町は息を潜めて蠢いた
「ユージン、どうかしたの?」
「………………や、なんでも」
「……?」
心臓が、久しく感じていなかった緊張を覚える。試着室の中での出来事を誰も知らない。知らないからこそ、この感覚は独占されている。何だ、悪いか。俺には元カノは居たが、唇へのキスは一度としてやった事がない。つまりあれは事実上のファーストキス。俺は凛に、初めてを奪われてしまったのだ。
「………………なななな、なあ椎。お、おま。お前。キスってした事あああああるか?」
「はあ? 急に何言いだすかと思えば……ちょっと考えたけど、ないわね。何で?」
「いや……いや。いや。いや。いや…………」
脳みそが混乱している。よりにもよってあの凛が、自分からしてきたなんて信じられない。だってそもそも……そういう関係では……俺達は同盟相手であって、決して恋人と言える間柄ではなくて―――整理が追い付かない。
「……………………………………なあ、お前。さ。もしもなんだけど。もしも、もしだぞ? 深い意味はないんだけど」
「もったいつけるわね。何?」
「……こ、ここで俺がキスしようって言ったら、出来るか?」
「―――――――」
紙袋を抱えて心地よく帰路についていた彼女の頬が夕日混じりに赤く染まる。これまで誰も明言してこなかったが、椎乃とのこれは明確にデートだ。当然それに準じた話題を出せば雰囲気はどうしてもそちらへ流されていく。
「………………したいの」
「へ?」
「だ、だからあ。したいかつってんの! おんなじ事聞かせないでよ……は、恥ずかしいのよ」
――――――え?
質問に質問で返されて、俺の方も頭が真っ白になってしまった。どう返せばいいのだろう。YESだった場合とNOだった場合の答えしか用意していない。俺が? したい? したいのか? だが待って欲しい。俺が知りたかったのは、恋人でもない相手にキス出来るかどうかだ。一番気の置けない異性が居たから聞いてみたかった。男性と女性とでは感性が違う事だってあるだろう。もし椎乃が出来ないなら、凛が軽薄さを演じている内に本当に軽薄になったとも考えられるが、YESだった場合は……俺が慎重すぎる、という事になるのか?
「したいかだってば! 取り敢えずそれだけ答えろよ! こ、これ以上濁したら怒るぞー!」
「ええ。あ、いや。いや。いや。そ、そういう意味で。えっと…………あ。キス出来るなら、したい。けど」
頭がぐちゃぐちゃになって平静を装えなくなった末に、思わず口をついて出てしまった。椎乃は自分から聞いた癖に目を白黒させて、俺を置き去りにする様に早めに歩き出してしまった。
「―――あ、おい。待てよ!」
ショッピングセンターで買い物をしていたらもう四時だ。まだまだ外を出歩こうと思えば出歩けるものの、早く帰るに越した事はない。荷物も多いし。だからと言って置き去りにされるのは嫌だ。慌てて彼女の背中に追いつくと、背中越しにまた質問をされた。
「ユージン。今日家に泊まる?」
「は? ……まあ、夏休み中は泊まりたい、けど。無理にとは言わないが」
宿泊自体相手の家に負担が掛かる事だ。尤も、俺は家のお風呂やトイレを借りる以外では彼女の両親は煩わせていない。食事は椎乃に握られ、寝床は同じベッドで―――よく考えたら衣食住の全部を握られていた。
これはこれで椎乃の負担が大きすぎるので、無理にとは言いたくない。俺が彼女を頼る理由も両親と夏休み中に会うのは気まずいという情けない物からだ。後は単に……家でゲームを見ると、喜平の事を考えてしまうから。
「……夜。起きてるわね」
「は、はあ? まあ起きてるよ。お前と一緒に寝てるもんな」
「……左雲と電話するんでしょ。その後……遊ぶ前に、時間頂戴。こういうの、雰囲気とか空気みたいなのが大事だと思うから…………思う、んだけど」
「……?」
言いたい事が微妙に繋がらなくていまいち理解出来ている気がしない。聞きたい事は聞けなかったが、これ以上気まずい雰囲気にすると家から叩き出される可能性もある。これ以上の追及はやめておこう。
「あ、荷物持ってやるよ。重いだろ」
「…………ありがと」
ついでに機嫌も取っておこう。黙り込んだ椎乃は、何か怖い。大丈夫。家に戻ればいつもの彼女が戻ってくる筈だ。
戻ってこなかった。
家に帰ってからずっと椎乃はぎこちないままだ。いつもはどうせすぐに終わるからとお風呂の順番を譲ってくれるのに今回だけは真っ先に駆け込んでしまった。しかもいつもより長い。これは如何に。
「…………」
やっぱり質問がまずかっただろうか。俺も凛のせいでどうかなっていたのだが、それでもやっぱり言葉選びが最悪だったかもしれない。
―――何でアイツ、急に。
『――――――貴方を脅す理由があるとすれば、これで十分』
『私が、したいと思ったから』
『―――たまには、澪雨に譲りたくない時もあるの』
それに呼び捨てだった。
本来の凛は……ああなるのか? そもそも本来とは何だ? 凛は澪雨にも俺にもまだ元々の顔を見せていないのでは? 分からない。何もかも分からないが……今は考えるのをやめよう。サクモと電話しなければいけない。
『……もしもし』
『……おう。悪いな、時間取らせて。まずは……お前に謝りたいと思った。騙したかった訳じゃない。俺はただ……楽しく生きたかったんだ。お前達と、何のしがらみもなく』
サクモは最初に用件を伝えてから後で自分の気持ちや見解を述べる事が多い。今回に限ってそれが逆になっているというのは、ただならない事だ。用件もハッキリしていないのにまず謝罪をしたいと。そう思っているという事なのだから。
『謝るなよ。俺とお前の仲だろ。何に謝ってるのか知らないけど、滅多な事じゃ怒らないさ。で、何が話したい?』
『…………喜平な。お前がやってきてからゲームを始めたんだよ』
『ん? え?』
『俺からゲーム情報を色々聞いて、それっぽく振舞って。アイツは町内会に通じてた。言われて、お前を監視してたんだ』
――――――今度こそ、また、否、本当に。頭が真っ白になった。
呆然として、愕然として、それらの反応が統合された結果かえって無反応になっている。どういう顔をすればいいのやら。俺の聞き間違いでなければ、俺の聞き間違いであってほしかった。
『……………はッ? な、何の為……に』
『アイツは平常点をそうやって稼いでたんだよ、昔からな。お前に近寄ったのは単にお前が外の人間だからだろうな。外では夜に外へ出られるんだろ。テレビもインターネットもあるんだ。流石に知ってるよ……それに、今年の秋には修学旅行で外にも出るんだぞ』
『…………もしかして、俺が外に出ないかどうかを見る為か?」
『表向きはな』
『表向きって……町内会としては決まりを守ってもらいたいんだから裏なんてないだろ』
『平常点を稼いでるって言っただろ。問題が起きない方がいいのは保守的な話だ。それだけでも点数はある程度保障されるが、稼ぐとまではいかない。だけど問題を解決すればお前のお陰で決まりが守られた、ありがとうとなるな。点を求めても違和感がなくなる』
『………………おい、それって』
『マッチポンプだな。アイツはお前を外に出したがってた』
椎乃はまだ帰ってこないが、考えが変わったのでまだ帰ってこなくていい。鏡はないが今の俺は、きっと物凄い顔をしているから。
『いや…………いやいやいや。え? え?』
『本来の手順はお前にそれとなく夜間外出を唆し、一人で。それが無理なら自分が外に出てでも外出させる。勿論、町内会に通じてると言ってもアイツだって決まりを破った事になるが、知らぬ存ぜぬで何とかなる。町内会から見れば危険分子を排除してくれた有能な人材だからな。確信がないならどうにかする訳ない』
『待て! 待てよ! お前おかしいぞ! 自分が何言ってるのか……分かってるのか!? 友達を……何で、そんな風に。言えるんだよ。違う! そいつは喜平じゃない。アイツは気の良い奴だっただろ!』
『……聞くがお前、アイツと二人きりでゲームした事あるか?』
『それは…………お前とアイツが特に仲良しって感じだったし。誰か一人省くってのもな………………ん? でもそれって』
『ああ、おかしい。今みたいにお前はアイツを信用してる。だから二人きりなら何の問題もなかった。俺が邪魔者だったんだよ』
――――――。
『俺はお前がゲーム好きなのを知ってたから最初はそのつもりで近づいた。だが喜平が来た事で話が変わってきた。いつもいつも深夜までゲームをしてるなら分かると思うが、思考能力が落ちていくだろう。会話も反射的になって、全体的に惰性が続く。お前もし、そんな状態で外出を誘われたらどうしてた?』
当時―――いや、澪雨に出会うまでの俺は夜に外出してはいけないという禁忌を努力義務の様にしか考えていなかった。誰よりも信用していた喜平にそんな事を言われたら……一人だけで外出しろと言われたら疑うかもしれないが、一緒に何処かへ行こうと言われたら乗っているだろう。
ただ、この町の『夜』は異質なので流石に違和感くらいは覚えるだろうが、それでもやっぱり外へ出るだろう。
『だから最初に言った通りなんだ。俺はただ、何のしがらみもなく楽しみたかっただけ……それがいつしか、喜平の抑止の為だけに続いた』
『………………もう。もういい。やめろ。これ以上話さないでくれ』
これ以上喜平の闇について語られたら。アイツが俺を殺そうと(姫様と壱夏の情報を合わせると、平常点を下回った人間は死んで蟲毒の一部になると考えられる)していたのに。俺は、アイツを殺した事にどんな罪悪感を抱いていたか。それが全部。下らない。下らなく。価値のない物に。なって。
『…………本当に、ごめん。俺は、自分の為に黙ってた。お前達とのゲームは楽しかったし。またお前に裏切りを味わわせたくないと思ってた』
『―――じゃあお前、デスゲームの時殺してたのは。何だったんだ?』
『……記憶はないけどな。全滅するきっかけを作る奴を排除してたんだと思うぞ。だって嫌だろ。友達が死ぬの』
『おい、その答え方……』
記憶はないのに、デスゲームの事は知っている。
あまりにも不自然な、解答だ。
しかもその中身が更に不自然で。不審者達が築いた夢の世界は再現行動。同じ状況になれば同じ行動を取るというものだ。その答えを踏まえると―――まるでサクモは、以前デスゲームに参加していたみたいではないか。
『……まさか。持ち物パクった奴って。お前なのか?』
『お前を助ける為でも何でも、騙してた事に変わりはない。許せとは言わない。ただ。ごめん』
『どんな不幸があってこの町に来たか知らないが。お前にはせめて。幸せになって欲しかったんだ』
何を言えばいい。目を瞑ってよく考える。考えた末に何も思いつかない。
俺は一度として気の利いた発言が出来ない。
ならありのままの気持ちを。吐き出そう。
『……………………………サクモ。俺は怒ってない。むしろ守ってくれてたんだろ。感謝した方がいいだろ。それはさ。喜平の件はまあ、もういいよ。アイツは死んだし』
『……ん?』
『死んだ人間をこれ以上どうこう言っても仕方ない。騙されてたかもしれないけど、やっぱり俺も楽しかったし。だからそんな落ち込むなよ。元気出せって!』
『ああ…………ごめん』
『――――――もう、分かった! 分かった分かった分かった! そんなに償いがしたいなら俺の相談に是非とも乗ってくれ。この町にずっと住んでるお前なら分かる筈だ!』
『何だ?』
『この町の女の子って、誰彼構わずキスする性分とかあったりするか?』




