あの日あの時あの気持ち
「追い越したぞ、澪雨!」
「あ、ずっと潜ってたなんてずるい! 待って!」
潜水追い越し作戦は無事に成功した!
一切の反応を返さなかったら澪雨が心配してわざわざ戻ってきたのだ。そこを入れ違う形でおれが逆転した。ただ潜り方が甘かったので澪雨の足に触れてしまって、気づかれた結果が今だ。風船の海に長く浸かっていると嫌でも動き方を覚えてくる。この空間が何なのかとかも、今となってはどうでも良い話だ。
おれは心の底からこの勝負を楽しんでいるし、今は一刻も早くゴールしたい。
それ以外の事はゴールした後に考えよう。楽しむべきはこの瞬間。この世界。難しい事は必要ない。
「こらー! いかさまー!」
「相手の心配をするお前が悪い! 勝負は無情なんだよ!」
ああ、久しぶりだ。本当に、こんな素直になれたのはいつ以来だろう。童心に返るとはこの事か。今まで頭を悩ませてきたすべての悩みが馬鹿らしくなった。本当に、子供の頃だ。今日は何をして遊ぶ、明日は何をする。晩御飯は何か、おやつは何か。身近な状況が世界の全て、一時間先の事しか気にならない無邪気な衝動と欲求。
直ぐに戻らないと。
帰らないと?
どうでもいい。この勝負に全力を尽くすだけだ!
風船海を泳ぎ続けた先には、小さな孤島と浜辺が見えて来た。あれがゴール地点だろうか。風船しかないと思っていただけに、浜辺の白さにはいっそ感動さえ覚える。孤島の上には建造物も山もなく、ただ平地だけが小さく広がっていた。
「うおおおおおおおおお俺の勝ちだああああああああ!」
「ずーるーーーいいいいいいいいいいいいいあああああああああああ!」
浜辺に手が付いた。一瞬だけ俺が早かった。
「やりいいいい。俺のかっちいいいい!」
「やーーー! 負けたー!」
漂流物みたいに浜辺で寝転がっていると、風船海からズルズルと澪雨が這い出てきて、隣に並んだ。夢中で泳いでいたから気づかなかったがいつのまにかぶかぶかな制服を着用しており、またその身体は随分小さくなっていた。だからか、表情も年相応に幼くなっているし、笑顔も気兼ねない様子。
澪雨を触ろうとすると、おれの手も小さくなっている事に気が付いた。ああ、だから風船を掻き分けやすくなっていたんだと思った。それだけ。危機感とかはない。楽しかったし。
「楽しいね? 本当に帰る?」
「―――もうちょっと居ようぜ。なんか、楽しい気分だもんな」
「……ふふふ。そうだね、楽しいもんね!」
身体は疲れているのに、まだ遊びたい。だけどたくさん身体を動かして、何となく眠い気もしている。どっちを優先させたいかも判断がつかない。このまま寝転がっていればまだ遊べる気もしているし、おやつを食べてとっととおひるねしたい気持ちもある。
「日方って、そんな風に笑えるんだ」
「ん? ああ……そりゃ。楽しければ笑うよ。辛い事がなければ、ずっと笑ってたよ。おれも、楽しい事は好きだから」
「何がどう辛かったか、教えてよっ」
澪雨が身体を起こして、俺の上に覆いかぶさった。幼き頃の巫女様は、今の重圧や束縛を微塵も感じさせぬ晴れやかな顔で俺を見つめている。その印象はたちまちお転婆なお姫様だ。しがらみのない状況、自由を愛せる世界にこそ、彼女は恋焦がれていたのかもしれない。
「…………大好きなお姉ちゃんが居た。お姉ちゃんが居た日で楽しくなかった日はない」
「名前は?」
「知らない。おれはネエネとしか呼んでなかった。親もお姉ちゃんとしか呼んでなかった。それくらいどうでも良かったんだ。いなくなるなんて思ってなかったから」
「どうして居なくなっちゃったの?」
「…………新しい引き取り先が見つかったみたいな。お姉ちゃんとは血が繋がってなかったんだ。最初はどうも、預かってただけみたいで…………いつか会いに来るって言ってた。もう向こうはその約束を忘れたかもしれないけど、あの約束だけでおれは嬉しいんだ。大好きな人との繋がりだから」
「…………羨ましいなあ」
「ん?」
「日方なら知ってると思うけど、私にはそんな思い出ないの。大好きな人も、楽しい思い出もない。お母様もお父様もまるで仕事みたいにしか私と接してくれない。私は生まれた頃から巫女としての役目を背負わされて、ただその運命に準じてた。だから楽しくない、面白くない。日方が羨ましい」
「――――――今は、おれや凛が居るだろ」
「七愛は昔から私の家に仕えてるでしょ。私個人には日方しかいない。日方しか要らない。ねえ、貴方はどう? 私と居て楽しい? 私に会えて良かった?」
「…………ああ。なんだかんだ楽しいよ。危機的状況じゃなかったらもっと良かった。お前とはもっと違う形で、命に関わらない状況で会いたかった」
「………………私も。巫女なんてやめちゃって、日方とは対等に出会いたかった。それが許されたらきっと―――この気持ちにも、正直になれたのにね」
「?」
澪雨が唇を濡らして、ゆっくり体を下ろしてくる。両手を組むように抑えつけながら、唇同士を重ねた。
「巫女としての誇りも、責任も、要らない。だから、ね。日方。お願い。私の祈りを受け取って?」
「…………いの、り?」
「今まで言われるがままに、義務として振舞ってきた。でも今だけは。貴方だけの巫女として、貴方だけを想わせて? お願い」
私を、助けると思って。
蟲毒の巫女の、涙ながらのお願いを。
俺は。拒絶出来ない。
「………………勝手にしろよ。おれは、お前を巫女として扱わない。大事な友達だ」
「…………日方、このままずっと一緒に私と」
午後四時にも差し掛かる頃、お祭りは一般参加者と言えども違和感を感じるようになっていた。会場内を走り回る人間が露骨に数を増やし、その多くが還暦を超えた老人や壮年の人間である事を踏まえると、彼らの正体が町内会の重役である事は何よりも明らかだった。
「あれ~? なんか変な感じだねー。せっかくお祭りを楽しんでたのに。しかし組織も意外とちょろいよね、僕に浴衣を融通してくれるなんて。人生で八回もナンパされたのは初めてだよ」
「嬉しいのか?」
「……複雑な気持ちだけど。仕事する上では最高だね。所でこの慌ただしい感じは何?」
「町内会の人間が巫女様を探し回っているみたいだ。私も少し前に探してみたが何処にも姿が見当たらない」
「これ、イベント中止かな?」
「それはあり得ないな。ムシカゴにわざわざ穴を開けるなんて愚かだ。奴らは死に物狂いで巫女を探すだろう。ここまで見つからないとなると心当たりはもう一つしかないが―――さて、もう手遅れな気もしている。私の仕事にこの町を守るというものはないから見捨ててもいいのだがな」
「素直じゃないなあ。どうせなんやかんや守る癖に―――ぐふっ!」
隣のディースに肘鉄を加えた後、私は白い仮面を外して、フードを取った。
「ちょっと、顔パスで行ってくるよ。こっちの方は頼んだから」




