罪なる子を愛すれば
「……逃げ切ったか。もしくは一時的に追跡をやめただけか」
「違いがあるのか?」
「追跡をやめただけならば、またいずれか襲ってくるだろう。大丈夫だお前が目を合わせていなければ、そんな事にはならない」
「…………ごめん」
「―――そうか」
ただそれだけで、不審者は怒るでもなく察してくれた。ここまで優しいと俺に対して協力的なのは何故だ。訳ありなのは分かるが、明らかにそれ以上の肩入れを感じると思うのは、普段俺が手助けする側に回っているから?
「ならば今度からは、お前にだけ襲ってくる存在が居るだろう。本来ここはお前の居るべき世界ではないし、私とも深く関わるべきじゃない。守ってやりたいのは山々だが、目を合わせた以上はお前にも頑張ってもらう」
不審夜は人差し指を立てて、ゆらゆらと振った。
「奴は目を合わせた生物を標的にする。以降お前の眼には、音もなく忍び寄る何かが見えるだろう。人によって見える形は違うが、そいつは私にも感知出来ない。仮面を外せば別だが」
「……ごめん。こんな事言う資格はないと思うんだが、じゃあ外してくれよ」
「それは無理だな。私だって趣味道楽でこれをしている訳じゃない。大体仮面を外せば……それこそお前を大変な目に遭わせてしまう。己の浅はかな行動にきっと後悔するぞ」
「何だよ、それ」
それはどうでもいい、と不審者は話を続けようとしたが、俺はずっと気になっている。仮面の中の顔を見たら死んだりするのだろうか。それとも胴体が犬で首から上が粘膜に包まれた卵の怪物が。
「え」
「ん?」
「後ろ……」
「!」
不審者が袖から出した仕込み杖で俺の身体を突き飛ばした時には遅かった。兆候もなく破裂した卵が弾丸のように飛び散って―――しかしその全てが俺に命中する。
「うぐッ―――あ」
人間は、別に重傷じゃなくても堪えかねる痛みがある。紙で少し指を切ったり、包丁が滑って当たってしまったり、たまたま落とした教科書が角で足に当たったり。最初に感じた熱はその程度の些細な物で……だからこそ、苦しむ事も許されず、ただ痛みを受け入れるしかなかった。
声が出ない事に気づいたのは、その後だ。
「――――――あ。 あ」
お腹に力を込めても喉を閉めても変わらない。痛みの発散として有効な方法がまるで使えないばかりか、声の出し方も段々あやふやになってきた。不審者が襲撃者の居るであろう方向を察して別方向に俺を背負って逃げていく。
「声帯に寄生されたか。非世界次第では治療出来るが、安心しろ。お前の知り合いに丁度良くこれを治療出来る奴がいる。巫女の事だぞ」
「…………! !!」
「大丈夫だ。死にはしない。死ぬ程痛いのは分かるぞ。私も全身に卵を産み付けられた経験があるからな。苦しいのにそれも伝えられないから同伴者も大抵真面目には受け取らない。見た目に変化もないし……」
痛い。イタイ。いたいいたいたいたいたいいたいたいあついあついあついあついあついあつい。
ただ怖くはない。恍惚感が湧き出るようだ。理由は分からないが、このままの方が良いと願う自分が居る。治療なんてとんでもない。ずっとこの世界に居よう。俺を運んでくれるコイツは敵だ。俺をこんな、シアワセな場所から遠ざけようとするなんて。
いや、違うだろ。不審者は良い奴だ。事情に雁字搦めにされているだけでその根っこは善人に違いない。
いや? イヤ。いや。イヤ。いや。イヤ。いや。イヤ。いや。イヤ。イヤ。イヤ。イヤ。イヤ。イヤ。
「喉、右腕、足首か。いいか、気持ちを強く保て。その卵が食うのは身体よりも先に人格だ。自分は確かに日方悠心だという確信を持て。それが出来ないなら―――お前が今一番会いたい人を思い出して、耐えろ」
会いたい人。
会えないから会いたい人。
会えなくても会いたい人。
会いたくて、会いたい人。
会いたいから会いたい人。
――――――ネエネ。
もし、これから先の人生に心残りが生まれるとするなら、ネエネに会えない事だ。椎乃から思い出を懐かしむ事は出来るが、俺は今のネエネに会いたい。何処で何をしてるのか。そもそもまだ生きてるのか。
俺の事なんて忘れているかもしれないが、それでも幸せに生きているなら。例えば何処かの町でその様子を一瞬だけでも見れたら満足なのに。
「――――――!」
前方から、またあの怪物だ。不審者は見えていないし、俺も声を出せないから知らせようがない。身振り手振りもこの激痛と恍惚の前ではまず身体を自由に動かせない。不審者の首を締めようとする人格を抑えるので精いっぱいだ。
ズキ。
「ガッ」
それ以上に大きな痛み。惑わされた正気を一瞬で元に戻さんばかりの、体内を貪られる痛み。それも左目から。
―――ここに来て、空腹かよ!
それは俺の身体にも由来していないし、人格にも依存していない。空っぽの左目には寄生虫が憑りついている。いうなれば外付けのパーツが暴走した様なものだ。俺の中に生まれたもう一つの人格もこの痛みに堪えかね、悲鳴を上げている。
「あがが。がががあああああああああああああああ! ああああぎゃああああああああああああああ!」
卵を産み付けられたからか、自分の体内で何が起きているのかが手に取るようにハッキリしている。眼窩から体内に潜り込んだ寄生虫は手始めに顔の筋肉を喰い始めた。食って、噛み切れなかったものはひっぱりながら体内へ。多少の骨は溶かして、啜るように削っていく。
俺の中身が、空っぽに。
声が出せるようになったのは、その仮定で卵が食べられたからだ。こいつはどうも、雑食らしい。怪物が今何処に居るかは分からない。左目は悪質で、ついでのように右目の神経を食べてしまったから。
これで何故気を失わないのか自分でも分からない。ただ真っ暗な世界に、俺の声だけが響いている。
「あががあがあああああああああああああああああああうぇ―――」
喘ぎ声の最中に、口に物を入れられた。それは何だ。とても柔らかい肉だ。自分の舌? その割には味覚が正常だ。美味しい。これは。何だ。
「……すまない。これを与えるのは、禁止事項なんだが」
視界が回復していく。肌の感覚も正常になってきたと同時に身体が高所から落下。尻餅をつくと同時に両目の視界が回復する。
エレベーターの中に座っていた。扉の外には犬と卵の怪物を、触手としか言いようのない肉肉しい物体を袖から伸ばした不審者が拘束している。また、エレベーターのボタンは既に『閉』と『%F』が押されている。
「現実に帰ったら……そうだな。仲間の所にでも合流してやれ。それから巫女もな。時間の流れは違うが恐らく手遅れだ!」
「―――gんw#”2”!」
エレベーターがゆっくり閉じていく。怪物が頭の卵を飛ばして、俺に産卵を試みる。不審者の仕込み杖が霧のようにぼやけたかと思うとその全てを弾いて、壁に卵をぶちまけた。速度の余波でフードが吹き飛び、腰まで伸びる長い黒髪が露わになる。
カチッ。
スイッチを切る、音がする。
エレベーターが完全に閉まる直前。拘束を脱皮で逃れて怪物が頭を挟み込んできた。
「うわああ!」
この怪物のメインウェポンは頭部の破裂。そしてここに逃げ場はない。今にも爆発しそうな卵の集合体は、背中から伸びた不審者の手に鷲掴みにされ、引っ張り戻される。
「行かせてあげて」
透き通る様な。今まで聞いたどんな声よりも、美しい声。怪物はその声に動きを止めて、大人しく頭を引っ込めて、今度は犬のように頭を爆発させながら不審者の顔にとびかかった。仮面が粉々に砕けて、今度こそ扉が完全に閉まるという時、その素顔が露わになる。
目が合って。彼女は。悲しそうに微笑んだ。
「ネエネ!!!!!!!!!」




