第捌集
「昨日は妖精族の人と知り合えたってのが一番の収穫だったな……」
昨夜、香砂は寧鶴と寧燕の兄弟に出会い、この文明レベルが古代の地球において、慶安時代の葦原国に住む妖精族がおかれている状況を知ることとなった。
人間は〈魔〉を封じていた門を開くだけではなく、妖魔を攫い、何かをしようとしている。
それだけでは飽き足らず、妖精族にまで手を伸ばし、一体、何を企んでいるのか。
「とりあえず、姉さんに外出がバレなかったのだから、それが一番。うん」
香砂は溜息をつきながら、ベッドから出た。
もうすでに昼前の時間。外は雨だが。
「いいねぇ。問答無用で外に出なくていい天気、大好きだ」
洗面所へ向かい、狩衣に着替えるなどして簡単に身支度を整えると、リビングへと向かった。
本当ならTシャツに短パンでいたいのだが、一応、見かけだけは寝殿造りの家屋であるため、万が一外から姿を見られた場合、時代に合わせた服装でないと困ることになるのだ。
雨のせいでそうそう外出している者もいないだろうが、念のため。
「おはよ」
「おはよう姉さん……え? 超正装じゃん」
連珠は目にも鮮やかな唐衣に身を包み、顔もばっちりと化粧を施していた。
「私は中宮様から呼び出されたからもう行くわね」
「え、どうしたの?」
「公主様の調子が悪いらしくて。ちょっと診てくる」
連珠は少し慌てた様子で玄関に向かい、牛車に乗って内裏に向かって出発していった。
「……毒かな」
この時代、主上の寵愛を受けている中宮本人を狙うと危険なため、その子供に毒を盛り、夫婦仲を冷めさせるという卑怯な手がよくとられていた。
中宮の娘は十六歳ですでに嫁いで入るが、主上にとっては最初の女児だった子だ。
他の兄弟たちに比べ、格別の寵愛を賜っていることで有名な公主。
ここで公主に万が一のことがあれば、主上の心はかき乱され、判断力が鈍り、政治すら滞るだろう。
「子供を攻撃するなんて、本当に浅ましいなぁ」
香砂の寝起きの頭でもわかるような悪事に気分を害されつつ、紅茶でも飲もうとキッチンに向かうと、水干を来た小舎人童姿のエースが玄関からリビングへと入ってきた。
「あらら、エースまでどうしたの?」
「明琰殿下のお使いの方から受け取ってまいりました」
「……え、何を?」
「報告書でございますぅ。昨日、不審な行動をしていた役人を一名捕えたようで。香砂さまに目を通しておいてほしいそうですぅ」
香砂は嫌な予感に突き動かされ、エースから書簡を受け取るとすぐにソファに座って読み始めた。
エースは何かを察し、そっとキッチンへ向かうと、香砂がやりかけていた紅茶の用意を進め、淹れたてを香砂の目の前のテーブルへと置いた。
(昨夜、戦闘の最中、武装もしていない文官が林へと消えていくのを発見。近くには魔物のものと思われる屍が数体。何をしているのかと問いただすと、しどろもどろになったため、明琰殿下の元へと連行。どうやら下位の文官のようだ。再度問いただすと、自害を試みたため、拘束。早朝まで監視を続けていたが、未だに何も話さずただおびえている、か……)
きっと下っ端なのだろう。秘密を護るためには、組織の最下層は死ぬしかない。
囚われの身から助け出す労力に存在価値が見合わないからだ。
(ただ、武装もしていないのにあの瘴気で満たされた場所にいることが出来たのは不思議だ。普通の、それも普段戦わない文官ともなれば、妖魔に対する防御の呪いもたかが知れている。やはり、何かあるんだ)
考えていても仕方ない。今日も偵察に行かなければ、と思い、書簡から顔を上げると、心配そうに香砂の顔を覗き込むエースが目に入った。
「ああ、ごめんよ。紅茶ありがとう」
「何かあったのですか? いつもダラダラと基本的にはやる気のない香砂さまが真剣な顔をされているので……」
「うっ、まぁ、その通りだけど……。あのさ、エースもしばらくは人間に擬態したまま過ごした方がいいかも。単眼で二足歩行の猫はこの国では珍しすぎるからさ」
「……わかりました。そうしますぅ」
「じゃぁ、わたしはちょっとやることがあるから、外出するね」
「……え! 雨なのに、ですか⁉ 香砂さまが⁉ 雨の日に⁉ 熱でもあるのでは⁉」
「ぐぬぬ……。普段の行いのせいで何も言い返せない……。でも、今日は仕方ないっていうか……」
雨が降ればどんどん痕跡は消えて行ってしまう。正直、また新たな不審者を探してその後をつければいいや、と思っていた香砂だが、役人を捕まえたという書簡を見て考えを変えた。
せっかくならば、命の保証を約束して真実のすり合わせがしたい。
そのためにはこちらがその〈真実〉をつかむ必要がある。
「じゃぁ、行ってくる」
香砂はもう少し上等な直衣に着替えると、すぐに外へと出た。
附子と麻黄が「お供しますか?」と現れたが、断った。
二人は〈神使〉ではあるが、人間か妖魔かと問われれば、どちらかと言えば妖魔寄りの存在。今回は一人の方が動きやすい。
「二人には姉さんの方に行ってほしい。公主さまの体調が悪いらしくて……。もしそれが妖魔由来の毒だったら姉さんでも苦戦すると思うから」
附子と麻黄はかしこまって一礼すると、音もなく内裏の方へと駆けていった。
この時、香砂はまだすべてが見えているわけではなかった。
人間たちが魔物の、妖魔たちの屍で何をしようとしているのかを。