感染末期のパラドクス
そう言えばと携帯に視線を移すと、まだ通話中だった。そりゃそうだ。終了ボタンを押していないなら通話中だ。さっきの会話も聞かれている。耳に携帯を当てて適当な言葉を返すと、向こうから気まずそうな『あー』という声が聞こえた。
『悪い。そんなつもりはなかった』
『いや、いいんだ。それよりも。俺はもうこの町に戻ってきてる。バスで帰って来いなんて言わないでくれ。緊急事態なのはお互い様だ。合流出来るか? 見てもらいたい物がある。澪雨の家だ』
『……壱夏も隣に居る。聞きたい事があるらしいので俺が代わりに聞くが、椎乃と莱古晴はどうした? 近くに居るのか?』
『……………………』
沈黙は、時に否定よりも強い意味合いを持つ。電話口に残念そうな嘆息が聞こえた。
『そうか……いや、いいんだ。お前が見捨てる訳ないのは分かってる。それだけ聞けたら十分だ。直ぐに向かうから待っていてくれ……と言いたいが、蟲が多くてな。俺もコイツも無傷でそっちまで行くのは厳しい。今までは家から家に不法侵入を繰り返してどうにかやりすごしていただけだ。どうも蟲の奴らは、きちんと戸締りされた家には入れないらしいからな』
『同じやり方で来られないのか?』
『難しいな。木ノ比良屋敷は大きいから、その分周りの家とは少し距離が離れてるだろ。俺も蟲に殺されてる奴を見たが、抵抗もままならないんじゃちょっと困るな。困り過ぎて壱夏の方はさっきから嘘みたいに大人しいししおらしいぞ。蟲が苦手みたいだな』
『お前は……大丈夫なのか?』
『もう長時間ここに居ると慣れてくる。ディースって人の家が安全地帯なのも大きいな。それがあるとないとじゃ心の余裕も違う。じゃあまた後で会おう』
電話が切れる。家の方角を見ると、確かに夥しい数の蟲がうねりを形作って波のように揺れていた。俺達の付近は澪雨の蟲が護っているお陰でじっとしていれば危険がない程度だが、これも恵まれた環境だ。
「七愛ってば、大丈夫なのかな」
「……アイツ、ここまで暗躍してるからには対策くらい持ってるだろ。それより澪雨、この蟲をサクモ達の方に向かわせて守るのは無理なのか?」
「……分かんない。蟲が多かったらその分回さないと駄目だし、そしたら今度はこっちが手薄になっちゃう。私の言う事聞いてくれる子は、有限だから」
「巫女としての力を使いこなせるのにか?」
「他の新しい巫女が、それ以上に使ってるみたいだから」
権限の強さは同じだから、と付け加えられる。忘れていたがそんな問題もあった…………あれ。
「じゃあ新しい巫女は誰なんだ?」
「え?」
「お前が非世界に行った事で受け皿が消えて、『感染』が起きた。巫女の交代するタイミングはあのお祭りの最中って事になる。あの時も大量の蟲が居た。それで、巫女と言えば木ノ比良だ。自然な流れで考えればお前のお母さんが再登板したと考えるのが普通だろ」
「…………それは違うと思う」
「何? 巫女と言えば木ノ比良だろ」
「さっきの本の通りなら、巫女としての利権を牛耳ってるのが私の家で、巫女自体は誰でもなれるんじゃないかな。だって昔は『姫』って扱いで適当な人を同じ様にしてたんでしょ」
「―――あっ」
すっかり忘れていた。というより考えが繋がっていなかった。あれはあれ、それはそれで、木ノ比良と言えば巫女の構図が覆っていなかった。そもそも気づくべきだったのは随分前から。惹姫様に澪雨の面影が少しも見えてこない所から察するべきだったのではないか。
だって何の血縁もないのだから当然だ。『姫』時代の犠牲者が惹姫様で、澪雨は『巫女』時代の継承者。そこには何の因果関係もない。たまたま犠牲になったのが姫様で、なるべくしてなったのが澪雨。こんな所にも共通点はない。
「変な事聞くんだけど……凛が巫女って線はあるか?」
「……分からないけど、あの時町内会の皆様やお母様が生きてるなら近寄らせないと思う。七愛って別に、お化けとかじゃないじゃん」
巫女の継承は蟲毒の壺の中に血を入れて、繋がりを作る。一連の行為を独占しているだけで木ノ比良の血が条件という事はない。親族の血の方が繋がりやすいとかそれくらいの理由はあるかもしれないが……アイツがそれを間近で見ているなら実行出来る可能性はある。
だがお化けじゃないという理屈も確かだ。学校にはちゃんと通っているし、澪雨も俺も椎乃も他の男子も全員が見えている。お化けならもっと、歪な出会いばかり繰り返していただろう。
「それに、七愛だったら何となく分かる気がするの」
「分かるって?」
「…………本人は白を切ると思うけど、昔にね。私が辛いって泣いてた時に七愛が壺の中に一滴だけ自分の血を入れたの。私こっそりそれを見てて……巫女としての務めを果たす時の苦しさが、それ以来少しだけ柔らかくなったから」
「…………おい。務めって言うのはあれか。人肉のスープを食べる事か?それとも神社に行ってなんか祈りみたいな事するイベントの事か?」
「どっちも。食べてる時はちょっとだけ不味くないし、祈ってる時もいつもより背中が痛くなかったなって。今思えば、なんだけど」
「…………」
根拠はないのだが。血の繋がりというならこれ以上はない。澪雨の感覚は正しいのではないか。凛が何かしているなら何かしているくらいは気付く。その程度でも今は大切だ。
じゃあ今度こそ、候補が居ない。
『姫』時代よろしく他の女子を生贄に……だがディースの所で見た映像は巫女を選定しているというより新たな蟲毒の壺を作って、それで新たに蟲毒を初めようとしているみたいだ。
「…………あれ?」
「誰か思い当たった?」
「いや……妙だなと思った。ディースの所の映像覚えてるよな。あれはどう考えても、控えめに言って死体を詰めて蟲毒の壺を新たに作るつもり満々だ。多分というか絶対、この状況は『感染』とほぼ同じで、町内会側は新しく蟲毒を始めて事態を収めようとしてる風に思えた」
「え? あ、そう言えば。え? 何で? だって巫女は他に……わ、私、嘘吐いてないよ!」
「この状況で嘘が吐ける奴は凛くらいだろ。巫女が健在なのは俺達から見て明らかで、町内会から見ると不在なのが明らかで……待て。嫌な予感がしてきた。一枚岩じゃないぞ」
広い目で見ると変わらないのだが、町内会とはまだ直接的には敵対していない可能性が高い。彼らは巫女が不在だと思っている。真雨が死んでいた事について知っているかは不明だ。だがとにかく、代わりを用意したい意思はある。巫女が健在なら今までの壺を使えばいいだけなので、本当に、全くのゼロからまた始めるつもりなのだろう。蟲毒のツケは新たな蟲毒で帳消しにするハラか。
ついでに、俺達が帰って来た事も知らない可能性が高い。情報網はガタガタで、ホウレンソウが行き渡っているとは考えにくい。てっきり対決の構図を予想していただけに、今は戸惑っている。
じゃあ誰と誰が戦っているんだと。
「おーい! 悠! 来たぞ!」
考え込んでいると、下の方から声が聞こえて来た。サクモと壱夏が黒衣の女性に連れられて歩いている。案内人たるその人だけが、俺達の現在地を把握して、見上げていた。
「シン。ディース経由で助けに来たよ。約束通り二人を連れて来た」
「ネエネ!」
再会の挨拶もなく、ネエネは戻ってしまった。何でも『モノカゲヒトを捕まえる下準備中だとか』。それは俺達に協力出来ないスケールの話で、暫くはディースにも連絡しないで欲しいと言いつつ、そう言えばそもそも連絡出来なかったねと番号を渡してくれた。
「それじゃ、私はこれで。また会おうね」
そこに物などないかのように壁を通り抜けてネエネが遠ざかっていく。サクモ達は信じられない物を見た様に彼女の後姿を指さしていた。
「あれ、お前の姉ちゃん?」
「そうだけど」
「日方とは似ても似つかんね。アンタの姉って割には美人過ぎるし」
「血が繋がってる訳じゃないからな。でもネエネはネエネだよ。あんまり気にしないでくれ。それよりもこっちだ。蟲の駆除が終わったから、四人で見に行きたい所が―――」
「ちょっと。澪雨の奴なんか―――」
「壱夏!」
本人に気づかれる前に、大声で指摘を遮る。睨みつけられようと知った事じゃない。澪雨の心をこれ以上不安定にさせるのは御免だ。
「何も気にするな。気にしてもどうにかなる問題じゃない。いいな?」
「……アンタにそんな事言われる筋合いはないんですけど。あの子守れなかった癖に」
「いい加減にしろよ鮫島壱夏。お前、少しは悠の気持ちも考えろ」
「はあ!?」
「事情はディースさんに聞いただろ。悠は精一杯やってんだよ。力不足を一番嘆いてるのはどう考えてもアイツ自身。自分の苦悩を投影すんなよ。他の誰も守れなかったのはお前だ。平常点にしか興味が無くて、ただしぶとく生き残ってただけのお前に悠を罵る資格なんてない。少なくとも澪雨は、コイツを信頼している」
サクモが下の方を見て呟いている。何事かと視線を追うと、自分でも驚いたが、澪雨と自然に手を繋いでいた。今更離す理由もないのでこのままだが、彼はこれを見て言ったのだ。
それと、告白を聞いたからかもしれない。
「何よ……その言い方。ただ死にたくなくてもいいでしょ。私は…………ああもう。もういい。私が悪かったから。何の用?」
「見ての通り、木ノ比良屋敷は壊れたし蟲も駆除した。澪雨も知らない地下室があるみたいだから一緒に見に行こうと思ったんだ。そっちの事も色々と知りたいし、いいよな」
二人は顔を見合わせて、頷いた。
「まあ、生き残る為だし」
「俺も、首を突っ込んじまった。お前に比べたら遅すぎるけど、協力するよ」
決まりだ。
澪雨に連れられ、俺達は映像で見た地下室の階段を探す。平地となった場所を探すのに苦労はしない。庭の隅にあった小屋に足を踏み入れると、小屋自体がダミーで、扉を開けた瞬間から階段になっている様だった。映像の細かい所は覚えていない。
「よし、行くぞ」




