影はいつにも増して不安定で、ほんの少しの風が吹いても崩れそう。なのにどんな凶器よりも鋭利で、危ない。

 

 ギギギギギギギギギギギ。


 歯軋り。

 歯軋り。

 モノカゲヒトのシルエットはいつしか不釣り合いに肥大化し、巨大な顔のようになっていた。暗闇の中からぎらりと光る巨大な歯は。歯というより刃だ。鋏や針や刀や矢と言った、およそ刃物の要素を持ち合わせた物だけで構成されている。それでようやく、この歯軋りが耳障りな原因を知った。黒板に爪を立てる音と同じだ。人には不愉快になる音がある。俺にとっては金属の擦り合う音がそれに該当して、その音があまりにも生々しいから歯軋りと誤認したのだ。


」あ「ア「あ「あああああ「あ「あ「あ「あ「あ「あ「あ「あア゙ア゙ア゙


お腹空いた」「ご飯だから

腹ペコで」「ずっと

食べたかった」「大好きな





「   ア   ナ   タ   」





「澪雨!」

 足が竦んで動けない彼女を引っ張って、校舎の中へ。泳ぐように移動するモノカゲヒトに対して俺の全力は対抗出来ない。距離が縮まっていく中で、しかし。

「―――【食べて】!」

 頼もしい友人が正気を取り戻した。モノカゲヒトに群がる無数の蟲は恐れを知らず怪物に食らいついていく。その隙に鍵のかかっていない昇降口を突破して、何とか職員室まで逃げ込んだ。

「…………澪雨。このまま殺せたりするか?」

「む、無理だと思う。日方のお姉ちゃんを呼ばないと」

「そうだ、ネエネなら反応しそうだ。呼ばなくても…………でも困ったな。適当に入ったからここまではいいとしても」



 学校の構造が変わっている。



 非世界はもううんざりだ。人様の許可もとらずに違法建築ばかりして。これだから現実に選ばれる事はないというのが何故分からない。

「とにかく。三年E組に行こう。もしアイツが途中で襲ってきたらお前しか頼れない。頼んだからな、澪雨」

「任せて! 死んでも日方には手を出させないんだから!」

 むんと張り切る彼女の、なんと頼もしい事だろう。無我夢中になって部屋に入ったが、昇降口を突きあたって直ぐの教室は決して職員室ではない。もう迷い込んでいる。裏を返すと、中から見える外の景色もまるっと変化していて、例えば左の扉は入って来た方向なので昇降口に続く廊下が見える。右側は、教室だ。

「行こう」

 教室から教室に移動するのは奇妙な感覚だ。入った場所は一年C組。あろう事か扉は一方が外の体育倉庫、もう一方が真っ暗で良く分からない。

「……ちょっとここを調べよう。流石にこの二択はやりたくない」

「早く行かないと追いつかれるんじゃないの?」

「いや、開け放たれてた場所は幾つもあったからな。相当運が悪くなかったら来ないと思う」

 なので、外に行くのは論外となる。窓の景色はいつも通りただの外だ。全部が全部変わっている訳でもないというのが実に厄介である。

「……日方! ねえ、ちょっと机を見て欲しいんだけど。中!」

「中?」

 適当な机の棚を覗いてみると、そこには体育館が見えていた。驚いて、仰け反った身体が椅子に当たった。 

「痛いッ。……何だこれ、どうなってるんだ? ここも入り口って事か?」

「保健室……かな。誰か居るんだけど」

「何!? 見せろ、ちょっと」

 机を横に倒して、二人で棚の中を覗き込む。視点としては俯瞰していて、ベッドに見覚えのある人物が横たわっていた。

「は……お母さん!?」

 思わず声を荒げると、目を覚ました母親が俺の方を見つめて、一言。




「みつけたああああああああああああああああああ!」





「うわああ!」

 顔半分を蟲に喰われ、朽ちかけていたのに。母親が向けるその瞳は狂気を孕んで俺を見つめていた。見つけられたからってどうという訳でもない筈だが、危ない気がしてきて、俺は慌てて次への行き先を探す。

 ロッカーが、印刷室に繋がっていた。

「こっちだ、澪雨」

「私たちの事、探してるのかなッ」

「そうだよ、何でか探してるみたいだ! じゃあ最初から探しててくれれば心の準備も出来たのにな!」

 印刷室の扉は一つだ。他に行き先がないならそこを開けるしかない。向こう側の景色からして、トイレっぽい。窓から先は理科室になっており、理科室の扉は開け放たれていた。

「どっちに行きたい? あ、ロッカーは閉めておけよ。もし追ってきたらまずいから」

「理科室、なんか危ない気がする」

「奇遇だな。俺もそうおも―――」

 印刷室の数少ない障害物である書類の棚の後ろ。咄嗟に澪雨を抱きしめて隠れたのは間違いじゃなかった。瞬間、窓が破壊され、無数のガラス片が印刷室に散乱。背中の方から無数の歯軋りが聞こえてくる。


 ギギギギ    ギギギギ

     ギギギギ    ギギギギ


 歯軋りが遠ざかっていく。窓は割れたままだが、一命はとりとめた。

「…………もう来たのか。遭遇したらやばいな」

「と、トイレに行こうよ」

「そうだな」

 扉を開けて、トイレへ。小便器があったので男子トイレだ。入り口と、窓。窓の方は階段の踊り場に繋がっているらしいが、入り口の方は屋上に繋がっている。どちらも、あまり行きたくはない。

「ね、ねえ日方。鏡の中から男の人が見つめてる」

「俺だろ」

「日方なら別にいいんだけど……全然違う人」

 危機感を抱いていいかどうかが分からない様子。俺も覗き込んでみると。




 父親が、立っていた。



 その手に、中華包丁を持って。肩から腰までの切り傷から、蟲を吐き出しながら。

「げっ」

 だが今度は向こう側からは見えていないようだ。彼は手当たり次第にトイレや洗面台を切りつけた後、俺の名前を叫びながらトイレを後にする。


 程なく、入り口の方からスニーカーの足音が聞こえて来た。


「ええ、ちょちょちょちょちょ」

「こっち!」

 澪雨は機転を利かせて窓を開けると掃除用具入れの中へ俺を手招きした。ロッカーを通過した時も思ったが、彼女の胸が大きすぎて二人で入るには窮屈だ。今度は同居人の掃除用具に音を立ててもらっては困るので、身動き一つ取ってはならないどころか、呼吸も悟られるのは駄目だ。

「日方、私の胸!」

「はあ!? ちょ、な、いやお前。そんなバカな話が……」

「Hカップあるから大丈夫! 七愛が言ってた!」

「アイツ何言ってんだ!」

 しかし選択の余地はない。階段から逃げても、今度は次の選択肢を最速でやり過ごさないと。下心は全くないにしても、この手段だけは男として取りたくなかった。命には代えられないのだが。




「悠心ああああああああああああああああああああああ!」



 男子トイレに聞きなれた怒号が飛ぶ。想定通り澪雨は胸で俺の呼吸をせきとめ、俺は視界を潰された状態で澪雨の口を塞いでいる。絶対に物音を立ててはいけない都合上、彼女の方の足は俺に組み付いてもらった。

「……………………」

「……………………」

「お前があ゙! お前がごんな゙事じなげりゃああああああ! ごろず、ごろじてやる゙ぅぅぅぅぅうぅ!」

 ごぼごぼと口から何かを吐き出したまま、嵐の様に父親は窓を超えて行ってしまった。完全に音が聞こえなくなった頃を見計らって、俺達は用具入れを脱出。これで階段の方へ行くのは死にに行っている。逆に入り口の方へ向かうと、澪雨はまだ一人で顔を赤らめながらモジモジしていた。

「今のは努めて忘れてくれ。緊急避難だったろ」

「…………」

「おい! 俺が提案したみたいな空気出すなよ! したのお前だぞ!」

「…………そ、そうだけど、さあ。日方と一つになったみたいで……なんか…………凄く……」

「んな事言ってる場合じゃないだろ。何でお前が緊張感がないんだよ。お前にはあってしかるべき―――」


 否。

 緊張感が無かったのは俺の方だ。

 澪雨が倒れるまで、その事に気が付かなかったのだから。



























 自己保存の本能という奴だろうか。死ぬ間際、人は子孫を残したがると。それで澪雨は殊更に俺を意識した?

 何でもいいが、こんな所で死なせるつもりはない。そして離れるつもりもない。意識を失った彼女を担いで、俺は当てもなく校舎を放浪した。


 ピンポンパンポーン。


『悠心。出てきなさい! 貴方は私達に迷惑ばかりかけて申し訳ないと思わないの!? お願い、死んで! でないと私達が……』

『木ノ比良澪雨を殺せとも言われた! なあ悠心、俺はお前をそんな男に育てた覚えはないぞ。お前のお姉ちゃんだってきっと悲しんでる!』


 なんて、さっきとは打って変わって理性的だが、発言はズレている。二人は俺がネエネと再会したのを知らない様だ。だからそんな、この場に居ない人の口は借りてもいいとばかりに好きな事を言える。逆だ。ネエネはそんな事を言わない。


 その後も何度か放送は続き、俺はあちら側の現状を理解した。


 町内会の人間達が続々と清算で死んでいる事。上から順に、その死因は惨たらしい即死から死ぬに死ねない生殺しまでよりどりみどり。両親はその正にそれで、身体が内側から腐っていく感覚を味わっている真っ最中だそう。

 ただ、その為に俺達の死体が必要という理由は分からない。とにかく上からそう言われたらしい。どんなに情に訴えかけた所で無駄だ。ネエネの口を借りた泣き落としなんて反吐が出る。あんな地獄を味わった人がそんな事を言わないなんて、そんな事も分からないのか。

「……………………………ひな」

「あんまり無理するな。大丈夫。何とか三階まで来たよ。お前が静かだから隠れやすかった。

 背中におぶっていると分かりやすいが、澪雨は呼吸も心拍もなく、止まっていた。それなら少し大きな荷物を持っているだけだ。何度か歯軋りは近かったが、それでも隠れ場所を見繕って避けてきた。

 今は、二階の踊り場に居る。流石に澪雨が重くて、休憩していた。

「ごめん………………私、もう、動けない、かも」

「そうか」

「…………………じゃま、だよね」

「いや、全く。お前を近くに感じられるなら嬉しいよ」

 意識が戻ったので歩き出す。喀血ならぬ喀蟲が俺のうなじ辺りに掛かったが、気にも留めない。ただ一段を踏みしめて、階段を上り切る。

「…………………ひな、た」

「ん」

「…………あれ、なしに。して。日方を、花婿にする、っていう」

 そんな下らない約束を、まだ覚えていたのかと。

 何だか微笑ましくて、笑ってしまう。予断を許さないこの状況で、タイムリミットの迫るこの瞬間で。吐き出された蟲が俺の身体を蝕んでいても、やっぱり滑稽だ。

「…………そうか。残念だな。逆玉の輿になれると思ったんだけど」

「……………………………」

「じゃあやっぱり、俺が花嫁にするよ」

「―――――っ」

「まあ、ここを放り出されたらどう生きていくかも分かんないんだけどさ。って、こういうと普通に軽薄な感じの男に聞こえるな。嫌ならいいんだ。俺には何の……立場もないからさ」

 階段を上り切った。ここは三階。E組は奥にある。

 

するなよ」「ムシ


 消耗した俺を待ち伏せするように、モノカゲヒトが大口を開けて待っていた。その顔に表情はないが、心なしかニヤリと笑った気がする。

「………………くそ!」

 走り出す。追いつかれる事など分かっても走らずにはいられない。少しでも早くあの教室へ。そこはもう行き止まりだが、それ以降はまず辿り着いてからだ。


「―――【護って】」


 蟲は壁となり、モノカゲヒトの足を止める。最後に指示を出した澪雨の手が、ぶらりと力なく脱力した。最後に、人形に書かれた名前を俺に教えて。

「………………絶対、無駄になんかしないぞ!」

 足が、そろそろ、取れそうだ。そんな錯覚をするくらい、疲労が溜まっている。こんな事なら日常的に運動しているべきだったか。過去の自分のだらしなさを嘆いたって、始まらない。走るだけだ。今はそれしか出来ない。

 E組の扉に手を掛けて、飛び込んだ。直ぐに扉が閉まり、またあの時の空気が帰ってくる。



 目の前には、顔の陥没した女の子。



『コノ町ニ潜ム 異ノ正体ハ?』



 これは罠だ。特異か怪異かも見分けがつかず、またモノカゲヒトも隠れてはいるが、奴が隠れているのはこの町ではなく、蟲毒の中。潜むとは内側に隠れて、外に出ていない事。この町一帯の怪異を収めていた存在こそ、相応しい。


「…………『姫』」



『ソノ、名前ハ?』








紅無くれないさま』

 




 それが、あの人に与えられた名前。身寄りのなかった彼女の、存在証明となった言葉。




 校舎全体が、静まり返っている。

 『口なしさん』は消えて。立っていた場所には一冊の手記が置かれていた。ただ紙の束をくっつけただけの古い代物は、名前こそ塗り潰されているがタイトルまでは、隠せていない。

 曰く、それは著者が命を懸けて追った執念。『大好きだった君に捧ぐ』という言葉で締めくくられたその本の名は。






『蟲毒の夜明け』

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