夜想曲は償いの味
「お、お待たせ。入ったら?」
風呂から上がった椎乃は不機嫌そうな顔を崩していなかったが、湯上りだからだろうか、上気した顔としっとりした髪が何やら言いようのない色気を生み出している。最初はそれに見惚れてしまって身動きもままならず、お風呂もそう長くは浸からなかった。
何故か?
「え、もう戻ってきたの? いつもより三分くらい早いな」
彼女が髪を乾かす前にもう一度その姿を見たかった。案の定、戻って来た頃には髪を乾かそうとする最中で、まだ潤いが残っていた。エアコンは間違いなくついているのに頬は上気したままだ。椎乃の活発さは年相応だと思うが、今この瞬間に限ってはとても高校生には見えない。
「な、何? じろじろ見て」
サクモ曰く、この町に住んでいるから特別どうにかという事はないらしい。すると凛が俺にキスをしたのは……何故だろう。アイツのせいで理解が更に向こう側へ行ってしまった。私がしたいと思ったから。そんな風に言われても分からない。脅しをしすぎて脅さないとまともに人を信じられなくなったとか?
「…………もう、分かったわよ。私の負け」
「え?」
「そんな遠巻きにずっと見られたら恥ずかしいのっ。だから―――もうこれでいい!」
椎乃はドライヤーを鏡台の上に置くと、床に座っていた俺の眼の前まで近づいて、膝を突き合わせるように正座した。
「ほら、好きなだけ見ればっ? もうやけくそよやけくそ。気が済むまで見ればいいでしょ!」
―――もしかして恥ずかしがってるのか?
ずっと見惚れている俺も俺だが、湯上りの現象というより単に恥ずかしがっているだけなのではないかと思えてきた。試しに顔を近づけてみると、頬に差した赤がより一層濃くなる。今日一日の散策で俺もすっかり思考まで疲弊している。だからかもしれないが、今は変に勘繰る事もなく彼女に対して可愛いという感想を抱く自分が居た。
或いはネエネの匂いが、俺を素直にさせているのか。
「……抱きしめてもいいか?」
「…………はい、ど、どうぞ」
濡れた髪が、仄かに潤いを含む肌を肌で感じる。大好きな臭いが鼻一杯に広がって、心が安らいでいく。精神が逆行し、まだ痛みも苦しみも知らないあの頃へ。
「…………ユージン。この匂い好きだもんねえ。心臓。凄くゆっくり」
「……いい匂いだな」
「私、ずっと思ってたわ。アンタは頑張りすぎなの。色々と。デスゲームの時だってそう。私を助ける時も……ずっと一人で頑張ってる。それは何で? アンタは確かに頼りになるよ。私もお姫様に言われたから違和感に思ったんだけど―――アンタ、昔から本当にそんな性格だった?」
「………………昔は、我儘だったよ。俺は甘えてた。ずっと一緒に居られるって。大好きな人と。離れ離れになって」
そう。子供のままでは居られなかった。俺がありのままに過ごしては、大好きな人が離れてしまう。その経験を経たからこそ。俺は変わらないといけなかった。ネエネの様に頼れる存在に、俺から離れたくないと思わせられる様な男に。
『悠心、かっこいいね!』
「おれは………………ただ」
「……ただ?」
「だれかに、すきになってもらいたかったんだ」
簡単な話だった。そして、不幸な結末だった。
俺は元カノの呪縛から逃れられていない。今もただ、好かれる為の自分を貫いている。頼れる男性を、強い男性を、相手に依存させる様な人間でありたいと。それは転校して過去を切り捨てた所で無くなっていなかった。
寂しいのが、嫌いなだけだった。
「……私は予言を受けた。悩みがあったの。それを口で説明するのは難しいんだけど…………アンタに対する気持ちは何なのかなって」
「…………?」
「ハッキリさせたかった。アンタといると楽しいし、気楽だったし。それが好きなのかそうじゃないのかも良く分からなかった。予言はそれを教えてくれたの。私の悩みを見抜いてね。あの時の私は勝手に悟った気になってたし、言いなりだった。アンタに気持ちを伝える為に死ぬ必要があるなんて……おかしいでしょ。まあでもさ、結果的には正しかったけどね」
「……ん?」
髪の毛から顔を離すと、椎乃はふにゃふにゃの笑顔を浮かべて、嬉しそうに笑った。
「だって私、もう死んだんだよっ。馬鹿は死んでも治らないなら、私はもう治ったって訳だ。だからこんなに……素直になれる。もういつ死ぬかも分からない瞬間だから、は、恥ずかしいけどね!」
「椎」
「ユージン。アンタがどうなっても私、アンタの味方よ。アンタが嫌悪してるそのかっこよさみたいな物が全部なくなって。アンタの悪い部分だけが煮詰まって抽出されたとしても、見捨てたりしないわ。幾らかっこつけてもね、自分の身体が大切なのは当たり前なの。それをアンタは、自分の身体や時間を犠牲にしてでも私を助けようとしてくれた。その頼れる側面が……昔の彼女に好かれる為だったとしてもさ。もうアンタじゃん。そんな気にしないでよ。アンタには悪い所も良い所もある。それぜえええええんぶ含めて―――友達なんだから!」
屈託のない笑顔に、俺は救われていた。その笑顔が大好きで、その笑顔を動機に復活させた。御大層な考えはない。理由なんて簡単でいい。俺は目を背けていた。逃げていた。だから理由が欲しかった。脅迫を望んだ。割り切りたかった。
自分でも気づかない内に、俺の動機は代わっていたのだ。
俺が、そうしたかったから。
それ以外の理由は、自分を認めたくないが為のダミー。元カノを忘れた事なんて一度もない。むしろずっと気にしていたんだ。だからそうやって、無暗に否定を繰り返していたんだ。
「……ありがとう、椎」
「ん。いいよ――――――もうなんか、いい感じだし。していい、わよ」
「は?」
椎乃が俺の身体を引っ張ってベッドの上に倒れ込む。髪が少々濡れている事も厭わず、自ら押し倒された様な形だ。
「だ、だからあ……! していいってんの、キス…………」
「え? え? え? え? な、何でそうなる……」
「キスしたいつったのはアンタよ! は、早く…………しなさいよ。な、何のためにお風呂入ったと思ってんの……?」
「え。あ。いや。い、言ったけど。それは別に……えっと」
そういう意味で言ったんじゃないと言いたかったが、泣きそうになりながら顔を赤くして目を閉じる彼女を見ていたらそうもいかなくなってしまった。言葉自体に嘘はない。キス出来るならしたい。元カノにも最初はそういう邪な目的があった訳だし。
「………………い、いいん、だな」
「もう! 早くしろ! ずっとこうしてんの……恥ずかしいんだからね!」
「じゃ、じゃあ………………………………え。でも本当に」
「~へたれ!」
再度唇を、奪われる。
一日に二人とキスをする日が来ようとは誰が思っただろう。それも、ちゃんと唇に。
「私がこんなに無防備に歓迎して抱きしめて匂いも好きな匂いに変えて料理作ったり一緒にゲームしたりデートしたりしてんのにうだうだうだうだ! へたれ! 恋愛弱者! 奥手! 鈍感! 臆病! でもそんなアンタが………………好きなの。よ。文句あるか!? 大好きなんだよばーーーーーーーーーーか!」
転がる様に体勢が変わり、何度も唇を奪われる。布団と身体で顔を抑えつけられ、椎乃は正気を失った様に接吻を繰り返す。
「ちょ、し、しい、マって!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさあああああい! 今夜だけでもアンタは私の物だああああああああああ!」
半狂乱の彼女を止める術はない。俺はあらゆる抵抗を諦めて観念し。全てを心のままに受け入れた。




