最愛のひと
「何で俺がこんな事……」
「殴ったじゃないですか。これくらいはするべきですよ」
「こゆるちゃんも、女性は無条件に殴っちゃいけないと思いますか?」
それならそれでいいのに。里々子には見放してもらいたい、どうか俺の事など忘れて遠くの場所で適当に幸せになってくれ。関わらないなら俺も何もしない。日方悠心という人間がどんなに最低かを先程からずっと教えているのにこの仕打ちか。
「そうは言ってませんよ。骨がイってたと思いますから、反撃しても無理のない事です。誰もここで死にたくはないですから。だったら気絶したその子を置いていくのも筋違いですよね」
「…………あの。気のせいじゃなければいいんですけど。こゆるちゃんこいつが」
「その話は駄目です。この状況で何が危ないかを弁えてください。お願いしますね?」
気のせいではなかった。こゆるちゃんは里々子が居る前で込み入った話をする気がない。
気絶しているのだから万が一にも聞かれる可能性はないと思うのだが慎重が過ぎる。もしもこゆるちゃんまでもが里々子を『核』と疑っているなら……複雑な気持ちだ。喜平を殺してから、俺の選択肢には常にそれがちらついている。手を伸ばせば簡単に届くような位置に残ったままだ。本当に里々子が偽物ならそれでいい。だが、偽物じゃなかったら? ただ嫌いな奴を殺しただけだ。俺にとって殺人が日常風景ならスッキリするだろうが、まだまともなつもりだ。よって綺麗ごとを一切抜きに、それでも殺人は嫌だ。嫌いな奴を殺した感触が一生つきまとってきたら嫌だろう。何で俺が、嫌いな奴の為にそんな事しないといけない。
「そう言えば―――」
非世界を抜け出す為にはこゆるちゃんと話さないといけない。そのためにはまず、意識の有無をハッキリと確認する事が大切だ。独り言のつもりで話しだしているが、これは背中で眠る里々子に振っている。
「前もこんな事あったよなあ。何だっけ、もう覚えてねえや。お前との思い出は……腐っても初恋だからさ、忘れないつもりでいたんだけど。最近は色んな事があって、どうでも良くなってきた」
「……………」
「お前みたいな奴を好きになったのは間違いだと思ってた。いや、違うな。間違ってたけど、必要な間違いだ。お前と出会わなかったらこうはなれなかった。澪雨も凛も、もしかしたらアイツ等とだってもっと違う関係になってたかも。お前との記憶を思い出したくなくて、自堕落にゲームしてた。お前は許してくれなかっただろうな。ゲームするだけの彼氏なんて見栄え悪いもんな」
「…………」
「殴って済まなかった。もっとその前にやるべき事があったよな。俺はお前のその明るさとか、自信に溢れてる所とか、庇護欲をそそる感じが好きだったよ。お前はさ―――一体俺の何処を好きになって、彼氏にしたんだよ」
もぞ、と背中が動く。作戦は成功したが、俺が里々子に聞きたかったのは正にそれで、答えさえ得られるならあらゆる気持ちにケリが付けられる気がする。肩にかかっていた腕が動いて、俺の顎を掴んだ。
「………………ふふ。好きだった所。そうね。そうだな~」
「昔はなかったよ」
しっかりと返答してくれたので、もう配慮する必要はない。殆ど投げ出し気味に里々子を解放すると、当たり前に尻餅をついて不満を漏らしていた。
「いったーい! もっと優しく降ろしてよー!」
「起きた奴に優しくする必要はないと思った。で―――その話は本当なのか。お前は好きでもないのに俺と付き合ったのか?」
「また言い争いですか……?」
「だって、あの時の悠心の何処に惚れる要素があったの?」
こゆるさんは文句を言いつつ事の成り行きを見守っている様子。あまり口を挟む気はないらしく、外野の身分を弁えて周辺の警戒に当たっていた。どんな思惑があれ賢明な判断だ。当事者の俺が言うのもおかしいが、ここでいつまでも軋轢が残っていたら、解消しないままだったら事あるごとに口論になって足を引っ張る。どうせ始まる口論ならここで完全決着させた方が全員の為だ。
「彼氏にしたのは、必死だったのがなんか可愛かったからだよ! あ、でも今は大好き! なーんかさ、あの凛って子が彼女になってからか知らないけど、今の悠心ってすっごく私好みッ。良く分からないんだけど、今はかっこいいよ!」
「…………隣の芝生が青く見えてるだけだろ。口でなんて言っても、お前は俺を振った事まで分かってるんだ。今更取り返しなんてつかない」
「違うよ悠心。これはね、栽培みたいな物なの。悠心っていう植物を育てる為に私が色々やったの。自分一人で世話してても良い実りは期待出来なかったけど、質の良い肥料を使ったら無事収穫的な? だから悠心は今までもこれからもずーっと私の彼氏なんだから! あんな女はここから出たらちゃっちゃと捨てちゃって?」
「………………可哀そうな奴だな、お前」
凛を馬鹿にされて頭に血が上るでもない。俺は、元カノの本質に気づいてしまった。本人に教える義理はないが、俺の事が好きじゃなかったという事なら、こんな幸運はない。一方的に未練を持っていたのは俺だけだったらしい。こんな茶番は、こんな初恋にトラウマを持つなんて馬鹿らしい。こゆるちゃんも待たせているし、今度こそかつて俺がやるべきだった事をやろう。
里々子に向かって一歩踏みしめると、視線やや上方に二人を遮る物体が何処からか割り込んできた。口論をよそに里々子と二人でそれを照らしてみる。
「……風船?」
黄緑色の風船が浮いている。それ以上でもそれ以下でもないし、語るべき事もない。強いて言えば持ち手となる糸が赤で着色されている事くらいだ。こゆるちゃんに向けてこの風船を尋ねようとして―――気が付いた。この風船が何処から来たのか以前に、廊下一帯に数多の風船が浮かんでいるではないか。
「え、ちょ。なん。だ?」
沢山の風船は、ただそのカラフルさで以てファンシーな雰囲気を形作る。風船の海を想像してみれば、こんな愉快な場所は他にないと子供の頃は思った筈だ。沢山の風船に囲まれたとして、それが特別影響を及ぼす事はないかもしれない。しかし囲まれるだけでも世界は非現実にすり替わり、子供心は遥か空想の彼方へ飛び立つものだ。
ともすれば童心に返りそうな状況、しかしここは暗闇で、ホテルで、非世界だ。あらゆるイレギュラーが俺の心に警告を打ちに来る。文字通り、浮かれている場合ではないと。
「これ…………変な風船ですね」
「変……?」
風船を貰った経験のある人間なら理解出来るかもしれないが 手を離した風船は天井に張り付いてしまう。経験が無くても風船を飛ばしてしまって泣いた子供くらいは見た事ある筈だ。物理法則に基づくならこれらは天井にくっついていないといけない。実際はどうだ、天井にくっついているのはごくわずかで、殆どの風船が当てもなく漂っている。
「変なの。良く分かんないけど、一個くらい貰っても大丈夫だよね!」
「――――――駄目です、触っちゃ―――!」
ピンク色の風船を里々子が掴もうとして、それを弾く様にこゆるちゃんが風船を掴む。
ザシュッと。
今、目の前の光景を、正しく、精密に、理解する事は不可能だ。こゆるちゃんの手が消えて。いや風船から牙が生えて、持ち手の端から端までに噛みついて。違う。あれは赤色じゃなくて血液の、ちがう。ちがうちがうちがうちがうちがうちがう!
持ち手じゃなくてあれは舌だ。舌に触れた手が絡めとられて、食べられたのだ。手を弾かれた里々子は尻餅をつきながら呆然と先の光景を見つめている。まだ理解が追い付いていないか。こゆるちゃんが急に左腕を食いちぎられてその場に崩れ落ちたから。幸いにも俺は傍観者の立ち位置だ、肉の味を覚えた風船は声なき声をあげて苦悶するこゆるちゃんに群体を伴ってゆっくりと集まっていく。直ぐにでも行動しなければ風船に埋め尽くされ、間もなくみんなのヒロインは無残に食い散らかされるだろう。
「こゆるちゃん!」
「―――! ――――――!」
置いていけ、と言っている。
「置いていくわけない! 里々子、逃げるぞ!」
「え……………………あ、で。え? え? い、いま。こゆ……」
「顔青くしてる場合か! 食い殺されるぞ!」
舌に触らないように屈みながら里々子に手を伸ばす。こゆるちゃんを脇で抱えようとするとどうしても俺だけの力では難しい。かといって今は、どちらかを見捨てる気にもならない。
『儂のかいなを使エ』
何処からともなく響いた声を信じてもう一度彼女を抱える。七本の腕が、今度はしっかりとこゆるちゃんを抱えた。
―――行けるか?
廊下に溢れた風船の群れ。幸い部屋に侵入している様子はない。風船は血の臭いに反応している様に見えるのでちんたら動くのも駄目だ。最短距離でたまたま開いている扉は―――真正面、エレベーター。淡い光と共に、レースアップの白い水着が闇を通して尚眩しい。
「日方、こっち!」
「澪雨!? お前」
考えるよりも早く。言葉よりも先に。足を動かして二人を引っ張る。進路を阻む風船の群れは、床から吹き上がって来た無数の蟲を食べるのに精一杯で、俺達の肉まで届かない。澪雨が扉の先に手を伸ばす。手持無沙汰になっていた俺自身の腕でそれを掴むと、二人を巻き込んでエレベーターの中へ。再会の喜びもあとに、一先ず扉を閉じて安全を確保。
とはならず、エレベーターは勝手に下りだした。




