見えない明日に希望を見る
いつまでも水着姿という訳にもいかないので、上着と言わず今度こそ本当に着替えた。『死装束になるかも』と縁起でもない理由を盾に、好きな服を持って行っていいと言われた。男用も女用もあるのはディースの趣味というより、彼の性別を女にした不届き者のせいか。お陰で服選びに戸惑う事もない。
だが悲しいかな、木ノ比良の巫女にはそのような経験がない。思い返すと制服姿か着物姿かの二択であり、自由がないのを嘆いていた事からも、そんな経験を得る事はなかったと思われる。それで俺だけ普通の服に着替えるのも申し訳ないので。
こうなると、制服しかない。
「うん。見慣れた感じだな
「制服を選んだか……ま、それもありだ。君達二人は学生なんだから、最期も学生らしくしようという事かな?」
「ディースさん。お願いがあります。私が戻るまで、この水着は保管しておいてください」
「それは言われるまでもないけど。またどうして?」
「それ、七愛が私にくれた物だからです」
澪雨はその立場から、自らが素を出せる人物に対して全幅の信頼を寄せている。俺の進言も影響しているだろうが、それでも大部分、彼女も本心ではアイツあ裏切ったとは思っていない。ディースは満足に頷いて、玄関を開けた。
「友達思いな巫女様で結構結構。さ、行っておいで。無事に終われば、その甲斐には旅行でも手配しよう。それで大好きな彼と二人きりの時間を過ごせばいい」
「ち、ちが…………日方とは、そんな関係じゃ!」
「実際違う。緊急事態だからって嘘言っていい訳じゃないぞ」
「気楽に行こう。過去の清算が済めば、次は未来に目を向ける時間だ。どの道蟲毒が終われば君達は行き場所を失くす。それくらいはお世話させてくれよ」
扉が閉まるその時まで、ディースは笑顔で俺達に手を振っていた。蟲毒の完全なる解呪。それがどんなに難しくても二人なら出来るさと信じて。そこまで言われたからにはやり遂げなければならない。
辛気臭くなる必要はないなんて。そんな当たり前の事。この緊張状態ではすっかり忘れていた。
「―――蟲毒終わったらさ、何処行きたい?」
言い方は軽薄だったが、彼の言いたい事は分かる。俺達が犯人とされてもされなくても、ここは注目されるか、『組織』の管理下に入るだろう。いずれにしても俺達はここを追われる事になる。その後どうするかを考えるのは確かに大切だ。野宿も放浪もしたくない。ただ支配から逃れる為だけの抵抗は、展望と呼ぶにはあまりにも後ろ向き。
澪雨は歩きながら、んーと声をあげて考え込む。案の定、何も考えてはいないらしい。籠の中の鳥に外に羽ばたいて何処へ行きたいと問うようなもので、今までは益体がなかった。こういう反応も当然だ。
俺達が向かっている先は、澪雨の家。サクモ達と合流する事も考えたが何の目的もなく集まっても、単にリスクを負うだけだと思った。それよりも情報を集めて、出来る事とやりたい事を把握してから人数を増やした方が効率的だ。そして蟲毒において核心的な情報を握っているのはあの家になる。
曰く、澪雨が入ってはいけないとされた部屋は数多く存在するらしい。『絞蛇の印』を初めて知った時は書斎を漁ったのだったか。
「お前が入った事ない場所ってのは、凛も入った事ないのか?」
「うん。ないよ。まず鍵が掛かってて入れないんだから」
「でもアイツならそれとなく鍵をパクって開ける事も可能じゃないか?」
「それは否定しないけど、鍵の所在がそもそも分かってないの。お母様かお父様のどちらかが持ってると思うんだけど……やっぱり分かんない」
「情報アドバンテージがないから動きようがないのか。それなら流石のアイツも難しいか」
「難しいって言うか出来ないと思う。ピッキングみたいなのも出来るけど、錠前がなんか変な感じだから普通に開けられないって前言ってた」
「試したのか……」
凛なら試すという謎の安心感がある。話の流れから察するに澪雨が一度頼んだのだろう。それで無理だったから、入った事ないと断言出来る。筋の通った流れだ。家に近づいて行く内に蟲が露骨に増えてきた。ゴキブリよろしく壁や床の罅から出入りする蟲を全て躱すのは難しいだろう。踏み潰して進もうにも、この群体には明確な敵意がある。
「日方、止まって」
言われた通りに歩を止めたと同時に前方の壁が崩壊。ムカデやら蟻やら蜘蛛と言った生物が一斉になだれ込んできて俺達の道を塞いだ。それさえ出来れば後は襲い掛かるだけと言わんばかりに包囲網が狭まっていく。
澪雨が手を翳し、呟いた
。
「【食べて】!」
自覚的に能力を使いこなせるようになった彼女の意思に、蟲毒は応える。彼女の影から泡のようにせり上がって来た無数の黒い虫は広がるように全方位へ展開。はやる気持ちを抑えきれず飛び込んできた蟲をも捕まえて、包囲網に風穴を開けた。
「今の内だよ!」
「お、おう。助かった!」
或いはそれが火蓋となって町中から蟲が俺達に向けて集まってくる。澪雨の使役出来る蟲には限度があるようで、これでもやはり防戦が限界だ。出来るだけ層の薄い場所を通って、目的地へと進んでいく。
「私ね、旅行したい」
「え?」
「もし自由になれたら、海の果てに行きたいな。果ての果ての、そのまた果て。誰も行った事ないような場所に行きたい。冒険がしたい」
「…………そうか。じゃあ、早く終わらせないと」
果たしてその願いは、己が現状を理解した上での物だったとしても。俺は決して嗤わない。野暮な注意もしない。綺麗な願いに憧れた。蝶よ花よと育てられ、ムシカゴの中で生涯を終える筈だった澪雨が、ただ一つの未来を口にした。
これを、愚かとは言わない。
これを、妄想とは切り捨てない。
これを、無意味とは頷かない。
希望に満ちたその言葉は、なんて誇らしい。
「夜更かしは、身体に毒だもんな」
思えば木ノ比良家にきちんと足を踏み入れるのはこれが初めてだ。いや、正確にはまだ門の前に立っているだけ。祭りの時然り、ここには蟲が密集していて足の踏み場もない。もし踏み場らしき瞬間が見えたなら誘い込まれているだけだ。足を出したが最期、蟲は骨も残さず俺達を食べ尽くす。
「これ……大丈夫かな。私の力でも家の中に入るのが精一杯なような」
「…………」
「日方?」
「いや、何でもない。外から様子を見よう。それ次第だ」
壁の方にライトを向けて、何故蟲が壁から動こうとしないのかを知ってしまった。いつもいつも非世界の暗闇の中では中途半端な性能しか発揮しないライトだが、この家に限ってなぜ通常通りの性能を発揮するのか。
家の壁には、生徒や青年会の人間と思わしき死体が雑多に貼り付けられていた。蟲はそれを食べる為にくっついて身を寄せ合っているのだ。
「……駄目。天井の方も蟲で一杯。それと……寒い」
「あ? 寒い……?」
「神社の中に入った時みたい…………」
そう言えば、何故神社の中だけああも冷たかったのだろうか。
そういう物と捉えて考えなかったが、非世界だから冷たいという訳でもなかった。根拠も確証もないが、この時点で考えられる仮説は一つだけだ。あの時は中にモノカゲヒトが居たから冷たかった。
そもそも一度入って以降は極力立ち入ろうとしなかった時点で、これは仮説の域を出ない。だがもし当たっているなら、ここからは休まる時を見失い、俺達は最後まで突っ走る事になる。
「澪雨。家の中に入るまでは確実に出来るか?」
「うん。出来るよ。ただ帰りは難しいと思う。足の一本くらいパクってされるかな」
「よし」
町を地図のように俯瞰出来るらしい澪雨を差し置いて様子見など立ち止まっているのと同じだ。彼女の手を引っ張ると、俺は無謀にも玄関に向かって突進した。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
「きゃあああああああああああ【食べて】!【殺して】!【潰して】!【防いで】えええええええええええええええええええええ!」
涙目になりながら最後の権能を振るう澪雨。扉にも蟲は張り付いているが、硝子張りだ。鍵がかかっていてもガラスを破って裏から開ければ無問題。
「邪魔だああああああああ!」
これも勢いで突破。自覚的に力を使える今の彼女なら、あの時みたいに俺の傷を治せると踏んだ。何の疑いもなくそう信じ切っていたからこそ―――ガラスを割ってしまうような、自己保存を顧みない全力を出せたのだ。
「え! ちょ……!」
映画のスタントとはわけが違う。硝子を素手で破れば痛いに決まっている。手は血塗れになって鍵ノブを捻るのにも苦労したが、何とか開錠に成功すると共に肩で当たって侵入する。身体にまとわりついた蟲は、澪雨が追い払ってくれた。
「日方! すぐ直すから、ちょっと待ってて!」
「そう来なくちゃな。信じてたぞ澪雨」
「……うん。私もずっと、こうしたかったんだと思う」
その意味を、俺は知る事が出来ない。
十秒と経たずに治療は終わり、改めて居場所を確認する。
ここは木ノ比良家、その玄関。町内会の集まりとしても使われており、突き当たって右が集会場だと正面の地図にも描かれている。公共施設としての側面もあるようで、左手は書庫。斜め左がトイレ。そして階段を上った先が木ノ比良家の居住スペースになっている。歴史を感じる木造建築は、老朽化の波に晒される事もなく、まるで新品の木を加工したように木目も細やかだ。『災害』を取り除いた影響で、老朽さえ無視していたのか。思い返すとシロアリの話も、家屋倒壊も、火事も、聞き覚えがない。
ここはまだ単なる玄関だが、そんな側面もあってか靴を置くスペースには事欠かない。三〇人分は並べるであろうスペースと、その倍はありそうなスリッパがこの地における木ノ比良の偉大さを物語っている。少し家具を置けばここも部屋みたいなものだ。俺の家のどの個室よりも広い。
「澪雨。地下は?」
「地下は……鍵が掛かってる。とても大切な場所だってお父様は言ってたけど」
「そのお父様は?」
「え、知らない……」
「誰も居ないぞ、ここ」
気配なんて曖昧な物を探らなくても、蟲の蠢く音を除けば無音で、誰の靴も残ってなければスリッパも減っておらず、彼女の言った通り、不気味なくらい冷たい。常に氷で表面を撫でられているみたいだ。
ここまでの材料が揃えば、幾ら俺でも断言出来る。ここはとても大事な場所の筈なのに。
誰も、残っていない。




