全能善意に悪意が満ちる
章終わりです。
蟲。
それは人の業。見なかった事にするべき悪意。煮詰められた醜悪。俺達が身勝手にも願ってしまった想いが、見るだけでも嫌悪感を催す蟲となってこの町に溢れている。綺麗な町などとんでもない。この町ほど醜い場所はない。
都心が人気である理由は、欲望に満ちているからだ。地方では見る影もない、知る事もなかったものが、その良し悪しを抜きに存在する。この町はそれとはまったく別ベクトルで、やはり同質。叶う筈のない願いが叶ってしまう。科学を無視して、道理を嗤い、信じる心が奇跡を生み出す。
だが、無から有は生み出されない。
澪雨の孤独と引き換えに、この町は繁栄している。
「…………」
痣が痛い。蟲が身体を埋め尽くしている。だがそれだけだ。ムカデの指輪が軋みをあげるようになってから蟲は俺に対して害をなしてこない。身体にまとわりついてくるだけなら害ではない。身体を喰われないならそれでいい。
「澪雨…………何処だ…………澪雨……!」
この町が自業自得によって崩れてしまう前に。澪雨が壊れてしまう前に。助けないといけない。誰もが納得出来る理由なんて存在しない。俺はただ、アイツを止めたいだけ。この町の殲滅なんて最悪だ。ネエネが出来るかどうかは問題じゃない。その選択肢を取らせてしまう事が駄目だと思っている。
「澪雨か!」
握り締めた手の中で、何匹もの蟲が潰れた。嫌悪感を先走らせている場合じゃない。ここに居るというなら探さないと――――――
『お母様、これは?』
『これは貴方に巫女としての役割を継がせる為の大事な儀式よ。ちゃんと、私から受け継いでね。これからは貴方がこの町を護るの』
「…………?」
きお、く?
潰れた蟲の残り香から、仄かに彼女の過去が流れ込んでくる。
『いたい! せな…………かあああああ! あ、ああああああぐぁぁあああ!』
『私も我慢したの。貴方も我慢するのよ。この子、座敷牢に放り込んでおいて』
『おか、おかあ…………』
『私に触らないで! 毒が移ったらどうするの!』
木ノ比良澪雨は―――否、彼女は巫女としての役目を継ぐ為に自らの血を壺の中へ注ぎ、縁を繋いだ。溢れた血を適当に止血され、痛みで声を上げる事もままならなくなった彼女の隣に唯一居たのが、凛。
『澪雨様。大丈夫ですか?』
『………………』
『止血し直します。ご心配なさらず、もとより七愛家は当代の巫女に仕えるのが役目。たとえどんな姿になっても……巫女である限り、私が護ります』
たとえそれが役目だったとしても。澪雨にとっては凛が唯一の味方だった。生真面目で冗談が通じなくて、でも誰よりも優しい女の子は、澪雨の為に服装も性格も偽ってまで、俗世を教える為に自分を変える。
「澪雨…………凛は……お前を心配してたぞ……手間かけさせるなよ……親友なんだろ! アイツを悲しませるなよ……立場なのかもしれないけどさ。お前にとっては…………なあ!」
蟲の壁を切り裂いて、固い感触に手を伸ばす。ただそれは、人の骨だった。それも蟲の巣穴にされる真っ只中の塊。生態なんて関係ない。蟲毒は無条件に人を蝕む。
『…………どうして何も与えてくれないのですか? 食べ物も飲み物も。巫女としての務めは理解しておりますが、空腹が……』
『どうしても食べたいか。ならばこれだ』
『…………なんですか? この赤いの。凄い臭い……』
『辛いのは凄く分かるわ、澪雨。悪い事は言わない。これを食べなさい? 三年もすれば気にならなくなるわ』
『……………………はい』
毎年行われていた祭りの中、彼女が牢に閉じ込められている間に食べられたのは赤いスープ。大量の香草で悪臭を誤魔化した、まるで食用には適さない肉の塊。素人目にも、食べれば寄生虫や病原菌を体内に取り入れてしまう様な、最悪の人肉。
何故分かるか? 澪雨は気付いていたから。気づいていて、知らないフリをした。両親の言う事は絶対。味方である筈の凛にさえ無知を貫いて。ゲロを吐きながら、涙を流しながら、腹部に覚える痛みに蹲りながら、背中の焼け付く痛みに悶えながら。手掴みで食べていた。
『七愛……お願い。私…………殺して』
『出来ません』
『命令……お願い』
『出来ません。お気を確かに。少し疲れているだけです。疲れているだけ…………大丈夫です。明日になれば、楽になっていますから』
澪雨は後ろめたさを感じて生きている。
その後ろめたさが積もり募ったからこそ、彼女には強烈な破滅願望が秘められるようになってしまった。きっと、それがデスゲームで見せた側面であり―――今の、この状況。願ってしまったのだ。己の不幸を対価にのうのうと幸せに生きる人間の破滅を。この町を代償に。
「なあ…………澪雨。お前の気持ちは分からない。俺よりはずっと辛いって事しか分からない。だからって……これ以上やったらお前の方が壊れるぞ! 俺だってお前を心配して……いや、もうお前の気持ちなんかどうでもいい! 壊れたお前なんか見たくないんだよ!」
蟲を探せど澪雨はいない。俺から見つけるのは不可能なのか。これら不快な蟲は願いの塊。全てが澪雨の味方なら、性質を逆手にでも取らないと見つけ出せないと?
―――どうする?
澪雨の興味は。
澪雨の願いは。
まだ死にたくないと思わせるにはどうしたらいい。
「…………グオ!」
噛まれた時とは比較にならない痺れが痣を中心に広がっていく。視線を向けると、既に俺の左肩は真っ黒に染まって、影の内側で貪られていた。
「ぐぁ゙ぎゃあああだだだだだだだ゙だ!」
影が覆った部分だけを雑巾のように絞られ、そのまま何かに喰われている。手首から上の感覚がない。喪失は上まで広がってくる。
「…………だあああああああああああああ!」
ムカデの指輪を肩に押し当てると、ただ群がるだけだった蟲が一斉に左肩に向かって飛びつき、痛みと感覚の一切を切除した。痛みと恐怖で声も上げられない筈が、俺の身体の中の何かが異常反応を起こしている。今は、かつてない程、あり得ないくらいに興奮している。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ! 澪雨…………お前の、お前の願いは何だ! 俺が叶えてやる!救世主なんてとても……なれないかもしれないが。何だよ!」
地べたを這いずり、胴で蟲を轢殺してでも当てもなく進み続ける。澪雨には俺の声が届いている筈だ。届いていないと嘘だ。
「そうやって…………そうやって何でもかんでも隠し続けるのか頑固者! お前はそれでいいのかよ! 俺にとってお前は巫女じゃない。大切な一人の友達だ! お前みたいな奴を信仰した覚えなんかねえよ! 無知で恥ずかしがりで抜けてて……巫女なんかやめろ! お前向いてねえよ!」
澪雨との対話が不可能でも俺は一方的に話しかけられるし、アイツは知覚している筈だ。蟲は彼女と密接に繋がっている。今はいうなれば、繋いだ電話でマイクがオフにされている様な状態で。
喋らせたくなる様な事を言えば、反応してくれる!
「分かった分かった! 分かったよ! 俺も本音を言う! いいか、一度しか言わないからよく聞けよ! お前をドン引きさせたくないから言いたくなかったけどな! 俺も男だ! 凛の挑発には困ったし、無防備なお前にも時々困ってた! でもな、夏休みが終わったら次は秋になるよな! そうしたら見れないもんがある! そうだ、水着だ! 俺はまだお前の水着姿を見てない! マジで普通に見たいんだから―――もう止めろ! お前の水着を見なきゃ俺の夏は終わらねえんだよ!」
もう一度伸ばした手の先は、今度こそ人間の形を掴んだ。
力ずくでも蟲の中から引きずり出して、その身体を抱きしめる。
澪雨は、眠っていた。
それと同時に不自然なくらい、蟲が退散していく。あんなにあふれかえっていた蟲は、幻のように消えてしまった。町中からも。
「…………お前等みたいな美人と交友関係あるんだから。ちょっとくらい良い目見させろ、馬鹿」
「…………すぅ。すぅ」
泣き疲れ、だろうか。泣き腫らした痕が残っている。もしかしたらこの事も覚えているか怪しいが、とにかく一件落着だ。ああ恥ずかしい。あんな事言うんじゃなかった。慣れない事はするべきじゃない、モロに下心を口に出すとか。男としてどうなんだ。
「…………」
肩もろとも左腕を失ってしまったが、もうどうでもいい。『感染』は終息したのだ。
「ちょ、大丈夫!?」
蟲が引いた事で様子を見にやって来た壱夏が、変わり果てた俺の姿を見、流石に心配していた。性格に難がある彼女でも、級友が片腕を失っていると心配するようだ。当たり前か。
「貴方、何をしたの。ていうか痛くない訳?」
「……俺にも良く分かんないし、痛くない。でもほら、これで『感染』は終わった。時計もほら、四時四四分から動いてるし。空も明るくなってきた。もういいだろ。帰ろう」
「確かに、終わったね」
遅れてディースが物憂げな表情と共にやってきた。どう控えめに見ても、あまり嬉しそうではない。
「……ディース?」
「――――――そうだね、知っておいた方がいいか。まず一つ。馬鹿な奴らが馬鹿な真似をしてくれたせいで君達も引き下がれなくなった。最低でも現状維持には戻る筈が、ただシンプルに悪化してしまった。簡単に言うと―――」
「木ノ比良澪雨はもう巫女じゃないし、この町に新たな巫女が誕生してしまった。今となってはその子は―――人として存在価値が無い。蟲毒にくべる薪としてなら、最高峰だが」




