自愛を超えた愛
「うぅぅううううううわ」
澪雨の家……もとい木ノ比良屋敷は蟲の巣であるかの様に家の壁という壁を覆い尽くし、床という床を埋め尽くし、文字通り足の踏み場もない状態だ。いや、蟲を踏み潰しながら行けばどうという事はないが、心理的抵抗が高い。ゴキブリを一匹踏むだけでも嫌なのに、足を置くだけで十数匹潰れる様な状態だ。かといって一匹も潰さない様に動こうとすると、身体を上られてしまう。それはもっと嫌だ。
「無理無理無理無理無理無理。アンタ一人で行きなよ。私無理」
「じゃあここに残るのか?」
「それも嫌だけど! 無理なものはむううううりいいい! 気持ち悪いわ! 何でこんな事になってるの!? 他の場所探してからでいいだろ! 私は行かないわ! もうただでさえ蟲がキモイって言ってんのにこんな所に連れてくるとか」
「僕も嫌だなあ……でもここに来た事には意味があると思うよ。ほら、この蟲無秩序に見えて、家の敷地から一歩も出てない。家にまとわりついてるのは……暗くて良く分からないな」
忘れがちだが、今は夕方の癖に夜みたいな視界の悪さ。深夜と違ってライトの効果が半減していないからまだマシだが、そうでなくとも見通しが悪い。視界のない蟲には勿論関係のない話だ。どうしても身体に蟲が上ってきてしまう可能性が捨てきれず、壱夏に至ってはライトが常に下向きである。
「回り込んでいこう。座敷牢の方は無事かもしれない」
「座敷牢? 今どきそんなのがある訳?」
「今時蟲毒なんてやってるくらいだからこの町は全体的に遅れてるだろ。今更だぞ」
ネットの知識で悪いが、蟲毒が行われていたのは古代中国。何千年も前の話だ。それを現代でやった結果が、歪みに歪んで今の形となって……ただ引っ越したいと思っただけで具体的な場所は指定しなかった俺も悪いが、こんな場所だと分かっていれば引っ越してほしくはなかった気がする。
「遅れてる? アンタそれ本気で言ってる?」
「は? だって他の町じゃどう考えてもこうはならないぞ」
「事件も起きない、事故も滅多に起きない。起きても大概軽症で死亡事故も圧倒的に少ない。夜は出かけられないけどそれ以外は問題ないし。天に愛された町としてPRされてるの知らない? その上土地も家も超高いんだから。都心の倍くらい高いのよ」
「…………はあ?」
そんなに高いなら、何故俺の両親はこんな場所を選んだ?
常識的な範囲で俺の両親はケチだ。あそこに行きたいあれが買いたい。そういう願望は殆ど全て跳ね除けられた。理由は大抵俺の成績不振(と言っても中間くらいだが)。遊ぶくらいなら勉強しろが俺の両親の信条だ。それ自体が悪い事とは思わない。塾までは金がかかるからと行かせなかったし、逆に周りの子は塾に行っていたし。ただそれで俺が少し窮屈な思いをしていたのは間違いない。
ネエネが来てから、両親は甘くなった。ネエネの頼みは殆ど断らない。遊園地に行きたいと俺が言った時は即座に断ったのに、ネエネが言えば一も二もなく引き受けた。勿論ネエネ自身が行きたかったというより、俺がネエネに泣きながら愚痴っていたのが原因だと思うが。
俺は確実に、二人の息子だろう。しかし他所から来たネエネの方が明らかに愛されている感は、幼心に感じていた。それで一時は嫉妬していた事もある。姉弟にはよくある事らしい(と当時のクラスメイト)が、違うのはネエネと俺に血の繋がりが無い事。
俺の初恋は『アイツ』だと思っているが、それ以前に在り得たとすればネエネだ。
だから仲も拗れなかった。ネエネも俺が大好きだと言ってくれて、ネエネの前では両親もあまり怒らなかった。ネエネが庇えば両親もそれ以上はやめる。あの時は生活の全てがネエネに守られていたと言っても過言じゃない。だから頻繁に部屋に突撃して抱きついてでも寝たし、ネエネの部屋でこっそりおやつを食べたりもした。
―――と聞けば分かる通り、ネエネが絡まないと両親の対応は頑固だ。引っ越す際、トラウマを植え付けられた俺はなりふり構わず頼み込んだ。あの地域には居たくなかった。二人は。
『―――引っ越しか。いいぞ。引っ越すか』
そこまで土地が高いなら、何であの時は引き受けてくれたのだろう。考えてみれば、不自然だ。
「座敷牢はこっちの方向で合ってる? 気のせいかもしれないけど、なんか段々寒くなってきたんだよね僕」
「こっちで合ってる。座敷牢も蟲で覆い尽くされてたら……どうしような」
細かい所はあんまり考えていない。ライトの先に座敷牢が見えてきた。敷地が埋め尽くされているので当然かもしれないが、家の外壁は蟲で埋め尽くされている。
「おーい! 凛! 晴! 居るか!?」
「ちょ、大きな声出さないでよ!」
壱夏の気持ちは分かる。町内会の人間に気づかれたくなくてここまで隠密行動をしてきたのだ。しかし座敷牢に大人達が居る可能性は低い。まず内部がそこまで広くないし、初めて訪れた時も澪雨しか居なかった。
「日方先輩!?」
「ユーシン!」
ほら、居た。得意げな顔を壱夏に見せつけると、「うっざ」と言われた。
「中に蟲は居るか!?」
「蟲は居ないです! なんかその、この中だけ蟲が近寄らないって七愛先輩が教えてくれて! あの日方先輩! 緒切先輩とはぐれちゃいました! どうしましょう!」
「あー…………それは大丈夫だ! 俺の方で保護した! 所でそっちに澪雨は居ないか?」
「澪雨様は……居ないです! 日方先輩は何処に行ってたんですか!? 私、ずっと探してたんですよ!」
「ユーシン! ミオミオは町を一望出来る場所にいるんだにゃー! ちょっと言ってきてくれると助かるかも~!」
壱夏に視線だけでその場所を問い質す。こういう時は土地勘がある人間に頼った方がいい。巫女を見つけ出せればより平常点が上がると説明すると、彼女は渋々と言った様子で走り出した。
「分かった! 行ってみる!」
「――――頼んだよ」
蝶化ノ丘。
神社の正反対に位置する丘であり、今は展望台として切り開かれている場所。星を見る趣味もなければ縁もなかった俺が知っている道理はない。蟲毒の不思議な力で守られている町でもここは特別な場所らしく、一緒に星を見ると二人の縁が切れなくなるとか何とか。
そんな神聖な場所は、町のどの場所よりも明らかに蟲が溢れかえっており、控えめに言ってもここが蟲の巣である事は明白だった。
「う…………ああああ!」
クビガイタイ。
「ちょ、何! やめてよこんな所で! 蟲が……お前も手伝え!」
「……こりゃ不味いな」
首筋を生きた熱が蠢き、喉を掻き切らんと暴れている。体力に問題はないが、これ以上足を動かすには首から上を消し飛ばさなければならない。そうでないならここから一歩も動かない。蟲が嫌で懸命に俺を引っ張ろうとする壱夏をディースが抑えて。首筋に手を当てながら呟いた。
「日方悠心君。よく聞いてくれ。君につけられたこの痕は怪異に反応する。今まで、君を苦しませまいとお姉ちゃんが代わりに対処していたが、どうも巫女様は特異に変質しようとしている。だから聞け。彼女はこの先に居る。殺すのは簡単だが、もし救えるとすれば君しかいないだろう」
「ああああああああ…………ぅぁぁぁぁぁぁぁぁ゙」
「ちょっと待ちなさい。何に変質してるって?」
「特異。現実にそぐわぬ秩序で生きる存在。僕達がこの町を監視しているのは元々……っと。君の首についたそれは特異こと『虚食生命体』の痕跡だ。まだ君の声なら届く。首筋は熱いかもしれないが、行ける? 行けるかい?」
「………………」
首を縦に振る事も出来ないが。動かぬ筈の足を立ち上がらせる。それが今の俺に出来る意思表示。
「―――そう。なら止めないよ。大丈夫、君はあの強いお姉ちゃんの弟だ。出来る。そう思っているから、僕は敢えて連絡を遅らせよう。大丈夫、なるようになるさ。最善というならこれ以上はない」
「もう取り返しなんてつかないんだ。難しい事は考えず、救いに行けよ。僕はその、君の優しさを信じてるから」




