第漆集
月明かりのない慶安時代の葦原国は本当に暗い。
内裏だけが多くの篝火に照らされ、妖魔を近づけまいという必死さが伝わってくる。
香砂は暗い方へ、昏い方へと歩を進め、今日の戦場へと向かった。
どうやら邪水の門は激戦地になっているようだ。これなら簡単に潜り込めるだろう。
息を殺し、戦場の周辺を回り、妖魔の死体に不審な動きをしている者を探す。
(……いた)
香砂は戦闘のどさくさに紛れて死体を運び出している人間たちの後をつけ、林の中へと入っていった。
(もしかして……わたしもつけられてる?)
一瞬呼吸を止め、そっと振り返ると、京劇の面をつけた二人組がつけてきているのが見えた。
一人は腹黒い悪人を示す白い面、もう一人は化物を表す銀色の面。
(京劇は千年くらい後の時代の演劇……。なんで古代文明の地球にその面があるんだ……?)
病み上がりのせいで頭がまわらない。その上、うまく気配を消しきれなかったようだ。
(まずいな。さすがに家の位置まではバレてないと思うけど)
家から出るときはいつでも警戒を怠らず、家族に危険が及ぶことのないよう、慎重に行動している。
油断したのは林に入ってからだ。月の出ていない夜で視界も悪い。
のどの痛みで聴力にも影響が出ている。葉がわずかに揺れる人為的な音に気が付けなかったのだ。
(撒くのは……無理か。あの二人組の方が土地勘ありそうだし)
邪水の門は家から一番遠く、この辺りは昼間でもあまり立ち寄らないため、香砂には土地勘がない。
(倒すしかないのか……?)
香砂は意を決し振り返ると、檜扇にダイヤモンドの呪いを纏わせ、戦闘態勢をとった。
「お待ちください、仙子様。我らは敵ではありません」
銀色の面をした人物が手を上にあげ、攻撃する意思はないと示しながら声をかけてきた。
「なぜわたしが仙子だと知っているのでしょう? それに、つけてきたのはなぜです?」
「我らも広義の仙子族でございます。そして、目的はあなた様と同じです」
「広義の妖精……?」
「名は寧鶴と申します。後ろに控えております弟は寧燕。我ら兄弟は葦原国においてもっとも古くからこの土地を護ってきた仙子族である木霊と、大陸から渡ってきた迦楼羅一族の混血にございます。棲み処は京から少し離れた山中にある聖域、〈鞍馬閣〉。我ら一族のこの地での名は、〈天狗〉でございます」
「て、天狗⁉ 物語に出てくる伝説上の存在だとばかり……」
「物語、ですか? 伝説だなどと恐れ多いことです。我らにとっては純血の仙子様こそ伝説上の存在に等しいのです」
「そ、そうですか……。でも、なぜわたしをつけてきたのですか? 同じ目的ということは、妖魔を攫う人間を調査しに来たのでしょう?」
「協力させていただきたいのです……いえ、協力していただきたいのです!」
天狗の二人は地面に片膝をつき、深く平伏すると、寧鶴はその理由を話し始めた。
「人間たちが誘拐しているのは妖魔だけではないのです。人間族と交流のある天狗族や妖狐族、狗神族、唐獅子族、星牛族や白蛇族までもが標的になっているのです。それも、若衆や幼い子供ばかり……。ここ数年、天狗族だけでも、すでに三百名行方が分かっておりません……」
「そんな……」
寧鶴によると、今名前を挙げた種族はすべて広義の仙子族だという。
(わたしが……自分が妖精だということを忘れて暮らしてきた間に……なんてこと……)
「お願いします仙子様! どうか、どうか力をお貸しください……」
寧鶴と寧燕は立てていた片膝も地面につけ、さらに深く、額が土にこすれるほど頭を下げた。
「あ、頭を上げてください。もちろん協力させていただきます。何から始めればいいか教えてください。それと、わたしのことはどうか『香砂』と呼んでください」
快い返事に勢いよく頭を上げた天狗の兄弟は、瞳に涙を浮かべながら香砂をうっとりと見つめた。
「香砂さま……。なんと美しいお名前なのでしょう! ありがとうございます! 一万人の兵を得るよりも強い援軍です!」
「お、大袈裟ですよ……」
香砂は改めて二人を見ると、その体格の良さに驚いた。
背は香砂よりも頭一つ分以上高く、忍装束の上からでも十分わかるほど胸板が厚い。
ひょろひょろなもやし体型の自分とは大違いだ。
「あの、一つ伺っても……?」
「何でも聞いてください!」
「お二人はおいくつなのでしょう?」
「私は百十九歳、弟は百十五歳です」
「ひゃっ……。丁寧な言葉はわたしが使うべきです。お二人は、その……」
香砂は驚いてうまく言葉が出てこなかった。
「いえいえ。これでも天狗族の中では若輩者です。香砂さまは外見の成長が緩やかな仙子族の純血でいらっしゃいますから、童子のような見た目でいらしても、もう二百歳くらい通ってらっしゃるのでしょう?」
なぜだろう、胃が痛い、と香砂は腹部を抑えた。
息を吸い、正直が一番だと自分に言い聞かせる。
「あ……えっと……。十五歳です……」
「……え?」
「す、すみません……」
寧鶴と寧燕は顔を見合わせ、顔を紅潮させた。
(やばい。怒ったかな……)
「な……なんということでしょう! こんなにもお若い、まるで生まれたてのような純血の仙子に会えるなんて! 生きててよかった!」
「……え?」
「あのですね、葦原国や他の国でもそうなのですが、基本的に純血の仙子族は六十歳を過ぎるまで聖域から出ることができないのです。若年期特有の不安定さが魔術に影響を及ぼし、他の種族を傷つけかねないからです」
「な、なるほど……」
「香砂さまは特別でいらっしゃるのですね」
「いや……そういうわけでは……」
どう説明したものか、と香砂は苦笑いしながら考えを巡らせた。
実は他の周波圏の地球出身で、さらには〈取り替え子〉であり、つい最近ちょっとした記憶喪失で自分が妖精であることを忘れていた、などと、言える雰囲気ではない。
周波圏によって妖精族でも伝統が違うなどということも今知った。
これ以上衝撃的なことを言うと誤解を与えかねないので、もう自分に関する話題には触れないようにしようと香砂は心に決めた。
「えっと……寧燕さんは……」
さきほどから一言もしゃべっていない寧燕に話しかけてみようと声をかけたところ、少し空気が変わった。
寧鶴が悲しそうな目で寧燕を見つめ、困ったような、優しい声で話し始めた。
「小燕は……」
呼び名に『小』をつけている。百歳を超えていても、兄にとってはいつまでも〈可愛い幼い弟〉だということなのだろう。
「小燕は、人間に攫われた被害者の中で、唯一帰ってきた生還者なのです」
こくりと頷くと、寧燕は面を脱いだ。
可愛らしい顔立ちに不釣り合いなほど大きな傷が口を裂くように真一文字についている。
寧燕はゆっくり口を開け、そっと閉じた。
「舌が……」
「見つけた時、小燕は舌を半分切り取られ、声帯を失った状態でした」
そう言うと寧鶴も面を脱ぎ、精悍な顔を見せてくれた。
少し困ったような顔で、そっと左腕の袖をまくった。
「金属……。義手、なんですね」
「そうです。小燕を救い出すときに、人間に切り落とされました」
寧燕は今にも泣きだしそうな顔で兄の冷たい腕から目をそらすと、香砂の手を握って再び頭を下げた。何度も、何度も。
「寧燕さん、わたしがどのくらい力になれるのかわかりませんが、出来ることはなんでもします。一緒に解決していきましょう。さぁ、頭を上げてください」
香砂は寧燕の手を握り返し、優しく声をかけた。
もっと早く自分が妖精族だと気づいていれば、きっとこの地球にいる、慶安時代の葦原国の妖精族を探したかもしれない。
同族の交流を持つために、聖域を訪ねたかもしれない。
でも、出来なかった。記憶を失っていた。それも、自分の不注意で。
これ以上、自分の失敗で何かの罪悪感を背負うわけにはいかない。
それに、香砂の家族は〈人間〉だ。
〈仙子族〉対〈人間族〉の争いには巻き込みたくない。家族を誤解されたくない。
そのためにしなくてはならない戦いならば、喜んで引き受けよう。
香砂は涙を流しながら手を握る寧燕の、幼さが残る顔立ちを見ながらそう思った。