覆水命に還らざる
「…………クソ!」
声に出して周りに当たりたくなるくらいの、不快感。何とか気合で澪雨と来たあの小屋を見つけ出したのにもぬけの殻どころか、そもそも中の構造が違った。小屋は小屋であり、外観以上の面積を持たない。構造に反した老化は何処へやら、粗末な畳とくたびれた敷布団だけしかなかった。
―――ここに居ないならもう無理だぞ。
非世界にまだ滞在している場合、俺には手出ししようがない。もう一度入って叩き出そうにも俺はあの世界の法則を何も知らないのだ。ネエネも居ないから、今度は脱出出来る可能性が低い。幾ら探し出すにしてもリスクが高すぎる。
それに、居た場合はまだマシだ。いなかったらただ俺は戻れぬ世界へ死出の旅に出た事になる。最悪だ。ネエネからの指示もこなせないし、元の世界にも帰れないし。俺がやらなければという傲慢は正直ある。だって俺は澪雨を信仰していない。町全体が蟲毒壺となり果てた様なこの状況でまともに動けるのは俺だけだ。散々何かを踏み潰してきて気分は最悪だが―――それでも、俺がやればまだ最悪は防げると思っている。
「澪雨! 澪雨何処だ! 俺だ! 返事しろ!」
四時四四分。夕方とは思えない暗さの中で、俺は携帯のライトを頼りに会場を駆け抜ける。阿鼻叫喚の地獄も斯くやな地獄絵図は一向に終わらないばかりか被害を増すばかり。歩いていると、大量の蟲に身体を貪られ、声も出せずにのたうち回っている老人が俺に向かって手を伸ばしていた。
「………たぁ。たっすう……げええええええぼおおおおお!」
「…………ごめんなさい!」
食い破られた喉から滝のように蟲が溢れ出す。それとはまた別に、蟲とは無関係の病が併発しているのか、腕の痺れが激しくなっている。だがそれももうじき終わりだ。俺が手を差し延ばすよりも、蟲が身体を包み込む方が早い。
「みぼぉ゙……ざばぁぁぁあぁぁぁぁぁががあがああああああああああ!」
見たくない、立ち去りたい。だが人が死に際に挙げる断末魔の、姫様に言わせる所の欲深な人間があげる声というのは、こちらの神経を麻痺させ、その場に足を留めさせる様な効果があった。冗談では言っていない。ネエネや元カノの件で分かる様に、俺は心の弱い男だ。本性を見せれば誰もが幻滅し、離れていくような―――椎乃は、違うかもしれないが。
そんな俺が、悪趣味と知りながら。離れたいと思いながら離れられない。こうして間近で目に焼き付いた光景には、しかし発見がある。
蟲はまるで、意思があるように動いているという事だ。
単に群がって食べる訳じゃない。例えばこの老人だが、わざわざ背中を切り開いて脊椎を取り出し、椎骨を一つ一つ丁寧に切断していく。開いた背中から虫が入り込んで、次々と臓器を外に運び出して、それを顔の前でわざわざ蝕んでいく。中には明らかに俺の知らない臓器もあったが―――見間違いでなければ、肺が持ち出されていないままだ。蟲が群れて黒いから確かな事は言えないが―――健全な臓器をわざわざ壊しているのではないだろうか。
年齢が年齢だから全く健全な臓器という事でもないだろうが、例えば特別壊れているのが肺だったら今回の蟲達の行動は納得がいく。科学的にこの状況で老人が生存出来るとは考えにくく、蟲毒の力で強引にでも生き永らえさせ、目の前でわざわざ身体を喰べていると考える方が自然ではないか。
―――理由は分からないけどな。
そんな調子で臓器が終われば次は骨。最後には皮と肉だけになってふにゃふにゃになった老人の死骸を食べ尽くして、蟲達が散っていく。俺という獲物がこんな近くに居たにも拘らず。
「…………………………え」
それはおかしい。
壱夏の声を聞いていた時。もしくは姫様の近くに居た時。蟲は無差別に襲い掛かってきた。俺も一度、蟲にやられかけた。だが今の蟲はどう考えても俺の事など眼中になく―――。
「――――――待ってくれ!」
この蟲が発生した原因は澪雨がこの世界から消えて非世界に行ってしまったから。その解決策は澪雨にもう一度巫女としての役割を受けてもらう事。全てが澪雨に繋がっている。確証はないが、この蟲には彼女の意思が介入しているのではないか?
ムカデだのゴキブリだのミミズだの蟻だの、各々の生態とは全く間関係に並んで走っているせいで見分けがつきにくい。というか違いはない。ただ行動方針に違いがあるだけ。今見失えば、まず見つからない!
「澪雨! 頼む待ってくれ! 澪雨! おい!」
蟲の通路は人間が通るには適していない。壁や排水溝や罅の中などやりたい放題だ。その度に俺は必死になって周辺を走り回り、明らかにこちらを狙わないで何処かに向かう蟲を見つけないといけない。
「ハア、ハア、ハア、ハア…………とまれよ! 少しは、人の話を…………なあ澪雨!」
足を止めるのは得策じゃない。無差別に襲ってくる方の蟲は変わらず俺に付き纏ってくる。そこに関しては平等だ、真横で子連れの母親が子供だけを逃がして蟲を引き受けたとしても、あぶれた蟲が追い回す。奴らはいつまでも獲物に貪欲だ。
「ママああああ! やだ! やあああだああああ!」
「げぼぁだだあああ! や、いっテ! いけああああああああ!」
「ぎゃあああああああああいいあいああやややああああああ!」
―――母親を助けようとする無謀を止める余裕もない。根本的な解決の為に、俺はこうして何度も見捨て続ける。
「澪雨! やめろ! 何がしたいのか知らないが……関係ない人が大勢いるんだ! やめろ! お願いだから……この蟲を収めてくれ!」
「ふざけんな! お前等なら何とか出来る筈! 私が一般人だと思って甘く見てる訳!?」
「何だよ……僕は何も知らないんだ。避難させてくれって」
神社の方へと向かう蟲を必死になって追いかけていると、聞き覚えのある声二つが喧嘩まがいの口論をしていた。この状況ならたとえ知人でも見て見ぬふりをしたい所だったが、よりにもよってあの人が居るなら、話は別だ。
俺の足は蟲を追うのを諦めて、声のする方向へと向かった。
「ディース!」
「―――お、いい所に来てくれたねー、日方悠心君♪」
黒い浴衣を着て、喉に黒いチョーカーをしている以外はしなやかな体つきを惜しげもなく晒して―――と、そんな場合ではないかもしれない。ディースはテンプレートの様な笑顔を浮かべながら俺の背後にくるりと回ると、肩に手を置いて縮こまった。
「変な奴に絡まれて困ってたんだ。助けてくれない?」
変な奴、とは壱夏の事だが。別に間違ってはいない。デスゲームは存在しなかった体裁がある。
「邪魔しないで、日方。蟲を止めるにはそいつを従わせるしかないわ。それともあれか? アンタも一枚噛んでるとか? だったら納得もするけど」
「待てよ、話が見えない! この蟲は澪雨が居なくなったから出てきたのであって……」
「どうしてそんな事が分かるのかしら?」
「それは…………」
惹姫様の事を教えても、信じてはくれまい。怪しい情報源からの話は信憑性に欠けるだとか、そもそも俺のことも信じられないとか言い出しそうだ。
「とにかく澪雨を見つけなきゃ! お前も協力してくれよ!」
「それで平常点が貰える訳? 知ってるかしら。町内会のジジイババアが今猛烈な勢いで死んでるのよ。ただ止めるだけじゃ評価なんてされない。平常点を対価に救ってあげないと!」
「いい加減にしろ! 平常点がどうとか言ってる場合か! お前も蟲に喰われるぞ!」
「その為にそいつから聞き出すのよ! そいつが『時計』を持ってる! それがあれば喰われずにすむのなんか簡単なのよッ!」
「時計? ディース。それって」
「あー……いや、僕は持ってないよ。あの不審者がずっと身に着けてる筈。あ、アイツは使う必要とかないくらい強いけど」
「ネエネってどこにいるか分かりますか?」
「―――ああ、その言い方だと。気づいたんだ。残念だけど僕からは居場所を言えない。ただ、何にしても早く処置した方が良いよ。僕たちの組織は今回の騒動を重く見てるから―――」
「このままだと、この町一帯を殲滅する事になる」
「………………はあ!?」
現実味の無い、最悪の道。ここはいつから戦時中に戻ったのだろう。
「いやいや。え? え? ぐ、軍隊とか? 来たり?」
「残念だがその必要はない。君のお姉ちゃんが一人で行うからね。そんな事させたくないだろう。僕だって嫌だ」
「ちょっと待ちなさい。何の話かしら。私もここの住人だから、混ぜてよ」
「そんなに混ぜて欲しいならちゃんと俺の指示に従えるか!? ちょっと前から思ってたけど平常点平常点って何かにつけてうるさいんだよお前!」
「…………あっそ。一緒にプール掃除した仲なのに、信じてくれないのね」
「……………………変な事はするなよ。凛も晴もまだ見つかってないんだ。下手な事してあの二人を死なせたりしたら、本当に許さないからな」
「晴……あの子、見つかってないの」
壱夏には珍しく、心配している様子。あれだけ純朴だと嫌味で喧々した性格でも毒気を抜かれてしまうのだろうか。少なくとも晴の名前を聞いた瞬間、壱夏は平静を取り戻して、足元の蟲を嫌がった。
「心配って訳じゃないけど、死なれると気分が悪いから早く話して! ああもう、気持ち悪いのよこの虫けら!」




