幼い『 』願望
「日方、起きて! ひーなーた!」
「…………何だ、ここ」
意識を失っていた訳じゃない。俺の意識は確かに連続しており、あの家と呼べるかも怪しい小屋の中で目を瞑っていた。そしたら突然俺の身体が宙に浮いて。いや、一分も経っていない。ほんの十秒程度だ。
そこには微塵の現実感もない、晴れやかな風船の海が広がっていた。
海は海だ。誇張表現一切なし。夥しい量の風船が敷き詰められた空間が何処までも続いている。だから俺が眠っているのは風船の上だし、澪雨は満面の笑みでぽよぽよとその上を跳ねていた。
「………………??????」
「ねえ、楽しい? 楽しいよね! 私は夢だったの! こういうふわふわした物がたくさんある場所で埋もれるみたいに遊ぶのがッ」
「い。え。あ……? いや、分かるよ。分かるけど……ここ、何処だよ」
「秘密の場所よ」
「お前にとってどういう場所かじゃなくて! 客観的に何処かって話だよ!」
「しらなーい」
あっさりそう言ってのける澪雨だが、そう言えば姿が違う。着物姿はどこへ行ったのか、今の彼女は紛れもない制服姿になっている。高校のと比べるとサイズも小さく色も黒いので、中学校の物か。何故中学校の物を今更?
「ねえ日方ッ、どっちが先にゴールにたどり着けるか競争しましょう!?」
「いや、そんな呑気な事言ってる場合じゃないだろ。今何時だ! 戻らないとヤバいんじゃないのか?」
「そういうのはここで気にしちゃだーめ……じゃこうしよう。私に追いつけたら、帰ろうよ」
「―――言ったな?」
「うん。ゲームスタートーーーーー!」
澪雨が前方の風船に飛び込むと、掻き分けられた風船が跳ねて、俺の上に覆い被さろうとする。何も説明がないまま始まった競争だが、泳ぎには多少自信がある。特に理由はない。何となく勝てるだろうという、ともすれば慢心にも思われる自己評価。
身体を支えてくれる風船から離れて同じ様に飛び込むと、風船に弾かれて再び表面に身体が乗り上げてしまった。
「うおっ!」
海は海でも、この海は風船の詰め合わせだ。液体の様にすり抜けたりはしないなんて、常識を弁えていれば分かる様な事をすっかり失念していた。それなら澪雨は何故泳げているのだろう。特に胸囲なんて、絶対に俺より大きいから突っかかりそうな物を。彼女は既に五十メートル程のリードを取っていた。ちゃんと泳いでいる。
―――地の利はあっちにあるのか。
ならばと先入観を捨て、俺は海を歩く為に立ち上がろうとした。しかし風船の上は反発につき足を安定させる事も叶わず、一歩踏み出した瞬間、風船の隙間に左足が突き抜けた。
パンパンパンッ!
「うお! ……おい澪雨! 手加減しろよ! 俺は初心者だぞ!」
「やだ~♪ だって私、日方と遊びたいもん! ほらほら、ゴール着いちゃうかんねー?」
「くっそ。この初狩り巫女が調子乗んなよお!」
足が沈んだのは幸運だ。幾つか風船も割れた事だし、これで足を掻き分ければ海として真っ当に進めるだろう。手足で掻き分けなければならない作業が水と比較しても勝負にならない苦労を伴うが、それでも今度は真っ当に、明らかに遅すぎる速度で進んだ。
―――正直、ちょっと楽しい。
俺もキッズパークなんかにある、こういう遊び場を一度体験したかった。両親は決して許可してくれなかったが、ああいうのは子供の頃の夢というか。具体的に何が楽しいのかを今考えても答えは出ないが、大切なのは『何となく楽しそう』という環境だ。澪雨が四時までに戻らなければ連れ出した事がバレてしまう。焦る気持ちと同居する様に、高揚感が意識を煽った。
「なあ! 何で凛は駄目なんだ! お前の護衛なんだから、アイツくらいは連れてきても!」
「凛は私の悩みに共感してくれないもの! あの子は大人だから、私と違って、現実逃避なんかしないでしょ!」
それは確かに。アイツの考え方は根本的にネガティブで、俺が疑念を抱く時は凛と何かしらやり取りした後が殆どだ。つまりそれくらい彼女は警戒心が強く、また現況において不信的な態度で見ている節がある。
ただそれは、澪雨を守る為に身に着いた思考ではないだろうか。護衛なら常に最悪を想定するのは悪い事じゃない。
風船の浮き上がり方から、澪雨はもう百メートル以上進んでいる。俺は風船に足をつけて滑っての繰り返しで上手く進めていない。
「うお!」
両足が風船の感触を見失い、身体が海に呑み込まれた。海が液体なら浮力を期待出来るが、風船という浮力を見失えば、俺の身体は沈むしかない。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
あんなに空は明るかったのに、風船の中には一切の光が届かない。身体が落ちているので重力はある筈だが、身体に空気抵抗を感じないので実際落ちているかどうかは不明だ。ただ虚空にぼんやり浮いているだけ……体感はそうなる。
落下している事は間違いないと思えたのは数秒後。俺の身体は風船に受け止められて停止した。
「…………なんか、変な明るさだな」
空気の確認も兼ねて独り言を呟いてみるが、やはり空気は存在する。空気抵抗を感じなかったのは気のせい……とは思わない。また、気になるのは物の見え方だ。俺には赤青緑黄白黒、色とりどりの風船が壁を作っている事は分かるが、それ以外は何も見えない。まず自分の手が見えないのだ。触ろうとすれば触れるので消えている訳じゃない。
「あれー? 日方諦めちゃった?」
まだ澪雨の声が聞こえる。俺が風船海のエアポケットに潜り込んだとは思っていないのだろうか。悪戯に心配をかけるような真似はしたくなかったが、もしこれで彼女の足が止まってくれるならまたとないチャンスではないか。
目の前の風船に手を突っ込み、身体を潜り込ませる。ウサギと亀ではないが、どうかそこで昼寝でもしていてくれ。とてもとても勝ち目がない。
午後三時。
結局椎乃と莱古さんは合流してお宝を探す様になりましたが、あまり良い状況とは言えませんね。
「くぁ~分からん! 分からんわこんなんッ。なーんかすっごいお腹が満腹なのよね。莱古ちゃんは大丈夫なの?」
「全然問題ないです! でもこっちはさっぱり……」
「…………食費大変そうだね」
「い、いつもこんなに食べてる訳じゃないですよっ? でも今日は私にとって大切な日だったからつい……」
―――町内会が不穏な動きを見せている。
早めに行かせたのは正しかったかもしれませんが……何処へ行ったのでしょう。澪雨様は行き先を自分で決めたいと言って聞きませんでしたが。町内会の人間の血の気がどんどんと失われていく様に見えるのは私だけでしょうか。
「二人共。そろそろユーシン探さない~?」
「え? ユージンを?」
「……そうですよ! 勝ち負けがうやむやになりそうですけど、日方先輩とまだ一緒に回りたいです!」
「…………そりゃ、私はいいけど。いいの? あっちは」
「チョイチョイチョイシーノ? こっちこよっか~」
自分の性格にそぐわないキャラ付けは疲れるんですよね。椎乃の肩を捕まえて、ほんの少し遠くへ。莱古さんは怪訝な表情でこちらを見ていますが、あの子は事情を知らないので、話に加える訳にはいかない。彼も無用な関係者は増やしたくないでしょう。
「町内会の動きがおかしいのです。何か嫌な予感がするので、協力してください」
「……ユージン、澪雨と一緒に何処かで遊んでるんだよね。それを探すの?」
「四時までに。さもなければ大変な事になります」
「大変な…………事?」
「―――貴方ならば分かるでしょう。毎年行われるお祭りで初めて巫女が不在になるのですよ? 最早それだけでも、緊急事態です」
蟲毒の町は孤独に依存している。
巫女様を失うという事は。蟲を飼う壺を取り払った様な物で。
要するに、本当にまずい。




